4.愛とは何なのか
仁威は広間に戻って来た女僧、桃林がたたえるほほ笑みに既視感を覚えた。
桃林は笑みを絶やさぬまま、部屋の隅にある椅子に緩慢な動作で腰を降ろした。ふくよかなその体が収まる間際、椅子が抵抗するように小さく音を鳴らした。何もかもが自然なことのように桃林はその場に収まった。だから、
「さあ、それでは朝までともに語り合いますか」
と言ったその女僧の突飛な発言にも驚くことは何もなかった。
それまで室の隅に一人立っていた仁威は、桃林と机を挟んで向かい合うように座った。
「いつからお気づきで?」
「さあ。いつからでしょう」
からかうように桃林がその笑みを深めた。
「……あなたもお人が悪い」
「僧となっても、この世を面白がる癖はどうしても抜けません」
「彼女は……私の部下なのです」
仁威の告白にも桃林の笑みが崩れることはなかった。深い慈愛をたたえた瞳は今も優しい。
「そしてその部下である彼女を、あなたは慈しんでおられる」
そのような言い方をされても、仁威は自分の弁護のために反論する気にはならなかった。この女僧の前にいるからなのか、それとも特別な一日が終わろうとしている夜だからか……。
慈しむ。
その言葉は的を得ていた。
仁威の抱くこの部下への想い、恋か愛かと問われれば明答できない。だが慈しんでいるかと問われれば、それは疑いようのない事実だった。
「……ええ。そうですね」
その感情を認める、ただそれだけのことで、仁威の体と心はほどけていった。
桃林の女人にしてはやや低い声が、この室では格別に温かく聞こえる。
「あなた様は今ここにおられる。あの寝所にとどまらずにここにおられる。それはあなた様が彼女を深く慈しんでおられるからです。私は人のそのような面を見るたびに、この世に生を受けて本当によかったと、そうつくづく思います」
まるで仁威を試していたかのような発言も、桃林の表情を見れば誤解だと分かる。桃林は真実の心でもって、仁威のとった行動に心を震わせていた。
「人が人を慈しむこと……これほど素晴らしい奇跡はこの世にはありません。赤の他人を我が事のように想えるとは、人とは何とも不思議な存在だと思いませんか」
「確かにとても不思議ですね……。自分の何もかもを犠牲にしてでも、どんなことをしてでも救いたいと願ってしまうのですから」
「その命を懸けてでも?」
「ええ」
「命よりも大切なものを懸けてでも?」
「ええ……本当に不思議なことです」
「ですけど不思議なことに、そうすることで喜びを感じる自分がいるのでしょう」
「そのとおりです」
「……おそらくあなた様はこれまで深く物事を考えられてきた方なのでしょうね」
桃林がため息とともに語った。
「だからこそ、心を定められたという事実一つでも喜びを感じるのでしょう。……今までご苦労されましたね」
清らかなその瞳は、まるで実の母親のごとく仁威に向けられている。そうやって見つめられ、仁威は桃林にすべてを見透かされているかのように錯覚した。
すべてとは、まさに仁威がこの世に形作られた瞬間から今に至るまでのすべてである。
この世に生を受け、這い、立ち、歩き、言葉を発し、会話をし、道具を使い、物を作り――そういったことから、幼少時代、少年時代をたどり、八年前の楊武襲撃事変、そこから武官としての過酷な日々を乗り越え今に至るまで――。
(……この人はどことなく玄徳様に似ている)
だからこそ惹かれるものがあり、自然と心が解放されるのだろうか。
だからこそ、胸が痛むのか。
だからこそ――泣きたくなるのか。
「……私には契りを交わした姉がおります」
何の脈絡もなく、だが自然なことのように桃林が語りだした。
「姉の名は呉桜林。私たちは修行先の寺で知り合い、名前が似ていたことから意気投合しましてね。とうとう二人で義姉妹の契りを交わしたのです」
やや遠い目をして語る桃林には、懐かしむだけではない、近い過去を見る気安さがあり、仁威は会話をうながした。
「その姉上は今はどちらに?」
「姉はここにおりますよ」
柔らかい声音ながらもそう断言され、仁威は周囲に自分たち以外の人の気配がしないことは分かっているのに、つい首を回してしまった。だがやはり、どこを見ても誰もいなかった。
咎めるわけではないが、やや問う目つきで見てしまったからだろう。仁威の視線を受けて桃林がそっと自分の胸を押さえた。
「……ここにおります」
一拍おいて、さしもの仁威にも理解できた。
「それは……失礼しました」
「何をおっしゃるのです? あなた様は何も無礼なことはされておりませんよ」
