5.脱出
腕にかかる重みが増したことで、侑生は腕の中の少女が気を失ったことを知った。あわててその顔を見ると、呼吸に異常はなく怪我はないようであった。疲労困憊な中、極度の緊張が解けたことで気が緩んだのだろう。それでも、近くで見れば気づかざるを得ない『異常』の多さに、覚悟していたとはいえ侑生はひそかに動揺してしまった。
胸中をごまかすように珪己を横抱きにしたところで温忠がそばに寄ってきた。
「珪己は大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。さあ、急いでここを出よう」
侑生は珪己を深く抱えるや、いきなり先導するように早足で歩き出した。その背を二人が追う形で続く。
侑生は珪己を抱えながら、周囲に気を配りつつ、元来た道を進んでいった。再度冷たい雨に濡れながら、逸る気持ちを抑えて慎重に歩みを進めていく。
仁威は温忠に真ん中を歩かせ、自身は最後尾からついていった。最後の最後まで絶対に気を緩めてはいけない。闘いにおいては、業を持ってして行う派手な場面以上に、こういう時のほうが人は失敗するものだということを経験上知っている。敵を破ったことで油断してはいけない。この場から全員を連れ出すことが至上の目的であるからこそ、仁威の表情はいまだ険しかった。
そして、屋敷を抜け、向こうに待機させてある馬車へと向かいながら――侑生の表情もまた変わらず暗かった。
*
近づく足音に、馬車の中から呉隼平がそっと顔を出し、一転して晴れやかな表情になった。
「おおっ、無事に戻って来たな!」
ずぶぬれの侑生、そして腕の中にいる珪己を認めた隼平があわてて大きくその戸を開ける。そこに勢いのあるまま侑生が入ってきて、馬車がぎしぎしと音をたてて揺れた。滴がぽたぽたと落ち、車内を濡らしていく。二人が入ってきただけで、一瞬にして熱気と冷気という相反するものが馬車の中に引き込まれたかのようだった。
侑生は珪己を片側の長椅子の上に寝かせると、すぐさま自分の上衣を脱いだ。その下には白い襦袢しか着ておらず、濡れた薄布が均整のとれた上半身に張り付き、やや肌が透けて見える。それでも侑生は自分の羞恥などかまわずに脱いだその衣を珪己に掛けた。掛けるだけでなく、首元までしっかりとくるむ。その素早さにもかかわらず、隼平の目は首元のそのいくつもの痕を見てしまった。
「間に合わなかったのか……?」
「今はまだその話をする時ではない」
硬い口調で口止めをされたその時、ちょうど遅れてやってきた二人が追いついた。それに気づき隼平もその口を閉ざした。
温忠が馬車に入り、最後に仁威が周囲を気にしながら乗り込み戸を閉める。すかさず命じられた御者が馬に鞭を振るった。
がたがたと揺れ出した車内、誰もがしばらくは何も言えずに無言でいた。とにかく今は無事に珪己を救出できたことに一同安堵している。仁威もここまで来たことでようやくその肩の荷を降ろし、緊張の糸を解いた。
(早くここから離れて安全な場所へと戻りたい……)
ふと侑生を見ると、寝入る珪己を背後に置くその様子は、仁威の目にはやや奇怪に映った。もう少しその手に愛する女を取り戻した喜びを表せばいいものを、今も何やら険しい顔をしている。
やがて侑生の口から驚くべき発言がされた。
「隼平、どこか数日の間彼女をかくまえるところはないか」
「……楊家に行くのではないのか?」
仁威の当然の問いに、だが侑生は隼平だけを見ている。こちらを振り向こうともしない侑生に、仁威は何やら不可解な気持ちになった。
(まだ何かあるというのか……?)
隼平は腕を組み、この上司――侑生とよく似た表情でしばらく考えていたが、「では紫苑寺に行こう」と答えた。
「紫苑寺?」
「俺がよく行く寺だ。呉坊さんの知り合いが一人でひらいている小さな寺で、科挙の受験時にお世話になって以来、今もちょくちょく遊びに行ってるんだ。北のはずれの方にあって、あんまり人が来ないから」
「女僧か?」
「ああ、もちろん」
何がもちろんなのか、仁威と温忠には理解できない。だが侑生と隼平には通じているようで、二人はお互いに視線を交わして、その目だけで会話を続け、そして黙ってうなずきあった。
珪己は今も身じろぎひとつせず横たわっている。濡れた衣に包まれ、その体が余計に冷たくなっているようだった。顔色も若干良くない。だがそれを指摘することが憚られる雰囲気が車内には満ちている。
馬車は途中、まず李家――侑生の家に寄った。侑生が席を立ち離れた瞬間、何も言わず隼平がその上司のいた席に移った。珪己は隼平の背の後ろに隠された。
「では私は身なりを整えて急ぎ宮城へと行く」
文官の袍衣を身に着け、まだ宮城にいるであろう楊玄徳に会う必要があった。
(どこまで語るつもりなんだ?)
