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剣女列伝 少女篇5 ~ただ君を乞う~  作者: アンリ
第七章(前半終了章)
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2.混乱、光明

 仁威じんいが部屋を出たところで、向こうから桃林とうりんがやってくるのが見えた。桃林は仁威に気がつくと、おやという顔をして近づいてきた。


「どうされたのですか。もう夜も遅いですし、そのような濡れた衣は脱いで、部屋でよく温まってお眠りになったほうがいいですよ」


 そう言われた仁威は、今また自身の濡れた服を身に着け直している。強力でもって乾布とともによく絞ったおかげで、あらかたの水分は抜けている。これくらいであれば着ていても体力を奪われることもない。


 だが仁威はそう言ったことを細かく説明する代わりに、無言で小さく頭を下げた。


「桃林殿こそどうされたのですか」


 問われ、桃林も何やら思い出した顔になった。


「ああ、そうそう。先ほど別の方がやって来られて、その方のための部屋を用意しているところなのですよ」


 その発言に仁威の中にいまだ残っていた甘い欲の一切が掻き消えた。


「……その人はどういう方でしょうか?」


 顔つきの変わった仁威に桃林は何やら感じたようであった。


「広間にお待たせしておりますのでお会いになられてはどうですか」


 提案され、仁威はこれに小さくうなずいた。




 桃林と別れ、仁威がその広間と呼ぶにはほど狭い室へと入ると、そこには一人の男が背を向けて立っていた。声を掛ける寸前、仁威は一瞬でその男の全身を眺め正体を予測した。


 齢の頃は三十間際。

 低位の貴族が身に着けていそうな無難な服。

 体格はそれなりに良く、おそらく武芸の腕もそれなりにはある。


(……だが刺客などではなさそうだ)


 そこまでを一瞬で読み取り、それから仁威はゆるりと自身の気を解き放った。とどめていたその気が流れたことで、真夜中の訪問者は仁威がいることに気づき、振り返った。


 その顔は仁威が絶対に忘れてはならない、よく知った人のものだった。つり上がった瞳、つるりとした頰、若くしてこの国随一の重責をその身に背負う唯一無二の男――。武官としての条件反射で、仁威は平服するべく顔を伏せ、膝を曲げた。が、その行為は訪問者の男自身によって制された。


「やめよ。ここでは余の素性を明かすようなことはしてはならぬ」


 小さく発せられたその声には、命令し慣れた者の品格がある。仁威がその頭を上げると、目の前にいる男はやはり見覚えのある人物――湖国皇帝・ちょう英龍えいりゅうだった。


 仁威は二年前から近衛軍第一隊の隊長を拝命している。第一隊とは、皇族や諸外国の客人など、最重要人物の護衛を主に担当する隊である。護衛対象としてもっとも注意を払うべきは当然この国の皇帝であり、隊長である仁威は皇帝の守護時には必ず同伴してきた。だが、一言二言、言葉を交わしたことがある程度で、それが天帝である英龍としがない武官の仁威との関係だった。ただ一つ――初春の王美人の一件で、わずかだが濃いひと時を共有してはいるものの。


 今目の前にいる皇帝は、黄袍を身にまとっていないというだけでひどく違和感があった。その射抜かれるような鋭いつり上がった瞳も、声も、すべてが見知った皇帝のものなのだが、このあばら家のごとき寺で、真夜中にこうして皇帝と二人対面しているという事実は仁威を少なからず混乱させた。


 そんな仁威の様子に気づき、英龍が小さく笑ってみせた。


えん仁威じんい

「……はっ」

「余が……私がここに来たことは誰にも言わないでおいてもらえるか」


 もう一度端的に返答しようとし、仁威は一寸迷った。


「……陛下はどうしてこのようなところに?」


 それに英龍が困ったような顔をした。


「いや、実は私にもよく分かっておらんのだ」


 どう反応すればよいか迷う仁威に、英龍が苦笑した。


「だが今夜はここに来て一晩泊めてもらう必要があってな。日の出る前には出立する。……ところでそなたのほうこそどうしてここに?」


 その切り返しに仁威は言葉に詰まってしまった。


(……こういう方々には気をつけて発言せねば、と、ついさっきも思ったばかりだったのに)


 自分が問えば相手も問い返してくる可能性があることなど、仁威には思いもよらなかったのである。


(あの王子との一件は伝えるべきなのか、それとも伝えないべきなのか?)

