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剣女列伝 少女篇5 ~ただ君を乞う~  作者: アンリ
第七章(前半終了章)
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6.ここにいるはずのない二人

 よう玄徳げんとくこう良季りょうき、それに侑生ゆうせいの三人は、雨の中を正門へと向かっている。そのすぐそばには官吏らの愛馬や乗り物が預けられる場が設けられており、楊家ようけ李家りけの馬車も並んで待機していた。このような悪天候の中、しかも夜分に待たせ、申し訳ないことをしているとは重々承知している。だが侑生の心はひどく軽やかになっていた。その背に大きな翼を生やし、今いる宮城からあの山の向こうへと飛び立たんばかりに――。


(ああ、早く珪己けいき殿のところに行きたい……!)


 そわそわとした高揚感をどうにか隠し、侑生は努めて冷静なそぶりで歩いている。が、その後ろを歩く彼の上司と部下はといえば、そろって顔を見合わせ、同じことに合点がいき、そっとほほ笑み合っている。確かに侑生は己の内面を隠すことに長けている。だがそれはこの二人に対してはいつも有効とはいえないのだ。心から相手を想い親身に接すれば、二人にも熟練者の心の隙間をのぞくことくらいはできる。


 もちろん、侑生は珪己の身に生じた数々の出来事を覚えている。芯国の王子に誘拐されたことも、その胸元につけられた幾多の痕も記憶に残っている。だが、それでも、玄徳が自分の告白に耳を傾けてくれ、また玄徳の手腕によってあの手ごわい黒太子の策略を一時思いとどまらせることができ――そういったことが、今また侑生に失ったはずの美しい未来を想像させるのだった。


 珪己が他の男に汚されたという推測は、侑生の愛を減ずるものではなかった。確かにその証拠を目にして驚きはしたが、それは珪己の身や実父の玄徳の心中を慮ってのことであって、侑生にとって、愛とはそういう純潔さを必要とするものではなかった。


 確かに侑生は珪己を求めている。手で、唇で、全身で彼女に触れたいと願い、腕の中にかき抱きたいと願っている。たぶん、いや素直にいえば、あの芯国の王子と同じことを珪己にしたいという欲もある。それはある意味、人が持つ普遍的で自然な欲だ。


 だが珪己がそれらの行為に抵抗があるというのであれば、無理やりしたいとまでは思わない。侑生にとってはそういう欲でしかなかった。たとえば、珪己と一生そのような行為をすることなく、身体的な意味では結ばれないとしても、それはそれでかまわないとも思えている。聞く人によっては眉をひそめるか信じられないと驚くだろうが、それが侑生の価値観だった。


 侑生が望むこと――それは愛する人と心を通わせ、心を通わせることで愛を分かち合いたいということ。ただそれだけだった。


 すぐそばにいてその存在を確かめたいということと、存在を確かめるために触れたくなるということは同じようでやや違う。


 少女が自分の愛に答えてくれるのであれば、そのような確認をする必要などないのだ。言葉もなくてもいい。


 少女が己を求めてくれればそれでいい。


 心を感じられればそれでいい――。


 だが今、珪己は身も心も傷ついているはずだった。芯国の王子が今後どういう行動を示してくるのかも不透明で、珪己を譲渡するよう湖国に通告してくる可能性は非常に高い。


 侑生はそれらの難題を己のもてる力すべてで解決しようと心に誓っている。


 これからは常に愛する人に寄り添っていたい。芯国に対しては今回の暴挙を盾にこれ以上騒ぐことのないようにうまく処理しよう。黒太子の策略は玄徳の力を借りて完璧に乗り切ってみせよう……。


(時間はかかるかもしれないが、すべてはいつかは片がつく)

(すべてが終わったら、そのときこそは……!)


 当の少女がどれほどの絶望に囚われているかも知らず、侑生は今度こそは自分のためにこの愛を貫こう、そう決意していたのであった。



 *



「そなた……楊珪己か?」


 止まらぬ嗚咽に痛む喉に、珪己が声にならない驚きとともに顔をあげると、戸の前によく知る青年が立っていた。


 手狭な室内、ただ火鉢の中の炭火だけが、暗闇の中、そこにいる人物の顔をぼんやりと浮かび上がらせている。つり上がり気味のその瞳がやや驚きで見開かれている。お互いが、お互いの存在に驚きを隠せずにいる。


「……陛下。どうしてここに……?」


 涙に濡れたままの瞳で見つめられ、皇帝・趙英龍もまた口を開き――だが言葉を発する前にぐっと唇を噛んだ。


 英龍はこの薄闇を乱さないよう、音をたてず珪己の座る寝台へと近寄った。そして、より一層ゆっくりとした動作で寝台に腰を降ろした。こちらの寝台は音一つ立てず、ただその青年の自重でかしぐように沈んだ。


