6.真実の愛は一つしかない
待ちに待った侑生の帰宅に、だが高良季は喜ぶ以前にただ驚愕した。待ち人の上半身が濡れた襦袢で透けて、男の良季ですら直視できない色気を放っているのもそうだが、その表情が非常に険しかったのが最大の理由だ。
侑生は良季の存在に気づくと、顔にしたたる水滴を無造作に払いつつ、まるでそれが当たり前であるかのように「ついて来い」と一言告げた。そして早足で歩いていく侑生を、良季もまた従者らしく無言でついていった。
良季が初めて入る侑生の部屋は、広いがひどく簡素な印象を受けた。上級官吏らしく多数の本が納められている棚、机と三客の椅子、布の掛けられていない窓、整えられていない寝台――。外で見る繊細で律儀そうな彼の姿とは異なり、この部屋からは雑で実用的な趣を感じる。ふわりと香る白檀だけが、この部屋が侑生の自室であることの証だ。
侑生は衣装棚から乾布を取り出し、手早く顔を、髪を拭き、そしておもむろにその裳を、襦袢を一つ一つ脱いでいった。良季は礼の一つとして侑生に背を向けた。その背後、衣擦れの音をさせながら侑生がようやく話し出した。
「……珪己殿が芯国の王子にさらわれていた」
「え? 珪己殿が? 王子? ……さらわれていた?」
思わず振り向くと、侑生はちょうど新しい襦袢にその肌を隠したところだった。まだほつれた髪の先からぽたぽたと滴を垂らし、その姿は妖艶そのものだ。
「なあ……私は今どのように見える?」
突如問われ、良季はそれに官吏らしい的確な答えを述べた。
「何か非常事態が起こっており、それに悩んでいるようですね。……いや、悩んでいるというよりは心を痛めているように見えます。何か個人的な問題が起こった……わけではなさそうですね」
侑生が手に取った紫の袍衣に、良季が言葉を変えた。
「これから宮城へ行かれるんですか?」
侑生はそれには答えなかった。着替える手をとめ、目をつむり、深く息を吸い、そして吐いていく。それを幾度か繰り返したところでその目を開けると――侑生は先ほどまでとはまるで別人のようになっていた。すべての感情を表情の上から隠したのだ。
急激な変化に良季も驚く中、官吏然とした侑生は淡々と着替えを再開していく。
「……紫苑寺、を知っているか?」
「ええもちろん。隼平が懇意にしている寺で、私と隼平は科挙の受験期間、そこに部屋を借りて滞在していました。それがどうかされましたか?」
「では私の城での用事が済んだら案内してくれないか。それと階下に降りて家人に馬車を表に出すよう言ってきてくれ。宮城へは良季も共に来るんだ。あとの説明は馬車の中でする」
「了解しました」
即行動するべく扉を開けようとした良季の鼻の先で、何の知らせもなく力任せに扉が開かれた。良季があわてて後ろに下がると、そこには李清照がいた。腰に手を当て威風堂々と立っている。
「不肖の弟よ、ようやく帰ってきたわね!」
「……姉上。ですから扉を開けるときは声をかけてからにしてくださいってあれほど何度も」
だが清照は相変わらずの調子そのままに話を聞こうともしなかった。
「昼過ぎから高良季さんがずっとお待ちなのよ。……って、あれ? いつの間に?」
室の中にその良季がいることに気づき、清照が目を見開いた。何も変わるところのない姉に、侑生もつい苦笑した。
「姉上。私はこれから宮城へ行きます。今日は帰らないかもしれません」
「はいはい、分かったわよ。『今日も』帰らないんでしょう?」
呆れた顔で清照が腕を組む。
「そういうの、そろそろやめたほうがいいわよ」
この姉が何を勘違いをしているかは分かったが、侑生は黙ったまま身支度を整えていった。半分は当たっているし、今は論争などしたくない。するべき状況でもない。
その弟の無言の抵抗に、だが清照も今ここで言うべきことは言わなくては、と、先ほどから心に決めていたことを即実行に移した。
「昨日、珪己ちゃんに会ったわよ。侑生のそういうところが嫌で、だからもう別れたって言ってたけど?」
その言葉に帯を締める侑生の手が止まった。だがそれも一瞬のこと、きびきびと身に着けるべきものを身に着けていく。
「せっかく皇帝陛下を退けてまで守った恋なのに、そんな馬鹿みたいなことで珪己ちゃんを失っていいわけ? 珪己ちゃん、悲しそうな顔をしてたわよ。もっとちゃんとしなさいよ」
それでも背を向けたままの弟に、清照は組んでいた腕をほどいた。
「……あんたはね、一人を相手にしていればそれでいいのよ。なんでか分かる? それはね、真実の愛っていうのは一つしかないからなのよ。不特定多数を相手にできるのは、あんたが真実の愛に気づいていないからなのよ」
両の拳をぎゅっと握りしめる。
「いーい? たくさんの女に愛をふりまけるほどあんたはご立派な存在じゃないわよ? そんなことができるのは天に住まう皇族の方々くらいなもんよ。あんたがいくら天子門正で枢密副使だってねえ、あんたはただの人間で、真実の愛は一つしかないのよ。それを大切にしなくちゃだめなのよ。失ったらそれで終わりなのよ。ねえ、聞いてる?」
歩み寄り腕をつかむと、侑生はようやく清照に振り向いた。だがそれはしぶしぶといった態度ではなく、堂々と、悠然としていた。
「姉上がそのようなことを言うのは初めてですね。もしかして心配してくれていたのですか?」
「そうよ。悪い?」
憤る清照の後ろ、良季がぷっと吹き出した。
「何よ。姉が弟の心配しちゃ悪い?」
「いいえ。……ありがとうございます。ですが大丈夫です。私はもう気づいていますよ」
「……え?」
「真実の愛だということに気づいています。だから大丈夫です」
そう言ってほほ笑んだ侑生は、確かに清照が見覚えのある表情だった。それは八年前から今まで、鏡の中に映る自分の表情そのものだった。
(なんて幸せそうな顔をして笑うんだろう……)
家族の幸せを祝福したいと思う気持ちは、自分によく似た人のことだというのも生じる理由なのかもしれない。自分によく似た侑生がそうやって笑ってくれただけで、清照は自分のこの身に幸福が舞い降りたような心地になった。
「では姉上。私はもう行きます」
室を出て行こうとする侑生を、とっさに清照は呼び止めてしまった。訝しげな顔の弟に、清照は手に持っていた物を押し付けた。
「じゃあこれ持っていきなさいよっ」
それはできあがったばかりの清照の詩集だった。
「……え?」
たまらず眉をひそめる侑生に、清照は得意げにあごをあげ、ふんと鼻を鳴らした。
「侑生はこれを読んでもっと愛について勉強するべきだわ。また真実の愛を見失わないようにね」
「はあ……分かりました」
苦笑しながらも侑生はそれを受け取った。こうして心配してくれる人がいることに気がつくたびに、このような時だというのに、侑生はうれしさを感じるのであった。




