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1.二府の長官の密談

「昨日の今日でさっそくですか」


 そう言って中書令ちゅうしょれいりゅう公蘭こうらんの執務する室に姿をあらわした人物は、同じく紫袍を身にまとう枢密使すうみつしよう玄徳げんとくだった。


 中書令といえば、この湖国を動かす二府の一つ、文政を司る中書省ちゅうしょしょうの長官である。その名にたがわず、齢五十に近い彼女の周囲には常人が纏うことのない気が漂っていた。


 髪の幾分かは白くなっている。瞳はやや濁っている。肌をおおう化粧の下にはくすみや皺も当然ある。なのに公蘭は全盛期の若者にも引けを取らないほどの気迫に満ちていた。


 室に入った男、玄徳も、公蘭同様に二府の一つ、軍政を司る枢密院すうみついんの長官という大役を拝している。齢は四十過ぎたくらいか、公蘭よりも年若いが同位にある。この国で唯一、彼女と肩を並べて対等に渡り合えることのできる官吏がこの男、玄徳だ。だが玄徳には他人を恐れさせるような雰囲気は一切ない。人がよさそうでまったく無害な人物にみえる。いったいどうしてこのような性質でもって軍政の長となることができたのか。正体を掴みにくい不思議な男だ。


 玄徳は常のごとく笑みを浮かべている。そのまま、玄徳は公蘭の正面の椅子に断りなく腰をおろした。このような不作法がこの部屋でゆるされるのもまた玄徳だけだ。


 公蘭が玄徳を見るその目つきは鋭く、眉間にはしわが寄っている。が、これもまた彼女の普段の表情である。とはいえその表情が公蘭の内面を表しているなどと思うのは、彼女のことをまったく知らない愚か者だけだ。


「して玄徳。私がなぜあなたをここへ呼んだか、本当に分かっているのだろうな」


 公蘭も作法抜きで、それどころかいきなり本題へと入った。誰もいない場では公蘭は玄徳に対してやや乱暴な言葉遣いになる。だが玄徳は気にも留めない。もともと知り合った当初から彼女はそういう人だった。


 きつく問いつめるような公蘭に、玄徳は笑みを深めた。


「ええもちろん」


 昨日、玄徳は言った。

 あなたが何を話そうとしているのか分かっています――と。


吏部りぶ尚書しょうしょはそろそろご勇退されるべきでしょう。違いますか?」


 中書省には五部がある。五部の一つに吏部がある。吏部は文官の人事を司っており、そのため他の部に比べて上位にあると誰もが認めていた。それは当然、中書省、そして枢密院を構成する文官すべての進退を決めることができる権限をもつためである。


 組織上、五部はそのどれもが同等の位置にあるとされている。が、実際の中書省は、長官の中書令、その補佐である参知さんち政事せいじ、その下に吏部、その下に他の四部があるようなものなのである。


 なお、枢密院に関する人事は、長官である枢密使は前任の枢密使や次点にある枢密すうみつ副使ふくしが、枢密副使以下についても枢密院の官吏らが合議の上で決定し、現在、吏部は承認の押印をするだけの形式上の存在となっている。とはいえ、それでも、枢密院もまた吏部の支配下にある四部と同じといえた。


 玄徳が述べたとおり、現在の吏部尚書はその地位について十五年近くになっていた。歴代と比べても非常に在位の長い尚書である。それは尚書が優秀な官吏であることも理由だが、吏部の長である彼を異動させるにはその上位にあたる参知政事に昇進させるしかなく、それをこの柳公蘭が認めなかったからである。


 苛尚書は公蘭のこの仕打ちに内心はらわたが煮えくり返っているに違いない。


 確かに吏部尚書とは非常に高位な存在だ。が、『参知政事になり得る人物がいない』という理由で名指しすることなく苛尚書の能力の限界を明言するこの上司、憎まずにいられる部下などいるだろうか。尚書になるほどの才のある人物であればなおさらである。


