3.悲しみのない世界を求めて
「楊枢密使」
室の外で警護を担当する武官の声に、玄徳は己の意識を今いる場に強制的に引き戻した。
「来られたか」
「はい。黒太子のおなりでございます」
扉がひらかれると、そこには確かに黒太子・趙龍崇がいた。が、その表情は常のものとはやや違っていた。そして迎え入れる玄徳もまた同様に何かが違っていた。
玄徳と侑生は立ち上がると胸の前で両手を組み頭を深く下げた。その二人の前を龍崇は無言で通ると、窓際、玄徳が執務する椅子のほうに皇帝のごとき悠然さでもって腰を降ろした。
その椅子はこの武殿――枢密院の長が座るべき場所であり、客人のための椅子に座らなかったことからも、龍崇は己こそがこの場でもっとも尊ばれるべき人間であることを明らかにしたのである。
それはあからさまで分かりやすく、逆に言えば品のない、まことに龍崇らしくない行為であった。
玄徳は侑生を背後に引き連れ、座する龍崇に机ごしに向かい合った。
「このたびはこちらにまでお越しいただき深く感謝申し上げます」
あらためて頭を下げると、龍崇は「それで何があったのだ」と、一気に本題に迫ってきた。
普通であれば、臣下である玄徳らが西宮または昇龍殿内の龍崇の執務室へと参ずるべきところ、玄徳は「火急の用」であると告げて、この皇族をここ武殿に来させたのだった。龍崇は皇族専用の隠し通路・飛橋を使えるから、雨に濡れずに、かつ最速でお互いの面談がかなうというわけだ。だが、理屈はそうであれ、皇族を呼び出すというのはなかなかに不敬な行為だった。
玄徳は表面上は穏やかな笑みを浮かべながら、したためたばかりの墨の香る書簡――先ほど迷うことなく二つ作成したうちの一つ――を、そっと龍崇に差し出した。
龍崇はそれを眉一つ動かすことなく手に取り、滑らかな所作でぱらりと開いた。文面に目を通すと、表情を変えることなく玄徳に視線をやった。
「……これはどういうつもりだ?」
「その文面のとおりです。が、表向きはこう言っておきましょう。わが娘は体調を崩したため、華殿に入る件はしばらく延期していただきたく」
「李枢密副使。君は楊枢密使に話したのか」
ぐしゃりと、書簡は龍崇の手で握りつぶされた。鋭い鷹のような双眸で睨まれ、しかし侑生は何も言わず玄徳の背の後ろで直立している。
侑生は玄徳のその背から、赤々と燃える炎を見ていた。普段柔らかな玄徳がたまに見せるその気迫――このような時、侑生はこの愛する上司を絶対的に信じて従うと決めている。それは無謀な依存などではなく、玄徳の能力と強い精神を知っているからこその、全面的な正しい信頼だった。
と、その玄徳の背がふっと動いた。
「黒太子。私の部下を弄ぶようなことは今後はお控えください」
「弄ぶ? これは我が国、我が皇帝のためのことぞ」
「ではなぜ私の部下はこのように悩み苦しんでいるのですか。私の知るこの国とは、皇帝陛下とは、このようなことを起こさねば成らないような、か弱い存在ではありません」
「……貴様に皇族の何が分かるっ!」
ぶわっと、龍崇の体がふくらんだ。異母兄に対する攻撃を感知しただけで、冷静沈着で思慮深い彼の我慢は簡単に断ち切られる。ただ普段は、このような荒々しい態度は反抗的な中書令・柳公蘭一人に向けられることがほとんどで、玄徳に対しては無縁のものだった。玄徳はよく皇族に従い、またその仕事ぶりは非の打ちどころがなく、だからこそ龍崇は玄徳を希少な重臣と認めていたからだ。
が、龍崇の気迫に負けるどころか、玄徳もまた常にはない熱い気をもって龍崇に対峙していた。
「確かに皇族の方々のすべてなど、私のような卑しい者には理解しきることはできないでしょう」
「だったら貴様は黙って私の命に従っていればよいのだ! 貴様も娘が正妃に召されれば喜ばしいだろうが!」
猛る龍崇に、玄徳がその肩を力なくおろした。
「……龍崇様。私はそのようなことは一度足りとて望んだことはありません。立身出世には興味はないと、前から申しておりましょう。私が望むことはたった一つ、悲しみのない世を作ること、それだけです」
龍崇を見つめる玄徳の瞳にはいつしか鋭利さはなくなり、ただ悲しみだけが――この世に不要だと述べたばかりの悲しみだけが広がっていた。
「誰もが悲しみにくれることのない世界、誰もが笑ってくらせる世界、湖国をそういう国にしたくて、私はこれまで枢密院に勤めてきました。枢密使を拝命したのも、その方が理想の世界に近づきやすくなると思ったからです。そして、その世界には、私の娘やこの部下もいなくてはならないのです。もちろん黒太子も皇帝陛下も……誰一人欠けても駄目なのです。誰かの幸せを奪ったところで、そのような喜びはすぐさま幻となりましょう。そうではないですか?」
静かに語る玄徳からは、いつしか熱い炎のような迫力はかき消え、その残滓すら見当たらなくなっていた。今そこにあるのは青く揺らぐ炎――静かに、ひたひたと、だが赤よりも熱く燃える炎だった。
玄徳の深い湖のような瞳に見つめられ、龍崇はその怒気をゆるゆると手放していった。やはり龍崇にとっての玄徳とはただの臣下ではなく、その心を預けることのできる希少な重臣なのである。
長い付き合いがあるからこそ、玄徳がただの娘可愛さ、ただの部下可愛さで訴えているのではないことが龍崇には分かる。玄徳自身が発した言葉のとおりだ。玄徳は今も昔も、涙を流さなくてもよい世界を求めている。そんな哀しいほどに真面目な官吏なのだ。誰もが好む欲や利害に興味を持たず、ただ己の信ずるところを貫きたいと願うこの男。湖国にとってどれほど稀有な存在か。そのようなことは前から熟知していたというのに――。
楊珪己を正妃に据えるということは、この重臣の信頼を失うことまで覚悟して臨むべきことだったのだ。
まだ芽生えきっていない淡い初恋。
愛をかわし心を分かち合うという人としての喜び。
異母兄である皇帝にそれらすべてを捧げたいと龍崇は願ってきた。
だが、果たしてそれらは、この重臣を、今の統率のとれた枢密院を失ってまで得る価値のあるものだろうか。
(……よくよく熟慮する必要があるな)
このまま己の考えるままに、勢いに任せて楊珪己の件を進めることは短慮だと気づいた。
龍崇は握る書簡を自身の広い袖の中に入れた。
「……楊枢密使の考えは分かった。またあらためて話し合おう」
「よろしくお願いいたします」
そして龍崇は武殿から去っていった。




