4.勝ったからって
鬼気迫る闘いに、珪己は文字どおりそこに鬼の姿を見ていた。
八年前の夏、楊家に押し入った鬼の姿がそこに見えた。
その鬼が今、仁威を食わんとばかりに襲っている――。
がちがちと歯が鳴った。
たまらずぎゅっと両手を握ると、手のひらにぬるりと滑る感触がした。違和感に手を開くと、その元凶は血だった。イムルの肩を刺して流れ出た血だ。
血はやはり赤い。鮮やかさは失われつつあるものの、いまだ赤い。
人間の血だ。
鬼の血ではない。
イムルは鬼ではない。獣でもない。
やはり人間なのだ――。
そのイムルが仁威と闘っている。おそらくこれまで一度も言葉を交わしたこともない二人が、その目に闘志を燃やし、相手を殺さんばかりに攻撃を続けている。拳が、蹴りが宙を舞っている。
仁威には一切の迷いもない。表情にも動きにも惑いはない。当事者の珪己は迷いの中にいるというのに、仁威はこの闘いに勝つことしか考えていないようであった。その姿はまさしく武官そのものだった。武をもって国に尽くす官吏として、仁威はここにいるように見える。
(その覚悟はどこから来るんですか……?)
こんな時だというのに、珪己はこの上司に問いたくてたまらなくなった。
(なぜあなたは闘うことができるのですか……?)
(なぜ人を傷つけることにためらわないのですか……?)
と、嗅ぎなれた白檀の香りに珪己はふっと我に返った。
目の前に立つ侑生の背からにおい立つその香りに、見上げると、侑生は険しい表情で仁威とイムルの死闘を見つめていた。侑生の体からも闘う二人同様に熱気を感じた。いつ何時でも参戦する気概をもってこの死闘を注視しているのだ。
その隣で真っ青な顔ながらも闘う二人に見入っている温忠も、同様に真剣な面持ちでこの場に立ち会っている。
三人の表情に、様子に、珪己は胸が熱くなるのを抑えられなかった。
(私、やっぱり間違っていた……!)
どうして自分は駄目な人間だなんて思っていたんだろう。
どうして誰もが自分を軽んじているなどと思い込んでしまっていたんだろう。
こうして仁威が、侑生が、温忠が、その身を懸けてやって来たのは――。
もしそこに官吏としての義務だとか、楊玄徳の娘のためだとか、そういった理由があったとしても。それでも三人がここに来てくれたその事実は、真実だった。
珪己はきっと前を見据えた。
逃げたくない、そう思った。
三人のためにも逃げたくない、闘いたい、そう思った。
自分のためにこうしてやってきてくれた三人のためにも、自分のできることをしたいと――そう強く思った。
*
イムルは肩を刺され、足をやられ、普通に考えれば明らかに不利であるはずなのに、一向に負ける気配がない。対する仁威にも決定打となる業を繰り出す好機がない。
それはなぜか。
仁威はいまだこの湖国から出たことがなく、湖国内にある流派の武芸にしか精通していなかった。隊長職を拝する前、北域の要塞で数年を過ごした経験はあるが、そこでは他国から流れてきた盗賊等、いわゆる正統な武術ではなく亜流の攻撃を受けることしかなかった。
だがイムルは違う。幼き頃、数年とはいえ湖国に滞在し、連日の鍛錬を自分に課していた。稽古相手はもちろん湖国の武芸者、しかも成人ばかりである。仁威もイムルも実戦での経験は豊富だが、その数年の差がイムルの肉体的な不利を補てんしていた。
だからイムルは仁威の動きを大方見切ることができている。
対する仁威は、その経験と勘でもってイムルの業をかわしているに過ぎない。
このまま二人のどちらの気力、体力が先に尽きるのか?
だが、それを待つよりも早く、このままではいつ芯国人の従者がこの部屋にやってくるとも限らない。だから湖国側としてはこの闘いを素早く終結させる必要がある。しかも相手は王子だ。これらの条件は仁威にとって精神的に不利に働いていた。
侑生はこの稀有な武芸者二人の闘いを注視しながら、その頭では知能派の文官らしく、今後とるべき道を探っていた。
(仁威を残して珪己殿だけでも先に連れ出すべきか……?)
