3.運命をかけた闘い
ややゆったりした衣の奥に潜む細身ながらも筋肉質なイムルの体に、珪己は完全に拘束されてしまっている。腰を抱き、もう一方の手で手首ごと引き寄せ唇を寄せてくるその青年――道場での所業が今また再現されようとしていた。
だが珪己はこれ以上は我慢がならなかった。
良いか悪いかではなく、本能がイムルを拒絶していた。
そこからは考えるよりも体が動いていた。
手首を掴まれている方、指先から掬うように曲げて、相手の手のひらと自分の手の甲との間に隙間を作る。次に手首をひねり、そのまま指が向かう方向に、自分の身の方へ一気に手を引く。するとあれほどの怪力を示していたイムルの手の中から、珪己の細い手がするりと抜け出た。
これは袁仁威との稽古をとおして会得した業の一つである。
ここで珪己が強い拳を持っていれば、返す手でイムルを殴りつけることもできるのだが、珪己は自分にできるもっとも確実な次の手を選んだ。解放されたばかりの手で髪を飾る簪の一本を抜くや、一気に青年の肩に振り下ろしたのである。
ずしゅっ――。
なんとも言えない感触が珪己の手に響いた。
いまだ握る簪の下、攻撃した肩に、じんわりと濃い色がにじみ出てきた。衣の藍色と相混ざっているが、それは明らかに人の体に流れる血だった。
はっとして顔を上げた珪己は、正面に、こちらを見つめるイムルの顔を認めた。
イムルは口元で小さく笑っており、その細めた目には満足感すら見えた。不思議なことになんら痛みを感じていないようだ。
またイムルの肩を見ると、溢れ出る血は着々と衣を染めていた。
「……っ!」
直接触れてしまったのだろう、刺した簪を握り続ける自分の手の端も血に濡れて赤く染まっている。肌に触れた血はまさに鮮血と呼ぶにふさわしく、目にも鮮やかに発色していた。
その赤の鮮烈さが珪己の闘気を瞬時に萎えさせた。そして重大な事実を珪己に突きつけてきた。
(人を……人を刺してしまった……!)
こうして実際に人に危害を加えたのは初めてのことだった。肉体に鋭い簪を刺せば血が出るのは当然のこと。武芸者が真実の戦いに赴けば一方の血が流れるのは当然のこと。幾度も考えては立ち止まり、立ち止まってはまた歩みを再開させてきたこの問いに、珪己は今またぶつかってしまったのである。
(……この人のことを傷つけて本当によかったの?)
ついさっきまで彼の手を握っていても何ら嫌悪感もわかなかったというのに、わずかの合間に傷つけてしまっている。誰に頼まれたわけでもなく、ただ自分の身を護るためだけに、嫌いでもなく憎んでもいない相手を傷つけてしまうとは……。
簪から手を離すことも、イムルから目をそらすこともできず、ぐるぐると、思考ばかりが巡り始めた。
(私の体なんていくら傷ついてもよかったんじゃないの?)
(心だってそう……心だって、いくらでも差し出すべきだったんじゃないの?)
(本当に攻撃してよかったの……?)
(なんで私は嫌だって思ったの?)
びくり。
珪己の体が大きく震えた。
簪を握る珪己の手に、イムルの手が添えられたせいだ。
「その様子だと初めてのようだな」
何が、と言わなくても察することができてしまう。だが今の珪己にはそれを恥ずかしいことだとは思えなかった。
袁仁威も言っていたではないか。本物の殺し合いを経験しない武官はいない、と。誰でも最初は知らなくて、何度も経験することで心を定めていくものだ、と。そして珪己は武官になる資格を得ていた。そのための紅玉も賜っている。ならば、これは避けては通れぬ道なのだ。
だが、これが最初の一歩だというのであれば――。
こんな思いを何度もしなくてはいけないというのであれば――。
とうとう珪己はその最果ての問いにたどり着いてしまった。
(私は本当に武芸者になりたいの――?)
