7.愛を伝え、愛を与え、幸せを与えるため
珪己は今、混乱していた。
頭の片隅でちらと思ったことから、心にかかる小さなことまで、口が開いて勝手に言葉になっていく。……止めることができない。
「私ずっとこうしていたい……。陛下とこうしていたい……。もう会えなくなるなんて、い、嫌です」
突然の告白に、背をなでる英龍の手が止まったが、珪己は気づくことなく自分の想いを語っていった。
「自分の生きる道は自分で選びたい、定められた道ではなくて自分で選んだ道を進みたいんです……。わがままかもしれないけれど……でも、自分の好きなことをして、自分がいたいと思う場所で暮らしていたいんです……。高貴な方に本気で望まれたら断ることはできないってことは分かっているんです。ですけど、でも、私……私……」
珪己の語る心境は、つい最近英龍が感じた苦い思いと同じだった。
芯国の重臣を招いた宴の夜、『あの琵琶奏者を寝所に連れて帰ることはできますか』と皇帝である自分に対して臆面もなく言ってのけた青い瞳の青年――。
あの時、英龍はすぐには反論できなかった。
本当はそんな自分が卑しく思えて仕方がなかった。
国と楊珪己を秤にかけるような自分が、そういう状況に陥った自分が、不快で仕方がなかった。
「でも私、それでもやっぱり嫌なんです……。私は枢密使の娘だから、望まれたところに嫁ぐべきだって分かってるんです。わ、分かってるんです。でもやっぱり嫌で……嫌なんです……」
苦しげにうめく腕の中の少女の姿は、正直な己の本心を全身で語るかのようだった。そしてそこには、荒々しくも瑞々しい、若者特有の、最良の生を求めるがゆえの苦悩があった。現実を理解できるのに直視したくないというのは、愚かさではなく、生きることへの情熱があるからこそだ。成人した者の多くが達観という名の諦めによって失っていく情熱の炎が、この少女にはまだある。
――突如、英龍の中に二つの人格があらわれた。
一つは皇帝としての自分、物心ついたときから意識している自分だった。
清く正しい皇帝として、この一人の民を救いたい。この人格の己はそう強く願っている。たった一人の民も救えずして、自分は皇帝であるのだと、この先自信をもって言えるのか。……いいや、それは無理だ。英龍はすでに知ってしまった。この国は多くの民の存在によって成り立っており、自分や一部の権力者の所有物などではないことを。そして、民とは一人一人が違う存在で、また自分と同じ悩み苦しみ生きる者なのだということを。そういった個々人の辛苦を丁寧に取り除いていくこと、それこそが皇帝、この国の頂点に立つ自分に課せられた責務ではないのか?
そしてもう一つは一人の男としての自分、まだこの世に誕生したばかりの自分だった。
今夜ここに来る前に異母弟・龍崇に打ち明けたとおり、英龍はこの少女のことを特別な存在だと認めている。それはつまり、一人の女人として、男と女の関係として好いているということだ。その女人が今こうして、自分に身を寄せて心の奥底までをもさらけ出すように吐露している。苦しいのだと訴えている。そのような女人をどうにかして救い上げたいと思うのは、男として当然の感情ではないか?
英龍の中にあらわれた二つの人格は、それぞれが別の方向から現状を解明し、そして奇しくも同じ結論に至った。
『楊珪己を救いたい』
それだけがはっきりと英龍には分かった。
ではどのようにして彼女を救えばいいいのか。
こうも複雑かつ利害のからむ相手国の男から、どのように逃れさせればいいのか。
急を要するこの難題をどう解決すればいいのか。
かつ、二つの人格のうちの未熟な方が、現れた途端、声高にもう一つの願いを主張してくるではないか。
『楊珪己を己のものにしたい』と。
こうして揃った二つの願いを同時にかなえる方法は――実はただ一つある。
楊珪己がこの場で語らなかった願いを損なうかもしれないが――確かに一つある。
英龍は決意し、高鳴りだした胸を落ち着かせようと息を整えた。だが常であればわずかな時で平常心に戻るはずなのに、余計に早鐘がその音をうるさく響かせるだけだった。
たとえば政務の場におけることならば、今では通常業務であり慣れすら覚えるくらいで、英龍は緊張とは随分無縁だった。だが今のこの状況、これからしようとしていることは、英龍が心から、そして肉体的な衝動によって引き起こす初めての行為だった。
英龍は息を止め、そして思いきって珪己を抱きしめた。だが珪己は泣き止む気配もなく、英龍の胸にもたれ、逆に精いっぱいに頼りすがりついてきた。その様子にあらためて心をうたれ、すると素直にこの想いが胸に湧いてきた。
(ああ、この娘のなんと愛しいことか……)