 英龍は珪己をあらためて見つめながら問うた。


「なぜ泣いていたのだ?」


 指摘され、珪己はあわてて両手で乱暴に顔をぬぐった。


「す、すみません。なんでもないんです。なんでもなくて……」


 その両手がさっと英龍によって掴まれた。これまでも幾多、この青年の手に捕えられたことがあるが、今のその力の強さは過去の比ではなかった。


「なんでもないことがあるか」


 はっとした珪己が英龍を見上げると、英龍は驚くほど真剣な表情で食い入るように珪己を見つめていた。


「陛下……」

「余の前では笑えと言ったではないか。なぜ泣くのだ。泣いてはならぬ。そなたは泣いてはならぬ……!」


 泣いてはいけないというのは、いつでも幸せそうに笑っていてほしいから。


 嘘のつけない青年の瞳がそう語っている。


 それを感じるや、とたんに珪己の心がゆるみ、涙腺もまた決壊した。


 一度止まったはずの涙が、どこから生じたのかと思わせるほどあとからあとから湧き出てくる。だが珪己はもうその涙を止めることができなかった。


「陛下、私、私……」

「どうした。何があった?」

「わ、私……」


 どもりながら、その口から今にも発してしまいそうになる今日の出来事に、珪己は大きく息を飲んで口を閉ざした。だがしばらく息を止め、苦しさを感じて大きく息を継いだ。はああ、と胸の奥から吐いていく。それでも心の奥からは出ていくことのないこの苦しみの根源に、珪己はまた涙を流した。


 英龍がさらに手首を握る力を強めてきた。


「だからどうした。言わなければ分からぬであろうが」


 怒りにも似た感情がその瞳の奥に宿り、珪己はとっさに本心を語ってしまった。


「こ、怖いんです」

「何が怖いのだ」


 また口を閉ざした珪己に、英龍がその掴む手首の一方をぐっと引いた。


「言わなければ分からぬと言ったであろう」


 なぜ今ここに皇帝その人がいるのか――。


 しかしそれについて考える余裕などない。ちらちらと、猛る炎の見える強い双眸に至近距離で見下ろされ、珪己は次第に従順に語っていった。


「これからどうなるのか分からなくて……それが怖いんです」

「分からぬ? どうしてだ」

「芯国の……」


「王子」と言いかけて、それはなぜか言えなかった。


「芯国の方、私を気にいったという方……その人のことを考えると怖いんです。このまま芯国に連れていかれて、湖国にいられなくなるかもと思うと、それが怖いんです……」


 それを聞き、英龍は先日の異母弟の脅しにも似た発言がこの少女の心を痛めていると勘違いをした。


「大丈夫だ。そなたのことは余が必ず護る。安心するがよい」


 そう断言した英龍に、珪己の瞳からさらなる涙が溢れた。それにいよいよ英龍がいら立ちをあらわにした。


「だからどうして泣くのだ。余がどんなことをしてでも護る。だから泣くことなどない」


 この薄闇に合致するささやくような小声ながら、それでも言葉の端々に英龍の感情がみえる。


 これよりもごく小さな怒りであっても、皇帝その人から示されれば、普通は命を賭して謝罪をし、どんなことをしてでも償うと叫ぶであろう。実際、珪己も鏡楼の一室でこの皇帝である青年と再会した夜、それに準じる行動をとった。


 だが珪己にとっての英龍とは、もはや皇帝であるだけではなかった。数少ない交流ながら心を通わせ、その命を助けられ、語らいを楽しみ、八年前の事変というもっとも重い過去を分かち合い――。


(……たぶん甘えているんだ)


 泣きすぎて回らなくなってきた頭の隅で、珪己はぼんやりとそう思った。


(父以外の人と八年前の夏について深く会話をしたことがなかったから、だからそれをゆるしてくれたこの人に甘えたくなるんだ)


 だけどもっとこの人に自分のことを伝えたい、受け入れてもらいたい、そう思う自分がいる。その強い欲に似た願いを止めることができない。助ける、護る。そう何度も誓ってくれるこの青年のことを、絶望の底にいるからこそ、逆に何度も試したくなってしまうのだ。


(本当に助けてくれるんですか?)

(本当に護ってくれるんですか?)


 だがその約定は、芯国の王子に対しては非常に危ういものとなる。黒太子との会話を思い起こし、また今日のイムルの狂ったような言動を考えれば、珪己にも大方想像はついた。


 皇帝であるこの人は、確かに珪己のその願いをかなえる最大の力を有する人物だろう。だが皇帝とは珪己一人の願いによって損なわれていい存在ではない。自分一人の願いをかなえるために労苦を背負わせたくも……ない。親しみを覚えた人であればなおさらだ。


(……でも甘えたい)


 それもまた偽らざる本心だった。


 あと何日かしたら芯国に連れていかれるかもしれない。

 それは明日かもしれない。


 この人にもあと何回会えるかも分からない。


 もしかしたら――これが最後かもしれない。


(最後……?)


 しびれを感じ始めた両の手首すら、そう思うと愛しさを感じた。もうこうして握られることはないかもしれない、そう思うと痛みすら心地よく感じる。


 珪己の視線の動きに、英龍がはっとした顔をした。とたんに種火のような怒りは消滅し、両手を離すと、珪己に申し訳なさそうな表情を向けた。


「す、すまぬ。痛かったな。余は本当に愚かだ。なぜこういつも同じ過ちばかりを繰り返すのか」


 そうやって謝る姿もまたいつもと同じ。


 だが彼のこのような貴重な姿も、もう二度と見ることができないだろう――。


 気づけば、珪己は英龍の胸元に飛び込んでいた。


 そしてぎゅっとしがみついていた。


 突然の行動にうろたえる英龍に、珪己はそれでも離れようとはしなかった。その力の強さに英龍はしばらく動けずにいたが、やがてそっと珪己の背に手をのせた。するとその背がピクリと反応し、続けて珪己が嗚咽を洩らし始めた。

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