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2.真夜中の武殿

 ここは宮城内の武殿、軍政を司る枢密院の官吏らが集う殿である。


 休日だというのに、今日も武殿には少なからぬ官吏の姿が見られる。夜である今も仕事にまい進しており、ある者は机にかじりつき、ある者は同僚らと熱心に議論を交わしていた。


 楊玄徳もその一人だった。自身に与えられた室において、一人書き物をしている。しかし今日が特別な休日だというわけではない。彼は枢密院長官、つまり枢密使であり、就任以来、常に多忙を極めていた。一体どこから仕事や課題を見つけてくるのかと疑いたくなるほどに、玄徳の前にはやるべきことばかりが積み上がっている。だがどのようなことにも終わりというものは必ずある。大方の仕事を片付けた玄徳が窓の方に目をやると、暗い空の彼方に雨の勢いが衰えてきたことが見てとれた。


 さあでは、華殿に娘が無事入るのを見届けに行くか、と玄徳が椅子から立ち上がろうとしたその時。玄徳の元に李侑生がたずねてきた。なお、侑生と共に宮城に入った高良季はといえば、別室、枢密院事のための席で忠犬のごとく待機している。これは侑生と玄徳、二人だけで話す必要があることだからだ。


 玄徳は一瞬で侑生の頭の先から沓の先までを眺め、この青年の表情が普段どおりであるものの、拭いきれていない湿り気を帯びた髪、やや青白い顔、それに呼吸が幾分乱れていることに気がついた。


 椅子に深く座り直し、その手を机の上で組む。


「……何があったんだい?」


 玄徳の所作が意味するところ――大事の前の話を聞く体勢――は、侑生も熟知している。だから侑生は迷わず机の前まで進み、この大切な人に向かい合った。


「今夜、珪己殿は華殿に入ることができなくなりました。急に体調を崩し、医官に診てもらったところ伝染病の疑いがあるとのことで、私の一存で勝手ながら、その身を楊家から隔離できる場所に移させていただきました」

「なるほど」


 常のごとくほほ笑みを浮かべて話を聞きながら、だが玄徳は言葉ではないところで侑生の意志を探り、この青年が語りたい意図をくみ取ろうと試みている。


「それは何日ぐらい必要なのかな?」

「最低でも三日、長くても一か月程度かと」


 体の痕が薄くなるのに三日、珪己が心身ともに全快するのに一か月――そう侑生は予想している。それまでには、芯国人の一件すべてを解決するつもりでもいる。


「……そうか。それは困ったね。そんなに長い間最愛の娘に会えないとは辛いなあ」


 三日、そして一か月という真の意味を理解しきれてはいないが、それだけの期間が平常時に戻るのに必要だということは玄徳にも理解できた。侑生が言うのだからそれは掛け値なしで本当に必要なのだろう。それでも寂しさを感じるのは親としてはどうしようもない。


「……すみません」

「なんで侑生が謝るんだ。君は何も悪いことはしていないんだろう?」


 一瞬、玄徳の目の奥が鋭く光った。その光はまさに善悪を見極める天秤のようだった。だが侑生は何も心にやましいことはないので、その光に一切の惑いも見せなかった。


「それについてはこの身にかけて誓います」


 そう明言する侑生はやはり玄徳にとって好ましく愛おしい人間の一人だった。すると玄徳はこれから自分がするべきこと、道筋をすべて理解できた。


「分かった。では私はこれから黒太子に謁見を願う書簡を用意しよう。ああでも、その前に熱いお茶を入れてくれるかい? 私の分と侑生の分。君はそれを飲んでそこでちょっと待っていなさい」


 最後の提案は玄徳が侑生の体の調子を見抜いている所以だ。だが、その見抜かれているという実感が侑生を安堵させた。つい気が緩み、一瞬だけその表情がやや幼く見えた。それに気づき、だが玄徳は何も言わず笑みを浮かべたまま料紙を取り出すと、さっそく何やら書き出していった。書くことは決まっているに等しく、玄徳は間違えることもなく流麗なその文字をすらすらと紙の上におこしていく。侑生は茶を入れると、玄徳の机の脇に邪魔にならないように碗を置き、それから自分の分を持ってすぐ近くの椅子に座った。


 玄徳はあっという間に二つの書簡を作成した。そのうちの一つは、外にいた低位の官吏によって速やかに西宮へ運ばれていった。休日の夜とはいえ、通常の一割程度の官吏は出勤している時間帯だ。


