1.卑怯だ
開陽の街の北のはずれ、そのさびれた場所に目的の寺はあった。
付近に数ある山々の中でもっとも標高の低い鳳凰山が、ここではやけに高く見えた。その名のごとく気高く巨大な偶像上の鳥に見えなくもない山だが、着いたころには空は灰一色から黒一色へと変貌しており、その貴重な雄姿はうっすらとしか見えなかった。
あれから太陽の光を直接見ることはできなかったし、月星もまったく見えないが、今は確かに夜だった。雨の威力は衰えつつあるが、雨具なしでは歩くことが難しい雨量であることには変わりはない。寝入る人々に遠慮したのか、天はようやく唸るのをやめ、今は沈黙を取り戻している。
天候と、時間と、場所と。ここでもまた好条件が揃い、寺の周囲には人の姿はまったく見えない。朽ちかけた門の前で三人が乗る馬車は止まり、隼平がその実質的に重い腰を「よっこらせ」と言いながら上げた。
「俺、先に寺に行って話をつけてくるわ。仁威くん、珪己ちゃんのこと少しの間見ててくれる? あ、仁威くんって呼んでいいよね? 俺が枢密院事なことはここの寺の人は知っているんだけど、君の正体まではそう軽々しく言わないでおいたほうがいいと思うからさ」
「……はい、分かりました」
仁威くんなどというこそばゆい呼ばれ方は、武官になる以前で終了していた。それがこの年齢で、近衛軍の隊長となってからまた呼ばれることになろうとは……。当の本人も想像していない珍事である。だが恥ずかしいなどと言える状況ではない。
「仁くんの方がいい?」
真顔で訊かれて、とうとう困った。
「あの……できれば呼び捨てにしてください」
「あ、そう? じゃあ仁って呼ぶね。仁威って呼ぶよりも仲好さそうでいいでしょ? 俺のことも任務外では隼平でいいよ。隼ちゃんでもいいけどね。じゃ、行ってくる!」
言いたいことだけ言い、隼平は雨の中、外へと駆け出していった。
その言動だけでなく存在自体が騒がしい青年がいなくなると、とたんに馬車の中は静かになった。馬車の外、近くには当然御者と馬がいるが、この密室の中に二人だけでいると、急に静かになった空間に仁威は居心地の悪さを感じた。
だが、いまだ向かいで意識を取り戻さず目をつむり横たわっている珪己を見ると、そのような思いはすぐに消えた。無意識に手を伸ばし、その血の気のない頬にそっと触れていた。冷たい。だが手のひらで包むようにすると、そこには確かに生きている人間にしか持ちえない熱があった。
この闘いが始まってからようやく触れることのできた熱だった。
「……楊珪己。無事でよかった」
触れているその手の親指で、頬を幾度か撫でる。柔らかい感触がうれしかった。額にかかる濡れたほつれ毛をどかし、珪己が横たわる長椅子に移動し腰を降ろす。見下ろす珪己の顔色はいまだよくない。
これまで仁威の目の前にあらわれる珪己といえば、いつもその頬を健康的に桃色に染め、目は明るくきらきらと輝かせていた。王美人との闘いでも、道場での辛い稽古のときでも、こんなふうになったことはない。こんなふうに、ぐったりと生気のない表情で力尽きているところを見たことはない――。
仁威は珪己を抱き起こし、両手で胸の中にかき抱いた。珪己を包む濡れた衣が仁威のようやく温まってきた体に冷気を伝える。だが仁威は珪己を腕の中に抱くことをやめなかった。それが今の仁威にできる精いっぱいのことだった。己のなけなしの熱を分け与えることくらいしか、この部下にしてやれることを思いつけなかった。目を覚ました後、この少女に何が起こるのかは分からないが、せめて意識を失っていられる今だけでも心地よく眠っていてもらいたい――そう思ったのだった。