隼平はそう問いたいところを、仁威と温忠がいる手前ぐっとこらえた。侑生は当事者の二人に何も語ることなく去ろうとしている。であれば、今自分にできることはこの上司を信じ、かつこの上司が望むように行動することだけだ。
だからいつものように、にかっと笑ってみせる。
「あとは俺に任せとけ」
「ああ」
ようやく笑みを見せ、そして屋敷へと入っていった侑生を、隼平は感慨に浸る間もなくその視界からはずした。
馬車を動かし、隼平はまず温忠に向かい合った。
「君は礼部の官吏なんだってね」
「はい。張温忠といいます」
声をかけられ、その顔が一気に青ざめた。それに隼平が安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫、とって食ったりしないから。珪己ちゃんのことを助けようと動いてくれてたんだろ? ありがとね」
「……いいえ、いいえ! 僕のせいで珪己を危険な目に合わせてしまって、僕は珪己に何度謝っても足りないくらいなんです!」
今にも泣き出しそうなその様子に、隼平はそれでも咎めることなく、ぽんとその肩に触れた。
「もう大丈夫だよ。あとは大丈夫だから俺らに任せて? 君の家は危険かもしれないから、このまま宿坊に連れていくからね」
「でも……」
「ん?」
「あの……珪己が目を覚ますまでそばにいさせてもらえませんか?」
「いや、それはだめだよ。君がいると色々と話が複雑になりそうだしね。分かってもらえるかな?」
柔和な瞳にのぞきこまれ、温忠はしぶしぶながらもうなずくしかなかった。それに隼平が安心させるように微笑んでみせた。
「ありがとね。また今度話を聞くけど、今夜はゆっくり休んでよ。仕事もしばらくは休んでもらうことになるだろうけど、落ち着いたら今までの生活に戻れると思うから」
「……それは官吏補を続けてもいいということですか?」
「いや、君が辞めたくなったんなら仕方ないけどさ。そうでないのならぜひ続けてよ。君みたいに芯国にコネがある人はこの国にとって貴重だろうからさ」
なんの邪気もなさそうな隼平の笑顔に、温忠は戸惑いながらもうなずいた。
そしてある場所で温忠を馬車から降ろし、また馬車が別方向へと動き出した。
がたがたと揺れるその車内、いまだ珪己は意識を取り戻すことなく横たわっている。その少女の顔に隼平が振り向きざま自身の顔を寄せ、その耳で珪己の呼吸を確かめた。次に手をとり、手首の脈を診る。その間、隼平は神妙な顔をしていた。
様子を見終え、その手を侑生の衣の下に入れ――そのとき、ややはだけた衣の隙から、仁威はその痕に気づいてしまった。
大使館でも首元にいくつか見えていたが、それは胸元まで散りばめられていた。
隼平が珪己を背にし座り直したところで、向かい合って座る仁威が痛いくらいの視線で睨みつけていることに気づいた。
「今見たことは誰にも言うなよ」
「何を言っているんですか。故意に俺に見せましたよね」
にっと隼平が笑った。
「君なら見逃さないと思ったからね」
「……だから楊家には行かないのですか」
「そりゃそうだ。痕が消えないかぎり戻れないだろう。楊枢密使が驚いてしまう」
実際には驚いたなどという可愛らしい表現では済まないだろう。
「それでは侑生は楊枢密使になんと説明するつもりなんですか」
今、まさに侑生はその人物に会いに向かっているはずなのだ。
「何かの伝染病にかかったとでもいって、数日隔離すると説明するんだろう。それで楊枢密使は『何かが起こった』ことは理解して皇族方に華殿へ入れなくなったことを説明してくれるはずだ」
「……真実を追求せずに?」
枢密使であるのに、娘の父であるのに、真実を知らずに皇族相手に動くというのは不可解かつ無謀に思える。だがそれに隼平が得心した顔でうなずいた。
「ああ。楊枢密使は侑生に二心がないことをご存じだから、侑生の姿や言葉の調子だけで、自分がどうするべきかを判断されるはずだ。大切なことは真実を知ることではないだろう? 違うか?」
そう問いながら見つめてくる隼平の瞳は深いほどの慈愛に満ち溢れていた。玄徳にも似ているが、それとはやや違う色だ。文官のわりに巨漢なこの男、その風貌に反してなぜか母性に近い雰囲気を有している。根は単純そうだがなかなか独特な男だ。
(こういう男は武官にはいない。……だが信用はできる)
仁威は覚悟を決めた。
両手を膝に置き、深々と頭を下げる。
「楊珪己を、俺の部下をよろしくお願いします」
下げられた頭も、その衣も、侑生の比ではなくぐっしょりと濡れている。随分長い間このような悪天候の下にいたのだろう。隼平はそれを察し、ぽんぽんと仁威の肩を優しく叩いた。
「大丈夫、大丈夫」
その言葉には何の保証もない。それでも隼平の気持ちは確かに仁威の心に伝わった。だが、
「……でもそっか。君と珪己ちゃんがどういう関係なのか具体的に知りたくて隙を見せたんだけど、珪己ちゃんって武官なんだ。いや驚いた、女武官かあ。俺、これでも武官の管理を任されているんだけど。やんなっちゃうよね。あとで侑生を問い詰める必要があるなあ」
あごをなでながら愉快そうに語る隼平に、やはり上級官吏に油断は禁物だと、仁威はあらためて思ったのであった。