(楊珪己の状況はどう説明すればいいんだ? それとも隠匿すべきか?)


 また表情から読まれてもかなわない、と、できるだけ無表情のままで考えていたが、仁威は一つの事実に思い至った。


(……そうだ。桃林殿がいるのだから、もう一人、ここに女がいることは隠し切れることではないな)


 英龍は何やら思案する仁威の様子に気づいていたが、それでもそれを指摘することもなく、黙って仁威が答えるのを待っていた。


 英龍はこの寺に来て既知の人物と出会ったことに一筋の光明を見ていた。今日、きん昭儀しょうぎの語った未来。凶の星と吉の星。趙家の滅亡、または繁栄。それが本当のことなのかどうかは定かではないが、この武官との会話の中にそれを見つけられるだろうと、英龍はほとんど確信に近い思いを抱いていた。


 だから仁威が「雨に濡れて妹とこの寺に雨宿りをしていたのです」と打ち明け始めたとき、その妹こそが月の御子なのかもしれない、と解釈した。御子というくらいだ、きっと幼い妹なのだろう。


 その幼女がどうして趙家ちょうけの存続を左右する力を持つのか。それが英龍の頭に浮かんだ次の疑問だった。


「そなたの妹は何か特別な力を持つ人物なのか?」

「え……? いえ、特にそういったことは」


 たとえるなら金昭儀のような人物を予想したのだが、その推測ははずれたようだ。


「そなたの妹に会わせてもらえるか」


 皇帝からの突然の申し出は、だが英龍自身にとっては自然な結論だった。


 それに対し、仁威は考える間もなくその腰を折り曲げて深く頭を下げた。


「妹はもう眠っていますので、それはご容赦くださいますよう」

「おお。すまなんだ。このような遅い時分であるしな」


 言いながら、英龍は、


(さてこの場合はどちらだろう)


と事の真偽を見定めようとしていた。


 この武官が何かを隠しているのは確かなようだが……自分が女人に対して不作法なだけなような気もしている。このところ、楊珪己への接し方で幾度か失敗を重ねている身としては、英龍は後者である可能性を否定できないでいた。


(たとえ幼子でも女人であることには変わりはないしな)


 実際、七歳の愛娘ですら、女人であることは疑いようがない事実だ。たとえ虫を愛でようが、やることなすことが大人と違っていようが、その体の柔らかさや気配は、菊花が女人であることを否定するようなものではない。


 それにここは宮城ではないし、仁威の妹は己の臣下ではないのだから、強引に会おうとするのは不遠慮といえた。そのようなこと、色欲狂いの矮小な権力者のすることだ。


 たとえ趙家を守るためであっても、英龍は己が守るべき信念、己が考える人としての最低限の尊厳を捨てようとは思わなかった。――そう思えるこの時代が過去に比べて平和であるともいえるが。


 英龍はこの時代の皇帝であることを誰にともなく感謝しつつ、先の望みについては早々にあきらめることにした。


 その旨を告げて仁威がほっとした顔を隠せずにいるところに、桃林がやってきた。


「そこの方、部屋の用意ができましたよ」

「それはかたじけない」

「では行きましょう」

「そ……あなたはどうされるのか?」


 英龍が仁威に問い、すると桃林もまた仁威を見て苦笑しながら言った。


「あなた様ももう眠られたほうがよろしいですよ」


 仁威は二人の視線を受けたものの、静かに首を振った。


「いいえ。寝つけないので私はしばらくここにいることにします」

「そうですか」


 桃林は何やら思わしげな仁威に気づき、それ以上寝所へと戻ることを勧めなかった。


「では、あなた様は行きましょうか」


 促され、英龍は仁威に小さくうなずいてみせると、連れ立って部屋から出て行った。

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