八年前のあの夏の朝、そして先ほども、大事な局面でこの少女を抱きしめたのは李侑生だった。だが仁威もこの初春、王美人との闘いにおいてこの少女を抱きしめている。そして今もこの少女を抱きしめているのは自分だ……。
抱きしめていると、素直に愛おしいという気持ちが湧いてくる。部下ならば誰にでも抱くその情をこの少女にはより強く感じる。それはなぜなのか。唯一の女の部下だからか。年下だからか。手がかかる部下ほど可愛く思えるものだからか。理由ははっきりとしないが、少なくとも、なぜかこの少女にとりわけ強い情を感じている自分がいた。
侑生は言った。
『彼女を助けるのは自分がいい』
『珪己殿のことを愛しているんだ……』
卑怯だ、と今になって思った。
あの時はそうは思わなかったのに、今はそう思う。
本当に卑怯だ。先に言い出して、だから自分にその愛を語る優先権があるかのように、侑生は言外に主張してきた。そして自分の愛は崇高で唯一無二のものであるとでも言いたいかのように仁威に訴えてきた。
(……だったら俺のこの気持ちはどうすればいいんだ)
お前の女には興味はないと言った。
それは本心だ。
だがその女は俺の女でもある。
俺もお前と同じだ。
俺もこの女と運命を分かち合っているんだ。
八年前の夏、俺もこの女と繋がってしまったんだ。
――そして俺はこの女の直属の上司でもある。
「くそっ」
いら立ちをごまかすかのように、仁威は珪己を抱え直した。
衣の向こう、ゆっくりと珪己の温もりを感じられるようになってきた。仁威の熱には冷えた少女の体を温める効果が確かにある。そして二人の体温は相互に干渉し合い、お互いを癒し合っている。
仁威のそれらの考察や湧き出る感情が導きだす結論は、たぶん一つしかない。だがそれでも仁威はそれを見ないように抵抗を続けている。自分の中に構築された人生論、正義、人としてのあるべき姿、そして愛について――。そのどれもが、この結論を認めたくないと全否定している。これまで培ってきた自己を崩壊させたくない、本能がそう強固に訴えている。
(だがそれでも、今だけでも……)
こんなに人の体温は心地いいものだったろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、仁威は二人だけの世界で珪己を抱きしめ続けた。
*
コンコン、と外から戸を叩く音がして、仁威は意識が飛んでいた自分に気がついた。音を立てずに珪己から離れて元いた場所に座るや、直後に戸が開けられ隼平が顔を覗かせた。
「いやー、お待たせ」
言いながら仁威の隣に座ってくる。
「桃林さん……あ、ここのお坊さんのことね、その桃林さんに詳しく説明してたら遅くなっちゃった。それじゃ仁は珪己ちゃんを連れて寺に入って休んでてよ。あとは桃林さんに任せれば大丈夫だから」
その桃林という僧を信用できるかどうかが分からず、仁威はやや眉をひそめた。その様子に隼平が安心させるように笑った。
「桃林さんは信じても大丈夫だよ。仁も会えば分かると思う」
不承不承うなずいたところで、隼平の話が再開された。
「でね、俺はこれから家に戻って男物の服を持ってくるから。この寺、女の桃林さん一人で住んでいるからさ、珪己ちゃんの着替えになるようなものはあるけど俺らのはないんだ。俺らもいつまでもこんな恰好してたら風邪ひくしさ。すぐ戻るから仁は寺で待機してて」
「それなら俺が行ったほうがいいと思いますが」
「あ、ここでは絶対に敬語なしね。で、ここは俺が行くべき。もし何かあっても俺には珪己ちゃんを護る腕はないんだ。俺、生粋の文官でさ、武芸の腕はからっきしなの。だからしばらく仁には宮城には行かずに珪己ちゃんと寺にいてもらいたいんだよね。そのための手続きもちゃちゃっとやってくるわ」
