1.招かれざる客
お待たせしました、後半開始します。
本章でも読む時間や場所を選ぶ描写がありますのでお気をつけください。
その日、自宅へと戻った楊玄徳はひどく驚かされた。
帰宅したとたん、この主人の周りに家人らがどっと押し寄せてきたからである。
いつものごとく夜分遅い時間帯に戻ったというのに、そこには昼日中のみ通いで勤める者の姿もあった。そして皆が玄徳の姿を認めるや、一様に安堵し、今このときに深く感謝するような敬虔な面差しになった。幾人かは泣き崩れ、同僚になぐさめられる有様だった。
今日、ここで何かがあったのだ。それが玄徳にもはっきりと分かった。当然それは宮城にて李侑生の語らなかった一部でもあるのだろう。
だが、語らなかったということは、この家に最悪の事態は起きていないということ。
ざっと家人らを眺めて、どの顔にも悲壮さだとか痛みをこらえる辛さだとかが見えないことを玄徳は確認した。どうやら、ひとえに主人の帰宅を乞い願っていただけのようだ。
だから玄徳はつとめて普段どおりに、彼らが望むとおりに柔らかくほほ笑んでみせた。
「――さあ。話を聞こうか」
その一声に、陽だまりのような主人の温かさに、家人らは一斉に歓喜の涙を流した。
*
これとほぼ同じ時。
李侑生は自宅にて最大かつ最強の宿敵と向かい合っていた。
退城し、侑生はすぐにでも紫苑寺に行くつもりであった。早く最愛の少女に会いたい、誠心誠意労わりたい、そう思っていた。
だが、寺に向かう前には身にまとう官服を脱ぐ必要があった。このような身元が一目で露見する派手な恰好で少女を隠す寺に行くわけにはいかないからだ。なので部下である高良季を引き連れ、いったん自宅まで戻ってきたのである。
帰宅すると、家人の一人に「先ほどからお客様がお待ちです」と告げられた。侑生にとって、寺へ行く時間を遅延させるような客人の到来は非常に迷惑だった。だがその知らせ自体には大して驚かなかった。客人の正体の中にその人物を推測していたからだ。それゆえ用心し、良季を残して一人で客間へと入った。そして、待ち人はやはりその人物だった。
芯国の大使副官、いや、第七王子であるイムルがそこにいたのである。
顔を上げたイムルに、侑生は青く燃える瞳で見つめられた。
この屋敷――高位である枢密副使が住む家であり、かつ、本件の備えの一つとして外塀の周囲に武官を配置したばかり――に堂々と入りこんだだけあって、イムルは非常に穏やかな面持ちで、なんら違和感なく静かにそこに座していた。とってつけたかのように湖国の服を身に着けてすらいる。そのため、風貌だけならばどこかの商人のように見えなくもなかった。客間の手前にも従者らしい芯国の人間が二人控えていたが、彼らもまた丁稚か何かのように凡庸そうな者たちだった。鄭古亥の道場襲撃時に伴ったという屈強な武芸者とは明らかに違った。
だが、向けられたイムルの瞳だけは、己の内を雄弁に語っていた。
彼は闘志を胸に抱いてここに来ている。
「このようなところにお越しいただけるとは恐縮です」
やや目を細めて、侑生は笑みすら浮かべてみせた。
するとイムルも人好きのする笑みで応じた。
「私のほうこそ夜分に突然お邪魔して申し訳ありません」
その声音は昼間に対面したときよりも高いものだった。先日、芯国の巨船に交渉に出向いた際の彼と同質の、明るく清々しいものだ。
イムルは完璧に己の内にある二面性を使い分けている。
自分と同じような人間がいるのだな、と、侑生はこのようなときだというのに感心してしまった。だが、もしもこの異国人が自分と同じような理由で同じ性質を身につけているのだとしたら、非常にやっかいな相手だという証明になるのだろう。二つの顔を使い分けなくては生きることすらままならないような、心の闇を抱えている男だということになるからだ。ただ演技がうまい者であればどうともで扱えるが、おそらくイムルは自分寄りの男であろう、そう侑生は直感した。
家人が茶を並べて退出するまで、二人は表面上は笑みを浮かべながら黙ってお互いを観察した。だが、室内に二人だけとなり、目の前に置かれた茶の椀を取り上げるや、イムルの様子が一変した。
「俺がここに来た理由は二つ。あの女を渡せ。そしてあの男の居場所を教えろ」
そう言い放ったイムルの声調は一段階低いものに変貌していた。一言一言区切るように、滑舌よく発したどれもが、命じ慣れたイムルの性格どおりのものだった。そして最後に、この青年の野望を映し出すかのようにイムルの赤い舌が敏捷に動いた。まるで深い闇の中でうごめく蛇のように。
その舌が珪己の首筋を舐め上げた場面が突如思い出され、侑生は机の下でそっと爪をたてた。
手のひらに食い込む鋭利な痛みに意識を分散させていく。だが表情は変えない。この男の前では心の動きは見せてはいけない。
「あの男とは?」
うそぶく侑生に、イムルの目がすうっと細められた。
「武人のことだ」
「武人?」
「……俺の首を絞めたあの男だよ」
「はて。あの男はただの雇いの男であって武人などではありませんが」
そう答えた瞬間――。
イムルの手の内にあった椀が破裂した。
イムルの腕も手のひらも、一寸足りとて動いていないのに、その手の内にあった椀が粉々に砕けたのである。
その現象、自然に椀が破裂したかのように錯覚するほどだった。だがそのようなこと起こるはずはない。実際には、イムルが怪力でもって握りつぶしたのである。白磁の厚い陶器は安物のように音を鳴らして砕け散り、中に入っていた茶はしぶきをたてて飛んだ。
皮膚がただれてもおかしくないほどの熱い茶を供したはずであり、侑生の前に置かれた椀からは今も白い湯気がもくもくと立ち昇っている。だが茶に濡れた手をイムルは意に介する様子もない。触感を失っているかのように、己の手を見ることも動くこともせず、侑生を睨み続けている。
その目に、明らかに殺意が見え始めている。




