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剣女列伝 少女篇5 ~ただ君を乞う~  作者: アンリ
第七章(前半終了章)
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3.惑う天上人

 二人廊下を歩いていると、ふいに桃林とうりんが可笑しげに頰を緩ませた。


「どうしたのか?」


 英龍えいりゅうの問いに、「すみません」と会釈した桃林は柔らかな表情だった。


「いえ、先ほどのお方のことです。どうやら兄君は妹君と同じ部屋では寝づらいようですね」


 英龍は頭の中で愛娘と共に寝る姿を想像してみた。


「確かに、普段枕を共にしない間柄ではいたたまれなくなるのも分かる……分かりますね」


 幸せも過剰に摂取すれば身に余るものかもしれない、と英龍が考えていると、「このような時なのですから気になされなければいいのに」と桃林が言った。


「市井の者の多くは一つきりの寝所を家族全員で分かち合っていますのにね」


 そうなのか、と問い返しそうになり、英龍はその口をつぐんだ。この国を総べる者として、街中から地方まで、大方の場所には出向いたことがあると自負している。だが言われてみれば、市井の者の家を訪問したことは一度もない。


 他の部屋を用意してあげればいいのでは、と思わないでもなかったが、そのような発想すら、おそらく恵まれた者の驕りなのだろう。


 その廊下はひどく短く、一度角を曲がれば目的地についた。


 桃林がその戸を開けると、そこには寝台が一つ、それに腰までの高さの古い衣裳棚が一つあるだけだった。部屋の半分を寝台が占めている。隅の方には寝台に沿って小さな文机が申しわけ程度に置かれているが椅子の一つすらない。


 その部屋があまりに狭く、英龍は内心ひどく狼狽した。東宮における英龍の自室は、少なくともこれの十数倍はある。


 短い蝋燭が灯る燭台を置き桃林が去っていくのを、英龍は小さくお辞儀をして見送り、それから半ば意を決してその室へと入った。


 戸を閉めてみると、この室の狭さが如実に際立つようであった。小さな灯り一つしかない室内は実際の狭さ以上に圧迫感がある。それでも閉塞感と好奇心で、英龍は胸を押さえつつ、室内を上から下まで束の間検分した。が、それはすぐに終わった。本当に何もない狭い部屋だったのである。


 与えられた寝台に腰を降ろしてみて、ぎいい、と鈍い音が響き、英龍は慌てて腰をあげた。少し体重をかけたくらいでこのように壊れてしまいそうな音を出す寝台を、英龍は知らなかった。


 手持ち無沙汰に、英龍は次に何の気なしに衣装棚に近寄ると最上段の棚を開けた。


 そこには女物らしき小さな足袋数組、それに使い込まれた簡素な襦袢数枚がそっと格納されているだけであった。


 だがそれを見て、さしもの英龍も分かってしまった。あわてて棚を押し戻す。


(ここはあの女僧の自室か……)


 それに気づくと、先ほどの疑問も解けた。


 あの兄妹を同じ室で休ませることにしたのは、何も本心から面白がっていたわけではないのだ。単にこの寺には客室が一つしかなかった、それだけだったのだ。


 そして英龍という新たな客がやってきてしまったことで、この女僧は自室を手放したのである。


 英龍はここに宿泊することをやめる決意をした。


 確かにきん昭儀しょうぎの託宣は趙家ちょうけにとって重要なことなのかもしれない。だが、そのためにこの女僧の一夜の睡眠を妨害しようとは思えなかった。


 たかが一人の、それも貧しさに慣れていそうな一人の女僧の一夜ごときを趙家の存続と秤にかける――それは皇帝にしては短慮な決断と思われるかもしれない。


 だが先日、鏡楼で楊珪己と語り合ったときのことを英龍ははっきりと覚えている。その時に思ったのだ。自分は民のことをよく分かっていなかったのではないか、と。一人一人が違う人間で、しかし誰もが同じように悩み生きる存在だということを忘れていたのではないか、と。


 誰にとっても寝食とは生きるために必要なことだ。ならば、客人であるから、皇帝であるからといって、女僧の室を奪う権利はない。


 皇帝らしく生きる道のどこかに人間としてふるまうべき礼節を表す必要性を英龍は感じていた。……それが道の中央に敷かれるべきものなのか、はたまた端にひっそりとでもあればよいものなのかはいまだ定かではないが。


 室から出た英龍は目の前に続く廊下の意外な上質さにふいに気づいた。その廊下は女僧の寝台のように年季の入ったものだが、よく磨かれ、艶があり、寺の者が丁寧に使っていることが察せられた。そのことに今さらながら気づいた。一人腰を屈めて手入れする女僧の姿が想像でき、英龍の足はとまった。そのような心持ちの女僧に自室に戻るよう伝えたところで、受け入れてもらえるとは到底思えなくなったのだ。


 ではどうすればよいのか。


 いよいよもって英龍は分からなくなってしまった。


 ここには相談できる者は誰一人としていない。自分一人しかいない。


 ふっと、異母弟のちょう龍崇りゅうすうのことが思い出された。


 成長期までを宮城の外で過ごした弟であればこういうときにどうすればよいかが分かるのだろう。


(ああ、やはり余は皇帝ではあるが天帝などではないな……)


 政務関係の知識ばかりが豊富な自分が神に近しい存在なわけがない。もしも自分が民の多くが信じるような天上人であるなら、万物、森羅万象について理解できているはずなのだ。


 だが今の自分はまるで無知な赤子のようで、ひどくおろおろとしている頼りない存在だった。

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