1.馬鹿になってしまったのか
本巻前半の最終章のはじまりです。
読む時間や場所を選ぶ描写がありますのでお気をつけください。
じんじんと温もりが広がっていく。
体の隅々にまで温もりが伝わっていく。
その心地よさはまさに夢のようで、珪己は無意識でその温もりの素に頬をすり寄せた。それだけで珪己の体は大喜びし、もっともっと、と貪欲にその熱を求めた。すり、すり。頬を動かし、やっぱり気持ちよくてうれしくて――。
夏の草原のような、むっとするけれど爽やかな匂いがする。それはいつかどこかで嗅いだことのある香り、珪己を安心させる香りで――。
頰が緩む。
その緩みを頭の片隅が感知した。
(……あ、私、眠っていたんだ……)
なぜ眠っていたのだろう、いつの間に家に戻ってきたのだろうと考える。
(そっか、夢を見てたんだ……)
そんなことを思いながらつむっていた目をうっすらと開けると、珪己の視界いっぱいにありえない存在があった。それだけで一気に頭が覚醒した。惰性でつむりかけていた目もぱっちりと開いた。
人の体が目の前にある。
誰かの素肌が目の前にある。
厚い筋肉で覆われた胸板が目の前にある。
瞬時に離れようとして、しかしそれはかなわなかった。太い両腕にがっちりと抱えられていたからだ。
一瞬、イムルとの記憶がよみがえり寒気を感じた。ぶるっと震えた珪己に、頭上からその体の主が低い声を発した。
「起きたか」
聞き覚えのある声だった。それによくよく見なくても、珪己を包む体はあの王子のものとは質がまったく異なっていた。
珪己が確信をもって見上げると、そこにはやはり袁仁威の顔があった。
「……袁隊長?」
「どうだ、体調は」
「……へ?」
「寒気は幾らかは収まったか」
「……は、はい」
しどろもどろにうなずくや、仁威は珪己の顔色を一瞥して確認し、その身をあっさりと離した。両腕を解き、身を起こし、共に横たわっていた寝台から出ていく。仁威は上半身には何も身に着けておらず、下半身には布を巻いているだけだった。
仁威も珪己同様、上から下まで濡れそぼっており、褌や襦袢ですら身に着けているわけにはいかない状態だった。いや、自分一人であればこの程度の冷気にはまだ耐えられた。だがそれらを身に着けたままでは珪己を己の体温で温めることができなかったのだ。下半身に巻いている布は、桃林が用意してくれた乾布のうちの一枚である。
珪己がじっと自分を見つめていることに、その背を向けているとはいえ仁威は気づいている。なぜ見つめるのか、少しの考えの後に答えが出て、仁威は振り向くや腰に手をあてた。
「言っておくが、俺だってこんなことしたくなかったんだ。お前が冷えきって震えていたから、だから温める必要があったというだけだ」
「温める……?」
ぽかんとした顔をするこの部下に、仁威は過剰に説明を繰り返した。
「武官なら冷えた同胞を抱いて温めるくらいのこと、当然するものだ」
「抱いて……?」
馬鹿みたいに繰り返し、珪己は仁威を見つめるその視線をゆっくりと自分にやった。
珪己はその身に襦袢――桃林が用意したもの――を一枚着ているだけだった。胸元はきちんと合わせてあるし、裾も乱れてはいない。だが、たった一枚の襦袢だけの姿で他人の、しかも男の前にいるとは――。
「……きゃあああああっ!」
にわかに甲高い叫び声をあげ、珪己が掛布の中に飛び込むのを、仁威は不思議な面持ちで観察し――やがてはっとした。
(こいつ、あの男に抱かれていない……?)
あれだけ体にうっ血した痕が残されていて、仁威は珪己がその貞操を芯国の王子に奪われたものとばかり思っていた。それは侑生も隼平も然りだ。
ぱっと怒りで頭が湧いた。
(あの野郎……! あれだけ俺たちに対して挑発的にふるまってみせたというのに!)
