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2.愛の形

 珪己とイムル、二人の涙はほぼ止まりかけていた。そして珪己の手は机の上でイムルのそれに重ねられたままでいる。


 そのイムルの手がすっと抜かれた。そして迷うことなく今まで重ねられていた珪己の手の甲に乗せた。


「どうし……」


 どうしたんですか、と何の気もなくたずねようとした珪己は、対するイムルの表情を認めて、それ以上のことを口に出せなくなった。


 イムルはひどく真剣に珪己を見つめていた。


 その青い瞳がこれまで以上に強く輝いている。

 瞳の奥に確かな意思の炎が揺れ動いている。


 それは道場で見た炎と同じだった。ついさっき寝台の上で、覆いかぶさられた時に見た炎とも同じだった。


 いや――それ以上に激しく燃えている。


 ぎらぎらと、己自身がその熱で燃え尽きてしまいそうなくらいに、猛然とした炎が瞳の中で踊り狂っている。


 その瞳が語りたいことを察知し、珪己は思わず息を飲んだ。


 ぎゅっと、イムルが珪己の手を握りしめた。

 そして正直な想いをため息とともに口から漏らした。


「俺はやはりお前が欲しい……」


 反射的に珪己はその手を引き抜こうとした。

 だが即座により強い力で掴まれ、逃げることは叶わなかった。


 イムルがさらに深く見つめてきた。


「い……嫌です」


 なんとかそう答えたが、イムルは瞬き一つせずに珪己を見つめ、こう言った。


「嫌だという女もな、最後には必ず『いい』と言う」

「本当に……本当に嫌なんです!」

「お前は知らないんだ。快楽というものを知ればお前も嫌だなどと言うことはなくなるさ。俺がすべて教えてやる」

「だから、嫌だってっ……!」


 先ほどまであんなに楽しく会話していたというのに。

 こういうことをしたら駄目だと諭したら、分かった顔でうなずいていたというのに。

 二人して前向きに生きようと決意の涙を流したというのに。


 最後に、確かに心が通じ合ったと思ったのに――。


(なんでまたそうなるの……?)

(なんで伝わらないの?)

(この人は……同じ人間じゃないの? やっぱり獣なの?)


 それでも、この王子に親しみを感じてしまった自分、共感してしまった自分も確かにいる。そういう自分が邪魔をして、珪己は掴まれた手を強く振りほどけずにいる。


 イムルが立ち上がり、その手をぐっと引いた。珪己はよろめきながら引き上げられ、イムルの細身ながらもたくましい胸に収められた。


 腰を抱き、イムルは珪己の耳元で深く香りを吸った。芳香を胸いっぱいに吸い込むことで、イムルは与えられた幸福にあらためて感謝の念を覚えたのだった。


「ああ、やはりお前は俺の運命だ……」


 その熱い吐息にあおられて、珪己の体がぶるりと震えた。



 *



 温忠の的確な指示に加えて、前方の仁威、後方の侑生による警戒のもと、三人は着実に目的の場所へと近づいていった。


 温忠の予想どおり、このような雨の降る時分、屋敷外には人影はまったく見当たらない。周囲は屋根や地面を叩きつける雨音でうるさいくらいで、三人がわずかばかりに発する物音など途端に吸収され消滅してしまう。屋敷のどの窓も完璧に閉じられている。潜入には最適の状況と言えた。


「もう少しか?」


 小声でたずねた仁威に温忠もまた小さく返した。


「はい。そこの突き当りを左に曲がってすぐのところに、運河に飛び出すように設計された離れの一角があるはずです。そこが王子の部屋です」

「それは俺たちには都合がいい」


 隔離された部屋であれば敵も少ないだろうから、王子一人を相手にするだけならば勝算は十分にある。


「袁殿、油断しないでください。僕が出会った頃の王子はまだ七、八歳でしたけど、それでもその界隈では大人含めて一番強い子供だったんです」

「それは王子だからと手抜きされていただけではないのか?」

「いいえ違います。王子は見かけはちょっと優男風にも見えますけど、武に疎い僕でも王子が武芸者であることくらいは分かりますから」

「……なるほど。初見ではよく力量を観察する必要がありそうだな」

「ぜひそのようにしてください」


 二人の会話に、侑生がすっとその指先で侵入してきた。


「あれがその部屋かい?」

「は、はい! そうです!」


 運河に浮かぶ小島のように、煙る景色に溶けるようにその建屋がかすんで見える。確かにその一角だけが隔離されたように設計されていた。


「……さあ、ここからはより慎重にいこう」


 隣でふうっと重い息を吐きつつそう告げた侑生に、温忠は同じ男として尊敬の念を感じた。


(あの部屋に愛する人が監禁されているというのに、冷静さを保っていられるなんて本当にすごい人だ……)


 自分であれば間違いなく『より血気盛んに』『より本能的に』動くだろう。


 たとえば、そう――セツカが自死すると知っていたら、温忠はどうにかして後宮に侵入しセツカに接触し、その意志を覆さんと尽力したことだろう。もしもセツカが取り合わなければ、自分はみっともないほどに暴れただろうし、冷静さなどかけらもなくしただろう。


 だがこの青年は違う。仁威と温忠の前に現れた当初は、突然愛を語り出すし、眉目秀麗な容姿だし、ただの熱血漢か夢見がちな人物だという印象しかなかった。だから正直、こういう人物が加わることが迷惑だとも思っていた。これは遊びではなく、文字通りの命がけの決行なのだから。


 だが武官の仁威に負けず劣らず、この青年の動きは俊敏で隙がなかった。一度動き出せば、表情からは愛による熱情や儚さは見えなくなっている。


(……同じ愛でもこうも人によって違うものなんだな)


 愛という尊いものにも、定義の仕方一つ、それを扱う人物次第でその見方が変わるものだということを、温忠は初めて実感していた。


 そのままもう一人の青年――仁威の方を見ると、こちらはその鋭い双眸を一層険しくさせていた。じっと目的の場所を見つめるその目は、目的の場所を見ているようで違う何かを探っているかのようだ。こういう目をする仁威のことを今日は幾度も目にしている。容易に声をかけることなどできないような、緊迫した空気を身にまとっている。


 くっと、仁威の肩が上がった。


 温忠が何かを言う前に、その背後から音もなく侑生の手が伸びてきた。その手によって仁威の動きが制された。そこまで確認して、ようやく温忠にも理解できた。仁威はあの一角の方から何かを察知し、駆け出す一歩手前を阻止されたのである。


「何を感じた?」


 そう問う侑生に説明する時間もないとでも言うかのように――。


 仁威はぱっとその手を払うと、猪突猛進、降りしきる雨の中を全速力で駆けていった。

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