(私には人を傷つけることができるの――?)
*
このまま息も止まるのではないかと思うほど、珪己の全身が――体のみならず心までもが硬直してしまった――その時。
イムルがその身に緊張を走らせたことが、至近距離で向かいあう珪己にも察せられた。
はっとして顔を上げたところで、イムルがぱっと珪己から離れ、わずかに後方に下がった。
下がったと同時に、イムルの顔面すれすれをきらりと光る何かが走り抜けていった。続いて、珪己の視界の向こう、鋭い音を鳴らして壁に懐剣が突き刺さった。
二人が懐剣の放たれてきた方を振り向くと、そこには三人の青年がいた。
正面に袁仁威、その後ろに李侑生、やや隠れるように張温忠までもがいる。
三人の顔を認めた瞬間、珪己の心が沸き立った。
硬直していた心が、喜びではじけた。
仁威が前方に出していた右手をさらに伸ばして叫んだ。
「楊珪己、こっちへ来るんだっ……!」
「はい……!」
駆け寄ろうとしたがそれは叶わなかった。イムルがとっさに腕を伸ばし珪己を背後から抱きしめたのだ。
「やめてっ! やめてください!」
身じろぎすると、イムルはさらに珪己の体を引き寄せ、その頭に小さく口づけを落とした。それは当の少女には分からない動作で、対する三人に見せつけるものでしかなかった。そしてやや上目使いに三人を見つめてきたその仕草にも、三人を挑発する意図が明らかに感じられた。イムルの流れる視線はこの乱入者の姿を一人ずつ確認していき、最後に奥の方にいる温忠にたどり着くと動きを止めた。
「張温忠。まさかお前が俺を裏切るとはな」
その旧知の一言に、温忠がどれほど傷ついたか。
だが人の心は他人には理解しきることなどできはしない。
温忠は腹にぐっと力をこめ、涙が出そうになるのを必死にこらえて訴えた。
「イムル様、お願いです。珪己を解放してあげてください!」
「解放? 何を言っているんだ。俺とこいつは共にいなくてはいけないんだ。それはお前がよく知っているだろう」
それが運命というものであり、この世の理ではないか。
そうイムルが語っていることは百も承知で、だが温忠はそれを全力で否定した。
「それがっ……! それが間違っているというんです! 僕たちの運命というのは確かにあります。運命の半身はこの世のどこかに必ずいます。けれどその人は自分自身ではないんです。自分ではない他人を思い通りにすることなんてできないんです!」
「……お前はセツカを裏切るのか?」
「だからっ……だから違います! 僕はセツカ様のこともイムル様のことも裏切ったりしていません! 人は……人は間違えることもあるんです。幸せになれないことだってあるんです。だってこの世界では人は小さくて儚い存在だから……!」
「そういう世界だからこそ俺たちは片割れを探さなくてはいけないんだろう……っ!」
温忠の言葉を遮り、イムルが怒声を放った。
「楽になれる保証のない世界に誰が好んで住みたいと思う? 俺が神ならそんな救いの一つもない世界なんぞ作らない! 救いがなければこの世には誰一人として住まわないだろう! 違うか?!」
イムルはそう言うや、もう一方の手でも珪己を抱きしめた。その目は爛々と輝いている。だがそれは生きるものの喜びのためではなく、生きるための理由を求めて渇望しているがゆえのものだった。その瞳はいまや美しさからはほど遠く、見る者に恐れを感じさせるだけの哀しい物体と化している。
と、そのイムルが不敵にほほ笑んだ。
「それに俺にはもう分かっている」
「な……何をですか」
「こいつを気に入ったってことだ」
にいっと笑い、その口から舌を出し――イムルは珪己の首筋を大きく舐め上げた。
その欲情的な動きに、湖国側の三人に動揺が広がった。
完全に捕獲されてしまっている珪己は、その青年に与えられた感触に震えることしかできなかった。ぞわっと鳥肌が立つ。気持ちが悪い。イムルが少女の肌の変化に気づいて薄く笑った。