それでも申し訳なさそうな顔をする仁威に、桃林の方がすまなそうに頭を小さく下げた。
「ええ、人の世という意味では、姉はもうこの世にはおりません。あなた様を惑わせるつもりはなかったのですが、この寺に来る者はつきあいの長い方ばかり、誰もが私のことを理解してくださっているので、ついいつものように語ってしまいました」
「いいえ、大丈夫です。それで、その姉上がどうかされたのですか?」
仁威はあらためて話の続きをうながした。それに桃林もまた笑顔を取り戻した。
「そう、私の姉のことです。この世に生を受けて一番の私の喜びとは、唯一無二の姉と出会えたことでした。共に暮らす日々、私は姉のために何でもできましたし、姉のような立派な僧になりたいと、厳しい修行にも耐えられました。……いえ、本当は厳しくなどありませんでした。姉と同じ道を歩んでいるというだけで、私の人生はいばらの道ではなくなるのです。たとえそこに石や針、蛇や落とし穴があろうとも。……もちろん今も。
私は今も、そしてこれからも、この喜びを胸に抱いて生きていくでしょう。それに、私は先ほどから感じておりますよ。あなた様の抱く慈しみの心に共鳴するこの胸の奥の心地よい震えに……。それを教えてくれたのもまた姉なのです。ですから私はこのようなとき、ますます姉のことを愛しく思うのです」
仁威は黙って話を聞いていた。ただ、玄徳のように見えていたはずの桃林の姿が、なぜか李侑生――同い年の、とある夏に運命を分かち合った青年――に移り変わって見えた。
「あなたは……悲しくはならないのですか」
仁威は思わず訊ねていた。
「その姉上がそばにいないことで悲しくなることはないのですか」
言い、そこに一つの失言があることに気がついた。
「いえその、姉上があなたの中に生きていることは分かっているのですが、でも実際に……そう、直接会えないこととか触れられないということが悲しくはならないのでしょうか」
「あなた様は触れなくては愛を感じることはできないと思いますか?」
桃林が、これまで避けていたその言葉、愛という言葉をここで初めて使った。それゆえ仁威はその言葉が発せられた瞬間、言葉自身が保有する太古からの力によってその身を震わせた。そして桃林の問いには何ら答えることができなかった。
長い沈黙は桃林によって破られた。
「……あなた様はひどく愛を憎み恐れているようですね。そのようにお優しい心を持ち、慈しむ相手を有しているというのに、どうして」
「俺は逆にあなたに問いたい。愛とは結局何なのですか」
言葉をかぶせるように切り返してきた仁威にはいら立ちの感情は見えない。ただ純粋に教えを乞いたいと願う、さまよえる信者のようだった。
「愛すればこそ触れたくなるものなのですか? それとも、触れたいという欲求は生物としての本能から生じるものなのですか? 愛によって生じる憎しみや悲しみはどうすればよいのですか? なぜ人は愛によって愚かになってしまうのですか? ……愛とは本当に価値のあるものなのですか」
この町はずれにある古びた手に訪れる新参者は少ないが、その誰もが生きる道に迷い、救いのかけらを探す旅路の果てにここへとたどり着く。何に迷っているのか、何に傷ついているのか、それは人によって違う。また、同じこと――たとえば愛に悩む者同士でも、その悩みの根底は一人として同じではない。
愛とは何なのか。
愛とは結局何なのか。
それはこの世でもっとも難しい問いの一つといえよう。
桃林は仁威の刺すような双眸をしっかりと見つめ返した。
そしてこう言った。
「愛とは……人が持ち得る究極の力でしょう」
「究極の力……?」
「はい。愛は自分の内で生じるもの、または外から受け取るものですが、いずれにせよ、人は愛によって無限とも思える強大な力を得ることができます。ただ、その力は容易には制御できず、また人の意志で愛を生み出すことも殺すこともできません。愛とは神の授けたこの世の奇跡でもあります。なぜなら神とは人知を超えたところにある力を有する存在、そう信じているからです」
「力……」
「その力を生かすも無駄にするも、それはその人次第のこと」
仁威を見つめる桃林の瞳が和らいだ。
「愛は気づけばそこに生じているものです。その愛は、あなた様があなた様自身であるから、だからこそ生まれたものなのですよ。ですからあなた様はその愛に逆らってはなりません。あなた様はその愛を、その愛による力を、望むように用いればよいのです」
「……だがそれでは、人は誰もが欲を抑えなくなるのではないですか」
仁威はイムルのことを思いだし、また、己の内にいまだくすぶる熱を感じつつ問うた。