 やがて、玄徳がまだ少ししか口にしていない碗を持って侑生の座る方へとやってきた。


「あちちち。けっこう熱いお茶を入れたんだね」


 そう言って侑生の目の前、客人用の椅子に腰かけ、二人の間の机にその碗を置いた。本当に熱かったようで、置いてすぐにその指で耳たぶを触っている。


「大丈夫ですか?」


 焦る侑生に、「いいんだよ、私が熱いお茶を頼んだんだからね」と玄徳は特に気にもしていないように答えた。


「じゃあ聞こうか」

「……え?」

「まだ時間はあるし、侑生に何か言いたいことがあれば聞くよ」


 侑生の探るような視線をものともせず、玄徳は果敢に熱い碗を手に取り直し、慎重に茶をすすった。そしてまた机に置くと同じことを繰り返し言った。


「何か言いたいことはないのかい? 君が言いたいことは何でも聞くよ」

「……言うべきことではなく?」

「ああ、言うべきことでも言いたくないことは言わなくていい。君が言いたいと思うことだけを言えばそれでいい」


 優しくほほ笑まれ、すると侑生も正直になりたいと強く思った。この人の前では嘘をつきたくない、誠実に語りたい、そういう自分でありたい……と。


「私は……やはり珪己殿を愛しています」

「うん」


 そのあらためての決死の告白に、だが玄徳は動揺することなく、柔らかく相槌を打っただけだった。それに侑生は勇気をもらって言葉を継いでいった。


「……私は珪己殿に華殿に入ってほしくありません。そしてできれば……自分のこの想いを伝えることができればと……そう思っています」


 苦しげに言葉を紡ぐ侑生に、ようやく玄徳が反応を見せた。


「……ああ、そうか。やはり珪己の招へいは皇族のどなたかの妃にするためのものだったのか」


 可能性としては低いこの仮定、だが枢密院事から聞いた話と目の前の青年の様子を統合すれば、その仮定こそが真実であるとみなすのが妥当だった。今もうつむいて何も言えなくなっている侑生を見れば、その仮定はやはりたった一つの真実なのだろう。


「黒太子にそう言われて、それで落ち込んでしまっていたのかい?」


 実際は落ち込んだなどという易しい状態ではなく、だからこそ侑生は昨日仮病を使って欠勤したのだが、玄徳もそれを分かっていて敢えて彎曲した表現を選んでいる。


「申し訳ありません……」

「いやいや、いいよ。それは大変だったね……?」


 そこには労り以外の気持ちはこもっておらず、侑生はあの宴の夜に引き続きまた目頭が熱くなるのを抑えられなかった。それでも必死で涙が溢れるのはこらえる。ここのところ涙腺が弱すぎて困ってしまう。鼻の奥がつんとするのを悟られないように、いつも以上に声質に気を使って、侑生はずっと玄徳に打ち明けたかったことをとうとう吐露した。


「……珪己殿は皇帝陛下の妃候補となっているようです」


 それにはさすがの玄徳も言葉につまった。


「え? あの女嫌いの陛下の?」


 今、皇帝・趙英龍と謁見する女人といえば、幼馴染であり側妃であるれいと一人娘の菊花を除けば、後宮の女官やわずかな上級官吏くらいしかいない。だが中書令・柳公蘭をはじめとした女官吏を英龍はやや苦手意識をもって接していたし、後宮ではどの女官とも必要以上の接触をとろうとしなかった。


 英龍は皇帝らしく、性別関係なく皆と平等に接しているつもりでいる。……なのだが、ちょっとした仕草にそういったことがあらわれている。その理由は胡麗や菊花と断絶していた長い過去の所以で、女人だというだけで無意識に二人に対するように罪を感じてしまう悲しい特性だった。だから決して男尊女卑によるものではない。


 それはしがない臣下である玄徳にもなんとなく分かっており、かつ英龍が女人に対して肉体的な欲を感じないようであったから、まさか珪己が皇帝の妃に求められているとは夢にも思っていなかった。皇帝がいつか妃を迎えるとしてもそれは今の段階では時期早尚で、皇帝の側にもそれを受け入れる心がないだろう、たとえ珪己を求める皇族がいたとしても、黒太子かその他の皇族、たとえば珪己の第二の父のごとき存在である趙龍顕に関係する者、もしくは推薦する人物ではないか――玄徳はそう推測していたのだった。


 だが自身の思い込みなど、事実を前にしてはもはや害にしかならない。玄徳は即座にこれまでの考えを捨て、あらためて事実を元に推測をたて直していった。


「それは陛下自身が求めているのかな」

「いえ、それは分かりません。話を聞く限りでは黒太子の強い意向によって進んでいる話のように思えました。……ですが、珪己殿は陛下と黒太子、どちらとも親しくされているようです。だから陛下の意志がそこにはあるのかもしれません。私はそれを全く知りませんでしたが……。玄徳様は何かご存じでしたか?」

「いいや、私も知らない。珪己からお二人についての話を聞いたことは一度もないなあ……」


 女官と武官を兼任して宮城で暮らすという、非常に特殊かつ過酷な生活を娘が送っていたということに、玄徳はあらためて気づかされた。もっと親として細やかに接するべきだったか……。つい官吏としての思考で物事を考えてしまい、それに準じる会話ばかりを選んでいたことを自覚する。『皇族の方々とどの程度親しくなったのか』『誰かに愛を語られたりしなかったか』などという下世話な類の方面へは一切話を振ったことがなかった。

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