「はは。まだ慣れないのか」
そう言うや、舐めたばかりの首筋に唇を寄せ、吐息のかかる距離でささやいた。
「……あれほどしたというのになあ」
見せつけるように開かれたその首元――遠目からでもうっ血した痕がいくつか見える。
それを目にした瞬間、二人の青年が動いた。
ここまでひたすら冷静であろうと耐えてきた我慢の決壊が、二人同時に起こり、そしてその行動をとらせたのだ。
イムルはこちらに突進してくる二人の青年の、その武芸者たる動きと、また逆に武芸者らしさの欠けた表情の不均衡さに、一瞬居を突かれてしまった。しかも二人がかりだ。その一息の間に、二人はイムルと珪己のすぐそばにまで近寄っている。
仁威が駆ける勢いそのままに、重心を一気に落としてイムルの脛を蹴り上げた。
何の防御もされていないその部分から、ばきっという乾いた重い音が鳴った。
骨が折られた。
「ぐっ……!」
体重を支える下半身のつり合いが崩れる。イムルがその体を落としかけ、珪己を抱きしめる手からも力が抜けかけたところで――。
侑生が珪己の手をぐっと引いた。
珪己の体はイムルから逃れ、そのまま下がる侑生の背に隠された。
その背の後ろから珪己は見た。イムルがこちらにやって来ようとし、そこに仁威がさらなる業を繰り出そうとする様が――。
肩を掴み、振り向かせざま殴りつける仁威。
だがそれはすんでのところでかわされた。
躱す動きを殺すことなく、イムルの方も腰の方で作っていた拳を素早く突き上げてくる。
それを仁威は身をそらすことで避けた。
避けながら、体を回転させ、鞭のようにしなった足をイムルの顔めがけて叩きつける。
それをイムルは腰を落としてかわしてみせる。
二人の青年は次から次へと業を繰り出し、その速度は徐々に増していった。二人は止まることなく、ただ相手を打ち負かすために一心不乱に動いている。
元将軍であり猛将であった鄭古亥をあれほど残虐にいたぶった男だから、仁威はそれ相応の覚悟をもってこの闘いに臨んでいる。たとえ芯国の王子だからといって手加減をするつもりは一切ない。いや、できない。そのような情けをかければこちらが負ける。だがこの闘いに負けることは絶対にゆるされない。だから、懐剣を放った瞬間から、仁威は全身全霊でこの闘いに挑んでいる。
イムルもまた、最初からこの男に対しては本気でぶつかっている。
武芸の業に絶対の自信を持っているからこそ、普段、負ける見込みのない闘いでは愉快な気持ちを押し殺せず、つい笑いながら攻撃してしまう癖がイムルにはあった。だってそうではないか――これから目の前の相手をぶちのめすことができると思うだけで楽しくなってしまうのは人として当然だろう。
だが今は違う。その目にも表情にも、愉悦の色は一切見えない。
イムルはこの室に三人が接近していた気配をまったく察していなかった。そして懐剣を放たれ――その軌道が目と鼻の先を通り過ぎる様を見たその瞬間から、この攻撃者に対しては本気で向かいあわなくては危険であることを痛感していた。
実際、こうして手合せをすれば相手の強さがよく分かる。
仁威はイムルの足全体を完全に砕くつもりでその脛を蹴った。だがイムルがわずかにその身をずらしたため、骨を一本折るにとどまってしまった。動ける余地を残してしまった。
イムルの方も、仁威の足が思った以上に素早く、また予想以上の破壊力があったことが誤算だった。避けきったつもりが片足をやられてしまった。
しかも、楊珪己を奪われる隙を与えてしまった。
イムルには何としてでも珪己を奪い返す理由がある。
なぜなら、彼女こそが探し求めていた己の半身だからだ。
ここで彼女を失うということは、その人生において幸福になる権利を放棄することに他ならない。だから骨が一本折れたぐらいでは闘いをやめることなどできないのである。