「強い欲を抑えるためには、愛そのものを否定すべきではないですか? たとえば妻夫のある身で他の者に懸想するような者は、普通は不届き者とみなされます」
「それは愛に罪を押しつけているだけのこと」
きっぱりと桃林が否定した。
「愛によって生じる力を、己の変化を、人が制御できないことに問題があるのです。愛しいという想いはある日突然湧き上がることもあれば、ゆっくりと、じわじわと育つ場合とあります。ですが、その愛が生まれ育つことには必ず理由があるのです。その理由は自分ではすべて解明できないかもしれません。私もそうです。呉桜林という女性をなぜ私は欲したのか、なぜいまだにこの女性を愛しいと思うのか、そのすべてを一つずつ説明することなどできません。理由が分からないのに愛を押さえつけることなどどうしてできましょうか? 人はそれほどに有能ではありませんよ。
ですが、愛することに理由は必要ない、私はそう思っております。大事なことは、どこに愛があるのか、それだけではないでしょうか。自分は誰を、何を愛しているのか。または自分が何者に愛されているのか。それさえ分かっていればいいのです。あとは、その愛を自分がどうしたいのか、その愛によってどんな自分でいたいのか、それを定めればよいのです」
仁威は真剣な面持ちで女僧の説法を聞いていたが、しばらくして小さく息をついた。
「……それはまた難しい。人は有り余る力には振り回されるものですから」
「だから愛することは難しいのでしょうね」
桃林はこの彷徨える青年に目を細めた。
「ですがあなた様はその愛によってとても素晴らしい経験をされています。自分自身の際限を知ることのできる機会などそうそうありませんし、それを受け入れ己を見つめ直すことは、より良い生を送るためには必要な試練でしょう。……私も姉が遠い地で亡くなったと知ったときは悲嘆にくれました。この世に一人生き続けることが辛くてたまりませんでした。ですが、私は涙にくれながらも悟ったのです。私がこれほどの悲しみに落とされたのは、それほどまでに姉のことを愛していたからだと。その愛が続いているということは私の中に今も姉が生きているということだと。そして、この愛をこの世から消さないためにも、私は生きて自らの生をまっとうしなくてはならない、と。姉に恥じない、この愛に恥じない生を送らねば、と」
「……あなたは強い方ですね」
そうやって心を定めるまでには随分苦しんだに違いない。だが、この女僧はその辛い現実から目を背けなかった。だからこそ、今こうして穏やかにほほ笑んでいられるのだ。
(……ということは、玄徳様も?)
いつもはどこか飄々としている、のんきで何も考えていなさそうな玄徳も、八年前の事変で妻を、家人を失い、同じように闇の中で苦しんだのだろうか。
それはおそらく真実だろう、そう仁威は思った。
だが、誰もがその道を乗り越えて悟りの境地に至れるわけではない。でなければこの国は玄徳のような聖人であふれ返っているはずで、悪人は一人もいないはずなのだ。
だがいつの世にも悪人は必ずいる。
どれほど悩み心の血を流せばその聖なる悟りをひらけるのか。
何かしらの資格がある人物にしか、その悟りの先へはたどり着けないのか。
(……俺は? 俺はどうなんだ?)
桃林がやって来るまで、仁威ははじめのうちは開陽を去るための算段をしていた。明日あさってにでも寺を去り、開陽を去り、素性を隠し生涯を終えることとなる自分について考えていた。誰も知らない場所での誰とも心を分かち合うことのない一生について、もしくは最悪の未来である芯国の牢獄で老いていく一生について考えていた。
だがそのどちらにも共通することがある。それは『今ここに触れたいと感じる人がいるのに、その欲を満たすことのできない一生』だということだ。それに気づけば、そればかりを考えてしまう自分がいた。まるで死にゆく者のように、どうにかして最後の望みを叶えたいと、苛立ちすら沸くほどに……。
だが桃林と語り合いあらためて考えてみれば、やはり仁威は彼らのように生きたいのだった。ひと時の快楽や死の恐怖に負けることなく己の信念を貫きたい、それだけを仁威は願っていた。寂しくても辛くてもいい。苦しくてもいい。この信念さえ貫ければ、それだけで……。
だが、その真実の心とはまた別に、仁威の体と心はこの寺に長くいたいと駄々をこねるのだ。
(……俺はどうしたらいいんだ?)
いつしか仁威の視線は桃林の方から机の上へと落ちていった。仁威が無意識に思索の世界へと入っていくのを、桃林は邪魔することなくただ見守っている。