だが浩托の話を思い出せばその道は容易に選択できない。
この屋敷内にはこの王子以上の強者が最低でも二人いるはずなのだ。一方、仁威はこの王子一人と闘うだけで精いっぱいのようで、敵が多勢になればその結末は火を見るより明らかである。
今、侑生がこの場に残れば、仁威が生きる道を残してやれる――。
(……張温忠に珪己殿を託し、二人だけでも先にこの場から立ち去らせるべきか)
そう侑生が結論づけたのとほぼ同時に、背後で珪己が動いた。
侑生の背から出て、一歩前に出る。
侑生が阻止しようとしたところ――その少女の強い意志の宿る瞳に言葉を失った。
*
珪己は侑生に匿われているわけにはいかなかった。
なぜならこれは自分自身が招いた闘いだからだ。
なぜ武芸者になろうと思ったのか。
それは人を護る力が欲しかったからだ。
傷つく人を助けたかったからだ。
自分の信じたことを貫き通す力が欲しかったからだ。
自分が自分のままでいるために、強い心が欲しかったのだ。
どんなときでもくじけない心が欲しかったのだ。
ただ武芸を究めたかったわけではなくて、強い自分になりたかったのだ――。
「勝ったからってっ……!」
珪己が腹の底から声を張り上げた。
突如響き渡った切なる声音に、隙一つなく闘う二人の動きがぴたりと止まった。そして二人が、侑生が、温忠が、珪己を見やった。
珪己は瞳をうるませ、しかし堂々と胸を張っていた。両脚でしっかりと地を踏んでいた。それはただの傷つけられた少女の姿ではなかった。一人の武芸者としての姿だった。
珪己が大きく息を吸い込み、そして次の言葉を発した。
「勝ったからってあなたは幸せにはなれないっ……! なんで分からないのっ? 奪うことで得た物にはあなたを幸せにする力なんてない! 誰かがそばにいれば幸せになるなんて、そんなの間違っている! もう私たちは自分で自分を幸せにすることができるのよ? 誰かがいなければ幸せになれないなんて、そんな不完全な存在じゃないのよ?!」
少女の圧倒的な気に押され、誰もの動きが止まった。
その束縛から真っ先に目を覚ました男がいた。
袁仁威だ。
彼にとって今もっとも重要なことは、珪己の語った内容ではなく、この場を収束させることだった。仁威は武官である己を十分意識している。だから、人としての何らかを懸けてこの場にいる残る三人とは心の持ちようが真逆なのである。
好機を逃さんとばかりに、無防備に背を向けている立会者の首に仁威の腕がさっと回る。そのまま両の腕が喉を締め付けていく。
「……っ!」
気道を押さえられたイムルが声にならない声を発した。それと同時に仁威の腕に爪が立てられた。鍛え上げられた腕に幾本ものひっかき傷が生じ、じわりと血が湧き出てくる。本気で抵抗しているがゆえに、このままでは肉がこそげとられてもおかしくない。だが仁威は構うことなく力を籠めていく。一気に落としにかかっている。
完璧な締め付けに、とうとうイムルはその意識を手放した。口が半開きになり、目はうつろな色に変化していき、体から力が抜け――やがて眠るように閉じられた。ぴくりとも動かなくなった。
仁威は注意深く腕の中の青年の様子を探り、問題ないことをよく確認してから両腕を解いていった。それを珪己は肩をはずませながらただ見ているしかなかった。無意識に近い状態で叫んだ内容、それは嘘偽りなく珪己の本心だった。それゆえ、本人にも予告なく心が爆発したことで、取り残された体の方が追従しきれないでいた。温忠も、そして侑生までもが、この突然かつ予想外の結末に呆然としていた。
しかし仁威の動きには迷いがない。今は心を動かすべき時ではないことを十分に理解している。だから休むことなく、完全に脱力したイムルの両腕をとると後ろ手にまとめ、懐から取り出した手巾で手首をくくった。さらにイムルの口と両足首を別の手巾――侑生と温忠から取り上げたもの――で塞ぐ。そして最後にイムルの上半身を寝台にあった大判の薄布でぐるぐるに巻き、その端を柱に括り付けて容易に抜け出せないようにまでした。
普段からこうしたことばかりしているのだと、その動きの俊敏さと確かさから分かる。
仁威は全ての作業を終了すると、三人の方を見て、次に侑生にその視線を投げた。
「よし、撤収だ。俺は張温忠を連れていくから、お前は楊珪己を頼む」
保護すべき者をわざわざ指名したのは、当然、侑生の意志を尊重したからのこと。珪己を率先して助けたいとここに押し入る前に告げられたことに、仁威は忠実に従ったまでだ。
侑生もそれを当然のことととらえた。
だから三人の中から先んじて、正面から珪己に向かい合った。
それは修羅場が収まり、ようやくのことだった。
そこにいるのは確かに楊珪己であり、侑生が愛する少女だった。もう二度と会うことはないだろうと、一時でも覚悟してしていた少女がすぐ目の前にいた。嬉しかった。途端に涙が出そうになり、ぐっとこらえると喉の奥の方が小さく震えた。
愛する少女が生きてここにいる――ただそれだけでこれほどまでに感激してしまう自分がいる。この激しいまでの歓喜は、やはり愛ゆえのものだった。愛があるからこその喜びだった。それを侑生はあらためて確信し、己が授かったこの愛に深く感謝した。
(あなただけだ……。こんなどうしようもない私に喜びを与えてくれるのはあなただけだ……)
珪己もまた侑生を見上げ、まっすぐに見つめてきた。まだ闘気が抜けきらない様子だが、その瞳には澄んだ色を浮かべている。そこにはあの夜、宮城で侑生を捨て置いて去ったときのような侮蔑の色はなく、ただ安堵と感謝の表情があるだけだった。
それでも侑生はわずかにためらった。この手を伸ばしていいものかどうか、今になっても瞬時に悩んでしまった。それはもう、この八年で染みついた性分でもある。
だが次の瞬間には、侑生は一歩進み、距離を縮め、そして珪己を抱きしめていた。
「珪己殿……よかった、無事で本当によかった……」
珪己は抱きしめられ――まるで自分の周囲に、この目の前の青年しかいないような錯覚が起こった。衣に焚き染められた白檀の香りが幻想のごとく懐かしく感じられる。いたわるように優しく、だが衣ごしに感じるその鼓動の速さや熱が、侑生が心から案じてくれていたことを伝えてきた。
すると涙が湧いてきた。うれしいからなのか、ほっとしたからなのか。なんだかよく分からないけれど、それでも涙は溢れて止まらなかった。このまま泣きたい、そう珪己は思った。だがそれはイムルと二人散々泣いた理由と違うことだけは分かっていた。
「……私、大丈夫です」
「本当ですか? 本当に大丈夫ですか?」
「本当です……本当に大丈夫です……」
珪己はそれだけをなんとか伝えると、温かい胸の中でゆっくりとその意識を手放していった。