 そして、すでに齢七十近い苛尚書の采配が狂いだしたのはいつからだろう。あれほど正しさと清廉さに満ちていた彼の仕事ぶりに、静かに、じわじわと、醜さがかいま見えるようになったのはいつからだったか。彼自身の鬱憤やくすぶる不満が人事に影響を与え出しており、そのことに、苛尚書の上司である公蘭は気づいていた。


 吏部とは人事を司る部である。人事とは、組織においてもっとも合理的で妥当性があり、かつ平等さと誠実さに裏打ちされた行為によるものでなくてはならない。そこに嗜好や欲や派閥といった思想が入り込んではならない。そのため、五部の尚書のうち、吏部がもっともその人間性を問われることになる。


 だが苛尚書はすでに吏部の長としての素質を失いつつあった。


 が、苛尚書の後窯に入ることのできる人材もいない。


 いや、五部の尚書には侍郎じろうと呼ばれる副官がおり、この吏部尚書には今、六名の吏部侍郎がいる。六名もいるのだから誰か妥当な一人を引き上げればよいとも思えるが、公蘭はそれをしたくはなかった。


 今ここで吏部侍郎の一人を昇進させれば、残る五名に不満が生じてしまう。実際、この六名の誰か一人が卓越した能力を持っているわけではなかった。


 それに、吏部侍郎の一人を尚書にするということは、この長い年月、苛尚書によって染め上げられた吏部は生まれ変わる絶好の機会を失うことになる。公蘭は、苛尚書を引退させると同時に、吏部を変革したいと望んでいた。前皇帝の時代の辛気臭い空気が漂う吏部に新風を吹き込みたいのだ。


 公蘭の意志の強さが、その瞳をきらめかせた。


 その双眸を真っ向から受けて、玄徳が柔らかくほほ笑んだ。


「公蘭、あなたは吏部尚書に枢密院の官吏を入れたいのではないですか」


 公蘭はうなずきも肯定もしない。が、その瞳の色が変わらないことからして、公蘭は玄徳の発言の正しさを認めていた。


 表情を変えることなく、公蘭のその薄い唇だけが動いた。


「どうだ玄徳。枢密使を辞して吏部尚書にならないか」


 この発言に怒りを示すか、それとも歓喜するか。どちらの態度をとるかで、その人と公蘭の関係、そしてこの国の政治への理解度が察せられる。


 枢密使である玄徳が吏部尚書になるということは、降格されるということである。中書省と同列にある玄徳に、二段階低い尚書になるよう勧めるということは、降格を依頼するということである。


 だが玄徳はその笑みを消すことはなかった。


「せっかくのお誘いですがそれはできません。私はまだ枢密院ですべきことがあるので」

「だろうな」


 ようやく公蘭が笑った。口元だけをゆがめて。


「まあ断るだろうとは思っていた」

「ですが枢密院の官吏を吏部尚書にしたいというのは本心なのでしょう?」


 玄徳のこの発言に、とうとう公蘭は表情全体でその満足度を示した。


「ああそうだ。それは枢密院にとっても都合がいいのではないか」


 この国を司る二府とはいえ、文官優位のこの時代、名実ともに文政を動かす中書省のほうが枢密院よりも優位であると考える者がほとんどである。だから、苦しい受験勉強を経て科挙に合格し文官となった者たちは、配属先を知るや、中書省へと行く者は喜び、枢密院へと行く者は内心地団駄を踏む。そして所属が決まれば、その内部において異動することはあってももう一方へ鞍替えすることはない。規則等でそう決まっているわけではないのだが、それは明確な不文律としてあった。


 だから公蘭は、この突飛な提案を自分がすることを予想していた目の前の男に満足し、あまつさえ尊敬の念すら感じた。このように阿吽の呼吸で渡り合える人物が中書省にもいれば……と詮無きことも思う。


 公蘭が朝議においてことあるごとに枢密院を糾弾するのは、実は玄徳の才能を試したいと思う無意識のあらわれであったりもする。玄徳のような存在がいるから、公蘭は参知政事をおくことができない。玄徳以下の人間で満足ですることなど、どうしてできようか。参知政事とは将来の中書令候補であり、枢密使の玄徳と肩を並べる素質、せめて潜在能力が必要なのだから。


