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剣女列伝 少女篇5 ~ただ君を乞う~  作者: アンリ
第七章(前半終了章)
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5.嫌だ

 その頃、よう珪己けいき仁威じんいが室から出て行ったことにも気づかず、掛布の中で一人悶え続けていた。


 いくら開陽が恋や性に寛容な街になりつつあるからといって、珪己自身はそのような分野にはとんと縁がない人生をこれまで送ってきた。つまり、珪己はまったくそういった知識も経験もなく、このように裸に近い姿で男と触れ合っていたという事実には、非常に重いものがあった。


 初心な娘らしい恥じらいと、珪己らしい突飛な発想によって、いつまでもじたばたとうごめいている。だが、やがてその動きも思考も止まった。


 掛布の中からあらためて顔を出すと、仁威の姿は見えなくなっていた。そのことに、珪己はほっとしつつも一抹の寂しさを感じた。


 珪己は寝台の上に座り直した。その頬や唇にはすっかり血の気が戻り、あわや風邪をこじらせかけるほどの危険な状態に陥っていたとは分からないほどに回復している。仁威の肌で温められていたこともそうだが、その後の興奮によって体内が一気に活性化したことも理由だろう。


「……お礼を言うの、忘れたな」


 ぽつりとつぶやかれたそれを聞く者は誰もいない。


 するとまた寒気がよみがえり、珪己は思わず両腕で自分をかき抱いた。だが自分で自分を抱いてもちっとも温かくない。


「……温かかったなあ」


 思い出すのは先ほどまで与えられていた仁威の温もりだ。恥ずかしかったけれど、嫌だったわけではない。それどころか、とても気持ち良かった。心地よかった。もし今またここに仁威が戻ってきたら――もう一度その温もりに包まれたい、そう思えるほどに。


 その思考に、一気に珪己の頬がほてった。あわててぱちぱちと軽く頬を叩く。


「だめだめ、目を覚まさなくちゃ。私ちょっとおかしいのかも」


 そのような不埒な行為を望むなど、上級官吏の娘のすることではない。


 繰り返し頬を叩いていると、次に別の青年に抱きしめられた記憶がよみがえってきた。無事でよかった。そう何度も言いながら抱きしめてきたあの青年のことを――。


 そのときのことを思いだし、頬を打つ手がとまった。


(……ああ、やっぱり)


 これまで見ないようにしてきたことが、記憶をとおしてあらためて伝わってくるようであった。


 なぜ侑生の想いを正しく見ないようにしてきたのか。なぜ自分が軽んじられているなどと、あえて辛い方向に解釈してきたのか。気づいてしまえば、もう珪己はその理由を思い出せなかった。


 記憶の一つ一つが、一本の真理の糸によって引き寄せられ、確かに意味付けされていく。


 侑生の真心がしみじみと伝わってくる。


 その真実の心は、ひも解けば、イムルから与えられた好意とは似てもにつかなかった。


 イムルと侑生、二人はどちらも熱烈に珪己を欲した。

 それを示す熱い口づけをほどこした。


 だが二人が珪己に望むことは同じようで――違う。


 珪己はそのように思い、なぜそのような気がするのか、この題目について考えてみた。が、それは早々に放棄した。恋に不慣れな珪己にとっては、その違いを解明することは難題だったのである。


 代わりに珪己は二人の青年への今後の対応について考え始めた。


(侑生様はなぜ私なんかがいいんだろう)


 それはここまで卑屈になってしまったが故の致し方ない思考だった。


(やっぱり父様の娘だからかしら? そんなに顔かたちは似ていないと思うんだけどなあ……。それとも美人には飽きてしまったのかしら)


 考えをめぐらせていると、一つの事実にたどり着いた。


(あ、そうか。あれか……!)


 珪己が思いだしたのは、あの夜、楊家隣の道場で二人で稽古をしたときのこと。あの夜、突然侑生の態度が豹変し、いきなり口づけをされてしまったのだ。ということは、その夜に侑生の心が変化した可能性が高い。


(侑生様って変わった人が好みなのかしら?)


