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4.月の御子がいなくなる

 この暗闇の中でも、雨の煙る中でも分かるくらい、紫苑寺という寺は質素で小さなあばら家のごとき寺だった。


 まだ意識を取り戻さない珪己を抱え、雨の降りしきる下、仁威は隼平と入れ違いに寺に駆け込んだ。


「よく来ましたね」


 境内のすぐそこには戸を背にしたふくよかな女僧――桃林が待ち構えていた。剃髪した姿でなぜ女だと分かるのか。それはこの僧の柔和な雰囲気が女性特有のものだったからだ。この世のすべての生きとし生ける者を守護するべく僧となったような、そんな包容力と柔らかさを感じられる僧だった。


「さあさあ、早く中へお入りなさい」


 挨拶もそこそこに手招きされ、仁威は小さく頭を下げて建物の中へと入った。


「呉隼平殿から聞いております。妹君は大丈夫ですか?」


 仁威が返答をする前に、桃林が腕の中の少女を覗き込んできた。その合間にも、濡れた仁威の顎から伝い落ちる雫が少女の赤味のない頰の上をいくつも滑り落ちていった。


「おやおや、こんなに濡れてかわいそうに。それに顔色がひどく悪いですね。唇なんて真っ青ではないですか。早く着替えさせたほうがいいですね。兄君もそのままではお風邪を召してしまいますよ。あちらに部屋を用意してありますから早速行きましょう」


 矢継ぎ早にそう言うと、桃林はやや強引に仁威を奥の方へと連れていった。


 案内された部屋は、この寺そのものともいえる質素な室だった。調度類は一切なく、何十年と使っていそうな年季物の寝台が二つ、申し訳程度に設えてあるだけだ。部屋の中央には、わざわざ用意してくれたのだろう、陶器製の火鉢が置かれている。安物特有の無骨な造りはやはりこの寺そのもののようだった。


 だが火鉢の中におさめられている炭の燃えるさまは、室内すべてのものに命を与えるがごとく熱心に燃え盛っていた。そして灯りのないこの室において、赤々と燃えたぎる炭の輝きだけが唯一の光源だった。橙色の夕陽が墨色の海の中でじっと耐えているかのような、夜になる直前の物悲しさ、加えて畏怖すら感じる雰囲気が室内に満ちていて、無意識に、仁威は室に入るのをためらってしまった。


 だがそのような感覚は寺の主には無縁らしい。桃林は慣れた様子で室に入ると寝台の一つに近づき、置かれている女物の長衣を指差すや、「あれを妹君にどうぞ」と明朗に告げた。それからもう一つの寝台の上に置かれている数枚の乾布についても、「あれで体をお拭きになってください」と告げた。


 そしてとんでもないことを言った。


「隼平殿が戻られるのはおそらく夜が明けたころでしょう。もう夜も更けましたし、お二人はここでお休みになってくださいね」


 その発言を咀嚼し、意味を理解するや仁威の表情が変わった。一瞬、顔の上に影が走ったのに桃林が「おや」と不思議そうにたずねた。


「お二人は兄と妹なのですし、このような事態なのですから問題はありませんよね?」

「……あ、ああ、そうですね。そうです。妹と一つの部屋を使うなどというのは幼少期以来で、少し戸惑ってしまいました」

「ほほほ。では今宵は神があなた方兄妹へ与えた贈り物なのかもしれませんね」

「……は?」

「このような雨でもって、お二人の絆をより強固にするための力を貸してくださったのでしょう」


 僧侶らしい見解に、だが仁威は内心ではどきりとした。しかし、「こうして雨宿りさせていただき、また一夜の温情をいただきましたこと、誠に感謝いたします」と、珪己を抱えたままで深く頭を下げた。




 桃林が去ると狭い室内は二人だけとなった。途端に、火鉢の中の焼け付くような炭の赤が存在感を増した。室内が闇一色だからこそ、中央で燃えるその赤が鮮烈に映る。


 するとまた、馬車の中で二人きりでいたときのような騒がしい気持ちが仁威の胸によみがえってきた。


 と、まだ抱えたままでいた珪己の体がぶるりと大きく震えた。それを境に、腕の中にある細い体が小刻みに震えはじめた。カチカチカチカチ、歯まで鳴り出す。見ると珪己の唇は青から紫に近い色にまで変貌し、頬には一切の血色がなくなっていた。


 昼間、楽院からの帰宅途中に冷たい大量の雨に降られ、珪己の全身はしとどに濡れた。そのままの状態でイムルに捕獲されて芯国の大使館に連れていかれたのだが、その間、珪己は着替えてもいないし、優しい誰かが体を拭いてくれたりもしていない。これだけ濡れたままでいれば、今の状況は当然起こって然るべき事態だった。


 実はここに珪己の思い込み――イムルが気づいていて思い込ませておいたこと――を暴く片鱗があるのだが、それは後の話である。


 話を元に戻すと、それから侑生の手によって濡れた衣をまとわされてしまい、今、珪己は極限状態に陥っていた。このまま放置すれば命にかかわってもおかしくないほどに体が冷えきってしまっている。


 それは仁威の目にも明らかで、だからもう、そこからは何も考えなかった。


 寝台に珪己を横たえる。


 巻きついている侑生の上衣をその身から剥ぐ。

 腰帯を緩め、解く。

 合わせ襟を広げる。


 首元から胸元にかけて、暗がりの中、肌の上のいくつもの痕が目に入った。


 それでも仁威は動きを止めない。


 しょう(下半身に巻くスカートのようなもの)の紐を緩める。そして剥ぎ取る。


 そこでくつを履いていることに気づき脱がせた。湿った沓の中から、仁威の手のひらよりも小さな足がひょっこりと現れる。だが踵が硬くなっているあたり、さすがは武芸者といったところか。妙なところに感心した自分を仁威は意識して封じこめる。


 続けて上衣を脱がせる。


 ここまで一切遠慮なく動いているのだが、当の少女はまったく気づいた様子はない。ただその歯をカチカチと鳴らし震え続けているだけだ。


 これで少女の上半身は襦袢――下着だけの状態となってしまった。だがどう考えてもその先まで進む必要がある。重ねた衣服の最奥に潜んでいたくせに、珪己の襦袢はじっとりと濡れていた。そして、その肌に張り付く薄布は、控えめな曲線を描くこの少女の肉体の造形を過剰なまでに仁威へと伝えてきた。だがそれすらも強固な意志の力でもってやり過ごす。


 第一隊隊長となる前、仁威はここ開陽よりも北の方の砦に数年駐在していたことがある。そこは夏ですら涼しい気候で、とりわけ冬は寒さが厳しい武官泣かせの任地だった。そこで何度かこの少女と同じ状態に陥った仲間を見てきている。


 だから分かる。


 今すべきことは早急に体を温めること、ただそれだけだ。


 こん(ズボンの意)の紐を緩め、脱がせる。


 布を剥いだところから思った以上に細くしなやかな脚が現れた。炭火に照らされ、緋色に染まった足が艶やかに光っている。


 闇ばかりの室内で、神々しいまでに光り輝く二本の脚――。


 不意を突かれ、仁威は唇を噛んだ。


 持てる限りの理性を総動員して焦る心を落ち着かせる。


 強引に一息ついて、それから仁威は最後の一枚――襦袢に手をかけた。



 *



「ああ、なぜ陛下は行かなんだか……」


 その闇ばかりの室で、嘆くようにつぶやいたのは金昭儀である。光を直視しない瞳は瞼の裏で何を見ているのか。


「月の御子がいなくなる……残念なことよ……」

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