 次世代の人物を育成することは中書令公蘭に課せられた重大な責務の一つである。だが公蘭もまた一人の人間であった。今目の前に理想に近い人物がいたら、そこに委ねたいと思ってしまうのは当然の心理だろう。実際、人を育てることは容易ではなく、公蘭にとって、どんな政務よりもこれこそがもっとも困難な労働であった。


 玄徳が公蘭にうなずいてみせた。


「そうですねえ。そろそろこの中書省と枢密院の対立構造はどうにかしたいと私も思っていました。かといって中書省のほうからでは枢密院に異動となるのは受け入れがたいでしょうし、そうなると枢密院の者を中書省に異動するところから着手するべきですね」

「そのとおりだ」

「私のほうでも、昨日あなたと話してから、誰を異動させるべきかあらためて考えたんですよ」


 あんなわずかな会話からそこまで、と、目の前の男の機転に感心する。このくらい頭の回転のいい部下が一人でもいれば――。


「して、枢密院は誰を中書省に出す?」


 隠し切れない期待をこめて、公蘭が玄徳を見つめた。


「枢密副使の一人です」

「だろうな。で、そのうちの誰を出す」


 枢密副使は数多い。公蘭は朝議の場で顔を合わせる彼らの顔を一つずつ思い浮かべていった。


「枢密院において人事を担当する者はりん副使とだん副使、それに副使であったな」


 林は齢五十近い、つまり公蘭と同世代の男である。枢密院の文官の人事においてもっとも権限をもつ枢密副使が林である。


 林の他に、段という枢密副使もこの件については補佐的な任を務めており、彼は特に地方への派遣業務全般を担当している。齢は四十近く、その仕事ぶりは林に比べれば劣る点はあるが悪くはない。


 李とは、侑生ゆうせいのことである。まだ二十代半ば、枢密副使の中でもっとも年若いうえ、実際、枢密副使に任じられてまだ一年と少しである。侑生は武官の人事、さらに管理を一手に引き受けている。だが年若い分、他の枢密副使よりも雑務的な仕事が舞い込むことも多い。とはいえ、科挙の最終試験、殿試において一位及第した『天子門正』である点は、同じ天子門正である公蘭も認めるところである。


 この三人のうちから次期吏部尚書に据えるとなると、林副使が適任であろう。


 玄徳への吏部尚書の打診は断られると、公蘭にも最初から分かっていた。事前に枢密院の上級官吏をあらかた調査させ、公蘭はこの林副使を中書省に受け入れようと己の内ですでに決めていた。次点として段副使、または林副使直下の枢密院すうみついんの誰かを予想している。だが、最適なのはやはり林副使だ。年齢、経歴ともに申し分ない。


 分かりきった答えを待つ公蘭の猛る様子は、公の場であれば見られない類のものだ。玄徳はそれに気づき、申し訳なさそうにその眉を下げた。


「……私は李副使を推薦したいのですが」


 一拍おいて、公蘭の両の目がかっと見開かれた。


 次の瞬間、遠くで落雷が起こった。


 この季節にはありえないほどの大音量が二人の元に届き、続けて窓の向こう、街中にまっすぐに白い雷光が走った。


 その爆音のような雷鳴は激しい雨音に吸い込まれ、あっという間にかき消された。だが今度は空が鳴り出した。ただ一つの雷鳴をきっかけとしたかのように、天に張りつめる重い雲の中で轟が始まったのである。


 うねるような低音の響きにつられ、玄徳は公蘭に向けていた視線を外へとやった。なぜか胸がちりちりと騒ぐ。このような時に一番に思い出されるのはやはり娘のことだ。熟した果実が爆ぜるのを待つかのような不安定な空の下、娘は今どうしているだろう……。


 笑みを消した玄徳の横顔に公蘭は何を思ったか。だが見る者が見れば容易に察したことだろう。丸々と開かれていた目は細められ、そこに宿る感情は切なさだけであったことに――。

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