明日は今日に引き続き休日だからいいとしても、あさっては週明けで官吏の誰もが通常任務に戻る。だが、隼平は仁威をそうさせないように画策するつもりでいた。しかし一つ大事なことには頭が回っていない。
今日、仁威は芯国の王子に危害を加えた。言葉にはしていないが、隼平はこれを察していなくてはおかしい。話し合いで珪己を取り返せたなどと、平和な思考しかできない人間が枢密院事という高職に就けるわけがないからだ。そして今日の面子でその任を請け負えるのは仁威しかいない。だが、あれやこれやと大事が重なった結果、普段から楽天的な隼平の頭からは仁威の悲惨な未来を予測する余裕はなくなっていた。
仁威は王子を殺してはいない。殺せば国家間に取り返しのつかない歪みを生じさせる、だから殺さなかった。だが、生かしたことで、いずれ仁威はこの王子に捕獲されることになるだろう。それは定められた未来だった。それを分かっていて仁威は王子を生かした。殺せば、身元のばれている珪己に真っ先に火の粉が降りかかることも明らかだったからだ。
そう、仁威は大きな覚悟をもって、真実この命を懸けて自身の持つ紅玉、武官の証を返したのである。その覚悟のほどは大使館に自ら入ることを選んだ侑生の比ではなかった。
たとえ辞表が受理されなくても、仁威が第一隊隊長でいられるのはあと何日もないだろう。早ければ明日、遅くても一週間といったところだと踏んでいる。いや、隊長どころか一武官でもいられなくなるだろう。芯国に引き渡され自由も命も奪われる時は、おそらく目前にある。それゆえ、侑生はおそらく珪己と共に仁威をいずこかに隠すつもりでいるはずだ。だがそれではこの国、枢密院、近衛軍、そして第一隊に迷惑をかけてしまう。騒ぎが公になる前に人知れず開陽の街から出なくてはならない。それゆえいつまでも寺にいるわけにもいかないと仁威は考えていた。
だが仁威は隼平の決定事項とも思える提案を否定しなかった。
「分かりました」
すると隼平が不満げに顔をしかめた。
「だからあ、敬語はだめだって。桃林さんには俺と仁は友達だってもう説明しちゃったんだからさあ。ちなみに珪己ちゃんは仁の妹で、突然の雨にうたれて具合を悪くしたようだって言ってある」
隼平の語る内容はどこぞの物語のようで、仁威は喉の奥が痛くなるのを感じた。友と妹、本当にそんな関係であれば……。だが隼平と、侑生と、玄徳と……珪己と。誰にも自分のことで胸を痛めてほしくないのだ。もちろん、危険を犯してほしくもない。このまま一人、自分の身にのみ罪を背負って消えてしまいたいのだ……。
この泣きたくなるような弱い心は、珪己に触れることで得た熱に感化されて蘇ったものかもしれない。仁威は感傷的な気分を急いで振り切った。命を懸けると決めた時点で心も捨てると決めていた。だからたとえ蘇ろうとも、何度でもねじ伏せるのみ、それしかない。
(……それが俺の生き方だ)
仁威はわざと馬鹿にしたように応じてみせた。
「その説明だとこの体の痕はどう説明するんだ?」
仁威の指摘に隼平がぐっとつまった。
「あ、そっか。珪己ちゃんの着替えは桃林さんにやってもらおうと思ってたのにな、しくじったなあ……。じゃあかわいそうだけど、珪己ちゃんが意識を取り戻すまでは着替えとかさせないように仁のほうでどうにかして?」
純朴そうな瞳でそう言われると、仁威もうなずくしかない。
「よし、じゃああとは仁に任せる。……もしも俺が戻ってこなくてもそのときは頼むね」
最後の発言はこの状況では不吉すぎたが、最悪の状況まで考える必要があることは分かっているため、仁威は武官らしい表情でその命令に首肯してみせたのだった。




