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5.欲しいと思っている

「何? 楊珪己は来れなくなったのか」


 その報告を異母弟・趙龍崇から聞くや、皇帝・趙英龍は悲しみを隠そうともしなかった。


「それは残念だ。さっそく今夜は共に語り琵琶を奏でようと思っていたのにな」


 膝の上に乗せていた琵琶を一度つまびくと、英龍はそれを名残惜しげに机の上へと置いた。


 龍崇がこの部屋に入る直前まで、英龍は琵琶を奏でていた。その曲、『闘笛』は龍崇がこの世でもっとも愛する曲だ。それゆえ龍崇は、異母兄がこの曲を琵琶で弾けることに奇跡を感じている。笛のためのこの曲を琵琶で奏でる人物を龍崇は二人しか知らない。とはいえ、このような休日の夜、しかも女人の楊珪己が来ると分かっている日に奏でるには、その曲はいささか骨太でもある。


 だがそれについて問うより先に、英龍の方から口を開いた。


「……なあ。すうは余が楊珪己を妃にすることを望んでいるのだろう?」


 このことについて明言されるのは初めてのことで、すると龍崇は先ほどまでの最愛の曲に関する興味本位の疑問をあっけなく手放した。


「……いつからお気づきで?」

「いつからだろうなあ。だが気づいて余はうれしかったぞ」


 その言葉の真意を量ろうと黙り込んだ龍崇に、英龍が重ねて問うてきた。


「なぜうれしかったか分かるか?」


 だが龍崇が答えるよりも先に、英龍はその満面の笑みによって答えた。


えい、もしや……」

「ああ。余は楊珪己を欲しいと思っている」

「それは……」


 一寸考え、龍崇はその頭を深々と垂れた。


「おめでとうございます」

「何を言っている?」

「皇帝陛下が新しい妃をお迎えになる決意をされたこと、臣下として、そして弟として非常に喜ばしく思っております」

「おいおい、それは気が早すぎるぞ。まだ楊珪己の了承も得ていないというに」


(――そのようなもの、皇帝が本気で望めば不要)


 だが、龍崇はそれについては黙っておいた。


 英龍もまた龍崇のことをしばらく黙って見つめていたが、その顔にはいまだ笑みがあり、それが英龍の心の浮き立ちを龍崇にはっきりと伝えた。


 その英龍が何やら思ったかのように語り出した。


「……実はな。余は最近困っておった」

「何をですか?」

「女をな……女を抱きたくてたまらないのだ」


 皇帝にしてはあけすけなその発言に、臣下としても弟としても、龍崇は戸惑いを隠せなかった。


「急にどうされたのですか?」


 確かに最近、そわそわとしたり鬱々としたり、英龍の気分は不安定気味だった。だがそれはこの初春に繋がりが回復したばかりの二人の家族とのことで心を整理しきれていないせいだと龍崇は考えていた。しかし、まさか体の方まで変化していたとは……。そちら方面に敏感だと自負していた龍崇にとって、英龍の変化はまさに天の霹靂のようだった。


「ああすまぬ。言葉が足りなかったかもしれぬ」


 英龍があわてて言った。


「女というよりもな、楊珪己のことを想うとそうなるのだ。別に誰でもいいわけではない」


 純朴な少年のように恥じらってみせるこの兄に、龍崇は医官もしくは学者のごとく向き合った。


「それは至極当然のことです。恋しい、愛しいと思った相手にそういったことを感じるのは人間たる所以ですから」

「ほう、そうなのか」


 目を丸くして拝聴するがごとくうなずく英龍は、やはり唯人ただびとではなく生粋の皇族なのだ。


「だがそのようなことは誰も言ってなかったし、れいにはそういったことを感じたことはないぞ」


 冷静に自己分析までしてみせる異母兄に、龍崇もまた丁寧に答えた。


「異性と体を交えることは皇族にとっては子を成すための行為という意味付けが大きく、次いで快楽を得ること、血縁による味方を増やすことを目的とします。英に教育した侍従らはそういった目的を前提とした行為しか英に説明していないでしょう。

 ですがそれだけを理由とすることなく、人を抱きたいと思う気持ちが湧き上がってくるときが男にはあるのです。特にこの頃は、この国は平和で争いとは無縁となりました。歴史上、そのような時、人は子を成すためではなく、愛を確認するために体を交えようとする傾向があるのですよ」


「では麗に感じないのはなぜだ?」


「……それは理由が二つありますね」


 やや言葉を選びつつ解を上げていく。


「一つは淑妃しゅくひのお体の調子が悪いこと。愛しい人を傷つけてまでしたいと思う行為ではない、ということです。たとえば先日の芯国の男なんぞ、あれはそのあたりの理性が欠如しているようですから、危険極まりないでしょう。もう一つ、それは胡淑妃と楊珪己、二人への感情の質が違うのだと思います」

「質が違う……なるほど。確かに言われてみれば違うな」


 英龍が思案しながら答えた。


「麗とは幼いころからずっと一緒にいたからか、大事なのは確かだが、そこにいるのが当たり前に感じてしまう」

「それは兄弟のように……ですよね?」


 指摘され、英龍はうなずいた。


「そうだな。兄弟という言い方がまさにぴったりだ」

「で、楊珪己のことは?」


「楊珪己のことは……表現するのがひどく難しい。このような気持ちは初めてだ。まだ出会って間もないし直接言葉をかわしたこともあまりないというのに、一緒にいるとうれしくなるし喜ばせてみたくなる。……だがこれは麗や菊花に対する気持ちによく似ているかもな。

 だが麗とは違って、楊珪己にはもっと近づきたい、もっと知りたいという欲望を感じる。そうそう、楊珪己が嫁ぐかもしれないと聞いたときは正直驚いたし残念に思ったな」


「で、今は自分の手の内に楊珪己を囲いたいと思われていると?」

「囲うなど」


 英龍が鼻で笑ってみせた。


「楊珪己には楊珪己の人生があるし、余は麗のときのように誰かの人生を犠牲にするようなことはせぬよ。だから、楊珪己を妃にと考えてくれた崇の思いやりには感謝するが、実際に妃にするつもりは今のところはない」


 英龍は廊下に続く窓のほうに視線をやった。そこから幾分か空が見えた。雨はその激しさをやや弱めているもののいまだ豪雨と呼んだほうが妥当な雨量を誇っている。当然空には何も見えない。星も月も、何も――。


「……月の御子、か」


 口の中だけでつぶやかれたそれは、異母弟の耳には届くことはなかった。


 だが意識して発せられた次の言葉は確かに聞こえた。


「……なあ、余は皇帝であるから、趙家を栄えさせる義務があるな」

「え、ええ」


 惑いつつも得られた答えは確かに正しく、英龍はそのつり上り気味の瞳をより鋭くさせた。


「では余は今宵は後宮にて過ごすことにする」


 突如そう宣告すると、さらに惑う龍崇を置いて、英龍は手を打って侍従を呼び寄せた。


 この雨の中、あえて後宮へと向かおうとするその異母兄の気持ちが、今まで楊珪己について語っていたはずの異母兄の心境の変化が、龍崇にはまったく理解できなかった。


 袖の中で、かさりと紙が鳴った。


 握りつぶした玄徳の書簡はいまだ龍崇の袖の中に潜んでいる。


 そして闇ばかりの空の彼方、肉眼では見えない星が一つ、チカリと瞬いた。

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