だが確かに思い起こせば、大使館で発見したときから珪己の全身は濡れていた。それはまさに雨に長時間濡れたまま放置されていたとしか思えないほどに――。
長時間濡れた状態でいたから、だからその体が極度に冷えていたのだ。
ということは、つまり、珪己はその着衣を脱がされるようなことはされていない。
今こうして、裸身に近い仁威の体を好奇心と恥じらいを持って見てしまうのも、そこに無理やり体を開かれたが故の抵抗や恐怖が一切ないのも――この部下がそういった無体をされていないという証だ。実のところ珪己自身はその虚偽をいまだ信じていた――起き抜けでもあり否定する要素を見つけていなかったから――が、さすがの仁威もそこまでは察知できなかった。
怒りに乗じて、化かされたような何とも言えない気持ちになったが、しばらくすると仁威はその目を和らげた。ほっとした、というのが正直な気持ちだった。
珪己は今もひゃあひゃあ叫びながら掛布の中でじたばたと暴れている。それは仁威がよく知る無垢な少女のままの部下だった。
と、暴れている内に、その白い足がめくれた布の下から姿をあらわした。
穏やかな気持ちで眺めていた仁威にとって、それは突然のことだった。
小粒のような足の爪。きゅっとくびれた足首。その先に続いていくふくらはぎのふくらみ、男のものとは異なる丸く小さな膝――。
それらを見たとたん、まるで誰かに後頭部を思いきり叩かれたかのように、体中の血がたぎり、脳天がかあっと熱くなった。
安堵で満たされていた心が、突然の荒波でもまれるかのように激しく暴れ出した。
顔にまで血がのぼっていくのを、しかし仁威は初めての経験で押さえる術など知らなかった。ただ口元に手をあて、しかしその目を寝台の上の素足からそらせずにいる。
(俺はいったいどうしたというんだ……?)
その欲が性的な意味であることくらいは仁威にも分かっている。これまでそういった経験が一度もないわけではない。だが、仁威は幼少の時分から女が苦手だった。それも、かなり。表面だけで自分を量り近づいてきて、けったいな言動をしてみせる女共が心の底から苦手だったのだ。嫌っている、と言い換えても差し支えないほどに。
だから仁威は、生理的に体にたまるその熱を定期的に吐き出すためだとか、鬱憤やいら立ちのはけ口だとか、そういう時にしかその欲を感じたことがなかった。
どうしてもしたくなった時に体を提供してもよいという女がいればすることもある。だが我慢してしまうことがほとんどだ。我慢することは別に辛いことではなく、しなくてもどうとでもなる。だから、仁威にとってこの欲とは、ちょっと皮膚の上を虫に刺された程度のことと同じだった。
これまでの人生において理性が飛ぶほど女の体を求めてしまったのは、八年前の夏、李清照との間だけのこと。だがそれも清照の美しさや愛しさにやられたわけではない。事変直後で気が高ぶっていたためだと、仁威は当時から結論づけている。
だから、これまで女の体を見て欲情したことは一度もない。
ちょっと見目の麗しい女を見て、ちょっと肉感的な体を見て、それだけで興奮して我を忘れるなどあってはならないことだと考えている。女の体なしでは生きていけないような腑抜けた男に成り下がるつもりは毛頭ない。今までも、これからも。
なのに今――仁威は明らかに部下のその足に興奮を感じていた。
それは珪己の濡れた着衣を脱がす際、一度感じた欲情だった。だがそのときはそれを理性によって完全に封じこめた。
なぜなら、この部下のことを、その身を力づくで奪われた悲しき少女だとみなしていたから――。
そのような女に欲を感じるなど、人間として、上司として、あってはならない卑劣なことだから――。
だが、仁威の体は今、あきれるくらいに単純に珪己を求めはじめていた。汚されていない、そう気づいただけで、その肌に触れてもいないのに、ただ素足が見えているだけなのに野蛮な欲が芽生えてしまっている。
(俺は馬鹿になってしまったのか……?)
理由を求めつつ、しかしその目は今も珪己の両脚に釘付けになってしまっている。
そらすことが――できない。
その時、掛布の中のうごめきがおさまり、ぬうっと珪己が顔だけを出してきた。涙の浮かんだその目から、恥ずかしさと悔しさによる尖った視線が仁威に向けられた。
「……袁隊長」
「な、なんだ?」
うわずった声が出てしまったが、珪己は仁威の動揺に気づくことなく、ただその赤らめた顔をより一層赤く染めただけだった。
「私も正式な武官になったら、こういうことを仲間にしなくちゃいけないんですよね……?」
「は……?」
「その時はできるだけ頑張ります。頑張りますけど、でも……うわああ! やっぱり恥ずかしいよお!」
そう叫ぶや、珪己はまたもばっと掛布に潜り込んでしまった。
仁威はと言えば、この部下の素直というべきか不思議な方向へと進んだ思考回路に思わず絶句してしまった。