英龍が見てきた楊珪己とは、闘いの場において、その身を厭わず突き進む剣女そのものだった。
偽りの勅旨をもって東宮に招いた初春の夜、英龍が室に入ると、頭を下げた珪己の体は小さく震えていた。だが震えるその体で菊花のために東宮まで訪れる心の強さが、英龍は一目で気に入ったのだ。
そう、思えばあの夜から、英龍は珪己を好ましく感じていた。幼馴染である胡麗を傷つけ乱れてしまった心は、女人に対して距離をおくことで平静を保ってきたというのに、なぜか珪己のことは最初から受け入れることができていた。だからこそあの夜、初対面の少女に自分のこれまでのことをつまびらかに語ってしまったのだろう。側妃としてしまった幼馴染の胡麗との関係、そして麗を抱いたことで誕生した愛娘の菊花のことについて――。英龍は今、そう思う。
王美人にとらえられていた珪己を救いだした夜、英龍は安堵で思わず珪己を抱きしめていた。皇帝の証である黄袍をまとったままで、大勢がいる場で、あのように女人を抱きしめたのは初めてのことだった。緊迫した状況であったとはいえ、皇帝としては短慮なその行動、だが英龍は自然とそうしていた。そうしたいと思ったから行動したのだ。
鏡楼での再会においても、簪一つで己に立ち向かってきた珪己は、視線の動きから爪の先まで、すべてが武芸者そのものだった。どのような敵かも知らないというのに、宮城に入り込むような不審者など強者にきまっているのに、このまだ年若い剣女は逃げることなく闘うことを選んできた。
この日の出来事は英龍に不思議な驚きをもたらした。
そして珪己は英龍の皇帝としての罪の一つ、八年前の事変を寛大な心でゆるした。本当はゆるせることではなく、だからこそ珪己は武芸者の道を選ばざるをえなかったのだと思う。だが珪己は英龍をゆるし、それからは英龍の願いのままに、一人の人間として英龍に接してくれている。……たとえ皇帝がそう命令したからといって、そう容易にできることではないというのに。
そして今、この少女は自分とともにいたいと泣き、その心をさらけ出してくれている。救いを求めてすがりついている。
そのような少女のことを、どうして愛しいと思わずにいられるだろうか?
『あなたには心を分かち合える人が必要です――』
龍崇が言っていたことを思い出す。
英龍もまたこの少女に対してそう思っていた。
「……楊珪己、余にそなたの心を分かち合わせてくれないか」
英龍の言葉は、この場にふさわしいささやくような声量だった。だが青年らしい明朗な声はややかすれ甘く震えていた。
「そなたの心を癒したい。余はそなたを救いたい……」
英龍はその頬を珪己の頭にすり寄せた。散々泣きじゃくっているせいで、珪己の全身から熱い熱が放たれている。頬に珪己の熱がじかに伝わってきた。
その熱が、英龍の奥底に長く潜んでいた男としての欲を浮かび上がらせていった。
それはこの部屋の隅で今もまだ燃え続けている炭火のように、ふうっと息を吹きかけるだけで赤々と燃え立つ炎を生むかのごとく、芽生えた。そしてそれは一匹の龍となって英龍を支配していった。その緊縛は未経験だからこそ、耐えようもないほど強力に感じられた。
あまりに強い欲に、だからこそ英龍はもう一度大きく息を吐いた。
今抱きしめているのは、初めて愛しさを覚えた少女だ。
だからこそ衝動ではなく、己をもって、誠実さと心からの慈しみをこめて触れたい。
胡麗のときのように、これからする行為を今また傷つけるための手段へと貶めたくない。
これは愛を伝え、愛を与え、幸せを与えるための行為なのだ。
そうでなくては意味がない。
触れることでしか伝えられない心がきっとある。
そうでなくてはおかしい。
愛しいからこそ触れ合いたいのだ。楊珪己だからこそ触れたいのだ。
自分にはきっとこの少女を救いあげることができるはず、自分にはきっとこの少女を救う力があるはず――そう信じたい。
皇帝としての半生によって尋常ならざるほどに鍛え上げられた自制心は、英龍が望む程度の平常心を取り戻させた。
「……余を信じてくれ」
珪己を抱きしめたまま、英龍はそっとその身を寝所に横たえていった。
「余が必ずそなたを救う。だから余のことを信じてくれ……」
ぼんやりと泣きはらした目で見上げてくる珪己を、英龍は己の中からあふれ出しそうな熱と戦いながら、それでも愛をこめて見つめ返した。
「……そなたのことは余が護ろう」
そう言うと、英龍はその顔をゆっくりと少女の顔に近づけていった。
これにて、本作の前編は終了です。
後編は準備が整い次第投稿していきますが、少しの時間が空きますことお許しください。
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