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邂逅

 はじめて女を抱いたのはいつだったか。


 多くの男が覚えているであろうこの日、女のほうにしてみれば記憶し続けることが必然ともいえるその日を、侑生ゆうせいは答えることができない。


 気づけば、女は途絶えることはなかった。


 二人の姉と、数多くの従姉妹と。李家りけはまさしく女系の家であった。侑生はその家系における貴重な男子としてこの世に生を受けたわけで、であれば女の生態に詳しくならないわけがない。家の中で自分の立ち位置を確保するためには、女の機微に疎いままではいられなかった。


 侑生は女が嫌いではなかった。血の繋がりのある人間のことは他人よりも好ましく思えるくらいには普通の子供だった。血縁に愛着をもつことは女に愛着をもつことであり、血縁を理解することと女を理解することは同義ともいえた。それだけのことだった。


 そんな侑生が、なぜ男の象徴ともいえる武芸に心酔していったのか。


 それは女だらけの環境にいたからこそだろう。


 偶然覗いた近所の道場で、偶然見かけた稽古――。


 激しく打ち鳴らされる木刀の深い響き。

 室内にこもる汗のにおい。

 五感すべてで感じられる室内の濃密な空気。


「侑生、何見てるのよ。もう行きましょ」上の姉に声をかけられ、「そうよ、早く帰ってお茶でもしましょ」下の姉に袖を引っ張られ。


 まさに後ろ髪をひかれる思いで帰宅した侑生の心には、それでも道場での景色が色あせることなくずっと残った。このような野蛮な光景を目の当たりにするのは初めてだったのだ。危険だからこそ近づいてみたくなる、幼子らしい習性も作用したのかもしれない。とにかく刺激が強すぎた。あの興奮を全身で味わってみたいと、いつしか熱望していた。


 とうとうある日、侑生は「武芸を習いたい」と父に懇願した。それはいともたやすく了承された。武芸とは男のたしなみの一つでもあり、将来文官となった際にもその経験は有益になるはず、侑生の父はそう考えたのだ。この父はなんとしてでも侑生を文官にし出世させたいと望んでいた。


 それから少しずつ少しずつ――侑生の過ごす場は、女だらけのお茶と菓子で満たされた世界から、男だらけの剣と争いの世界へと移行していった。


 武芸に夢中になりすぎて親家族には苦言を呈された。学問に身が入らなくなり、ついには道場へ行くことを禁止されたこともある。それでも侑生は道場へと通い続けた。


 侑生はようやく気づいたのだ。


 己の中にくすぶる熱い衝動と闘志に。


 気づけば、それはもはや何かで昇華するしかなかった。だから武芸を続けた。武芸は己の内の問題を解決する手段として、もっとも直接的で手っ取り早かったのである。


 武芸はまた、侑生の知識欲を存分に満たした。もともと賢い子で、武芸の腕をあげるためにはどうすればいいか、自発的に書物を読み漁った。得た知識をもとに自分や他人を冷静に分析し、計画、実践、評価、そして改善と、その流れを繰り返すことで、侑生はめきめきと上達していった。自分が思ったとおりに物事がはこび、大の大人ですら打ち負かせてしまうという体験を重ね、それによってこの少年は自信をつけていった。この年頃の人間にとって大切なことの一つを、侑生は武芸によって得たのである。


 そしてとうとう、十六歳にして近衛軍の武官に就任した。武官といえばやや卑しい職ともとらえられるこの時代、侑生はあえて武官となったのである。それは幼少時代から続く承認欲求を満たし続けるための当然の選択であった。それを機に実家を出た。


 だが、美や富を愛する女にこそ忌み嫌われる職に就いたというのに、それでも侑生の周りから女が途絶えることはなかった。それは武芸をはじめた幼少期からずっと変わらない。血縁だけでなく、いつでも周囲には女という存在がいた。


 侑生は自分の美しさを十分自覚していた。父親譲りの切れ長の瞳、母親譲りの気品、両親の良いところだけを集めて形作ったかのような少年だった。首都・開陽に住むようになると、侑生を誘う女の数は格段に増えた。だが結局のところ、女を引き寄せる最大の理由は侑生の変わらぬ内面によるものだろう。たとえ武官になろうとも、その本質はすっかり女系家族の一員にふさわしいものになっていたのである。


 だから侑生は覚えていない。


 はじめて女を抱いたのはいつだったか。

 相手はどんな人だったか。

 うれしかったか。恥ずかしかったか。気持ちよいものだったか。


 そういったことを一切覚えていない。


 だがおそらく――。


 相手がそれを望んだから、だから抱いたはずだ。

 別に嫌ではなかったはずだ。


 本当に嫌なことはしないと決めている。


 それをすることとしないこと。二つをはかりにかけて、したほうがいいと思え、嫌でなければする。それだけのことだったはずだ。


 奉仕の精神、慈愛の行為といってもいい。


 女にはこの姿勢をもって接するべきなのだ。


 幼いころからそれは熟知している。




 枢密院の官吏となってからは、この献身の行為に自分の欲することも加わった。


 仕事のために抱く。

 何か利があるのではないかと考えて抱く。


 それもまた良し。お互い欲しい物を与えて与えられて、何の問題もない。


 しかし欲張りな女からは即刻手を引いた。それもまた昔からだ。欲望を抑えることのできない人間は、男でも女でも嫌いだ。嫌な人間は抱きたくない。それは人間として至極当然のこと、侑生にも人を選ぶ権利はある。




 なのに、いつの間にか、女を抱くことの意味が変わってきている。


 自分を保つために抱く。

 自分の価値を確かめたくて抱く。


 ここにいていいんだ、生きていていいんだ、そう思いたくて抱く。


 そういうとき、やや暴力的に女を抱いてしまうことがある。


 相手は誰でもいい。

 でもできれば上質な女がいい。

 美しく身分が高く、容易に手に入らないような女がいい。


 自分の価値をより高めてくれるような女がいい。


 それはけっして愛ではない。ただの自己満足、傲慢だ。




 そんな自分の一面が無性に醜く思えるときがある。


 するととたんに胸が苦しくなる。


 力の限り胸をかきむしり、薄汚い心の臓を引きずり出したくなる。


 あの人にふさわしくない自分にいまさらだが泣きたくなる。




 少なくとも以前は楽しかった。


 抱いてやれば女は喜ぶ。そんな女の姿を見るとこちらも充足感で満たされた。


 だが今は違う。


 抱いてやれば女は喜ぶ。そんな女の姿を見て――反吐が出そうになる。

 でもやめられない行為――そんな自分にも吐き気がする。




 結局、侑生の本質は今も変わらない。


 誰かに認められることでしか自分を保てない。


 それは生まれたときから定められた宿命なのかもしれない。


 たとえ『天子門正』になろうとも、枢密副使になろうとも――。




 人は簡単には変われない。

次話から前巻のつづき、道場での鄭古亥とイムルのにらみ合いの場面と同時刻からの描写になります。

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