 まず一つ目の仮説は、女と初めて剣を交えたことで興奮したのではないか、という疑い。だがそれはさすがにあの気品あふれる侑生にはそぐわない動機だ。


 それからしばらく侑生と過ごした日々を思い起こしていったが、女官時代から今に至るまで、それといって侑生の気をひくようなことを自分がしでかしたとは思えなかった。


 考えがまとまらず、珪己はもう一人の青年、イムルについて考えることにした。


(あの人は……どうすればあきらめてくれるんだろう?)


 まずそう思った時点で、珪己は自分がこの青年の想いに応えるつもりがないことに気づいた。もしもイムルの下へ行くように皇族らに命じられたら、それは仕方のないこととして受け入れるだろうけれども……。このような事態にまでなり、国同士、結ばれたばかりの友好関係を反古にしないようにするためには、その未来予想図がもっとも確かな事実となるだろうことは分かっているが……。


 イムルのことは嫌いではない。

 あれほどのことをされても嫌いだとは思えない。


 好きになろうと思えばなれるだろう。女である自分と武芸の話で盛り上がってくれるようなところは好ましかったし、心に傷を負うイムルの様子は自分によく似ていて共感するところもあった。その苦しむ心を救ってあげたい、そう思えるほどにはイムルに対して好意が芽生えている。


 だけど……すごく好きになれるかといえば、それは難しいだろう。


 とはいえ政略による婚姻に「すごく好き」という感情を期待してはいけない。それを珪己は知っていた。少しでも好意をもつことができれば万々歳、嫌いな人と結ばれることになっても受け入れるもの。それが上級官吏の家の者にとっての婚姻というものだからだ。


 と、珪己は自分が涙を流していることに気づいた。涙が静かに頬を伝って落ちていく。


(……私、本当にこのままあの人と結ばれなくちゃいけないの?)


 涙とともに気づいた。

 イムルと侑生の違い、それは抱きしめられて嬉しかったかどうか、だ。


 今日、侑生の腕の中はひどく安心したし嬉しかった。

 だがイムルにはそれとは真逆のことを思った。


 生理的な息苦しさだけではなく、全身が、心がイムルのことを拒絶していた。


 だが婚姻した相手とは、ああした抱擁を死ぬまで幾度も交わさなくてはいけないのだ。

 口づけもだ。ああした様々な口づけを、求められれば交わさなくてはいけない。


 その先のことも――しなくてはいけない。


 永遠に、死ぬまで、相手が飽きるまでずっと……。


 ぼろぼろっと大粒の涙がこぼれた。胸が苦しくてたまらなくなり、珪己はその顔を膝にうずめた。


「嫌だ……嫌だよ……」


 すすり泣く声が漏れないよう掛布に口を押し付けているが、それでも珪己はすべての声を殺すことはできなかった。我慢しようとすればするほど呼吸が難しくなっていく。ひっひっと息を継ぎ、肩もそれに合わせて上下に揺れる。どうにかして体をおとなしくさせようと、ぎゅっと強く自分のことを抱きしめ直した。だが感情はますます高ぶり、押さえが効かなくなっていった。


(嫌だよ、私あの人と結ばれたくなんかないよ……)

(好きでもない人とは……嫌だよ……)


 たぶん、何も知らない清い体のままで嫁げば、このように悩むこともなかったはずだ。そういうものだと受け入れて暮らすこともできたのだろう。だが珪己は経験してしまった。経験し、それらの行為によって引き起こされる感情が相手によって変化することに気づいてしまった。


 上級官吏の娘としてあるまじき考えだということは分かっている。だが、一度嫌悪感が芽生えれば、もうその想いは消せなくなった。イムルとは絶対に結婚したくない。触れられたくない。嫌いではないけれど――絶対に嫌だ。


「……嫌だよ……」


 ひくひくと嗚咽しながら、珪己は叶えられない未来にただ泣くことしかできなくなった。

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