1.潜入
太陽は見えずとも、空を覆う雲の色がより濃い暗色に変化していくことで今が夕方であろうことは想像がつく。周囲もやや暗くなってきている。いまだ衰えない豪雨の下、大使館の姿を鮮明に見ることはかなわなくなってきている。
張温忠はじれた思いで目の前の逞しい背中を見つめ続けている。だが一向にその背の持ち主は動かない。早くしなくては珪己を救出すること自体が難しくなるというのに……。
と、とうとう声をかける勇気を出そうとしたその時――その背がぴくりと動いた。
と思ったら、すくっと立ちあがり、その背が一気に頭上へと動いた。
「よし。行くぞ」
袁仁威の宣言に、温忠も勢いづいて立ち上がった。
「はい……!」
もう一人の青年、李侑生が黙ってうなずいた。
仁威は明るすぎず暗すぎない、絶妙の機会を待っていたのである。
仁威を先頭に、三人は雨にまぎれて、壁沿いに大使館の入り口を目指し進んでいく。
ここからはもう後戻りはできない――。
三人は引き返すことのできない死線へと足を踏み入れたのであった。
*
入口、門扉の前には誰もいないことは先ほどから分かっている。
このような痛いほどの激しい雨の降る中、安全な街として国内外にその名を知られる開陽であるからこそ、警備の者を配置していないのだろう。
また、芯国人がここに本格的に腰を据えて駐在するまでには至っていないことも三人にとっては幸運だった。今はイムルが副官という名目を利用して少人数で滞在しているだけであり、この新しい御殿のごとき屋敷は護りという観点からは心もとないほど手薄になっている。
閉じられた門扉にたどり着くと、侑生が周囲を伺う中、仁威が扉の向こうの気配を探った。こうした悪天候の中でも――いや、だからこそ、仁威の武官としての才は最大限に発揮されるのだ。侑生という武の心得のある同志を得たこともあり、仁威の負担はだいぶ減じられている。
やがて仁威がうなずき、その人差し指をくいっと動かした。
ついて来い、という合図だ。
緊張する温忠の肩に侑生が優しい所作で触れた。
「大丈夫。袁はこれでも第一隊隊長なんだ」
「これでもとは何だ」
不服気に眉をしかめた仁威に「しいっ」と侑生が人差し指を口元にあてる。それによりさらに仁威の眉間のしわが深くなった。だがそれ以上は何も言わず、仁威は目の前にそびえる第一関門と言うべき扉をゆっくりと開けていった。
*
門扉は意外と簡単に開いた。まだ新しい屋敷だからか、金具が鳴ることもなく、ほとんど無音で人が一人通れるくらいの隙間が生まれた。そこにするりと仁威が滑り込む。武官らしい巨体があっという間に向こう側へと飲み込まれた。続けて、同じように侑生も入っていき、最後に大きく息を吸い込んだ温忠も覚悟を決めて飛び込んだ。
まずは第一関門を突破し、温忠がその耐えがたい緊張を解きかけたその時、今も険しい表情でいる仁威がそれを制した。
「まだ油断するな。お前は武に通じていないだろうが、少なくともそばにいる俺やこいつの動きに遅れず着いてこられるくらいには気を張っておけ」
「は、はい」
「で、どちらに行けばいいんだ」
じっと見つめられ、温忠ははっとした。
ここに来るまでによく精査しておくべきであったことを指摘されているのだ。
気づくと、温忠は自分が恥ずかしくなった。すると、イムルの非道な所業に感化され、すっかり臆してしまっていた自分にあらためて気がついた。ずっと目の前のこの武官に頼りきってしまっていたことにも。だがこの大使館内のことを一番に知っているのは自分自身なのだ。
今この瞬間まで仁威がこの問いをしなかったということに、温忠は自分が信用されていることにも気がついた。あれほど無様なほどに怯えていたというのに……。
(そうだ……僕がしっかりしなくちゃいけないんだ)
期待に応えたい。
温忠は目をつぶるや、脳内で昼方の記憶を急速に再現していった。扉をとおり、本殿に入り、大きな廊下をまっすぐ奥まで進み、突き当りを右に曲がり、さらに突き当りを左に曲がり……。
道はすぐに正確な地図として頭に描けた。
だがそれだけでは駄目だ。
真向から屋敷に入れば誰かに見とがめらるのは、必然。
温忠はイムルが従える忠臣二人のことを知っている。今日の昼前、ここに招へいされ、イムルの自室で楊珪己の自宅を教えるよう温忠は脅迫された。その場に彼ら二人もいたのだ。仁威以上に筋骨隆々とした二人が控えているというだけで、イムルの無言の圧力を何倍にも乗じる効果があった。イムルには旧知の温忠を傷つけるつもりはなかったのかもしれないが、温忠は三人の芯国人に圧され、一切の抵抗ができなかった……。
彼らの一人にでも見つかってしまえば相当やっかいなことになる。仁威が彼らに勝てるのかどうか、武に疎い温忠には判断できない。だが闘うとなれば、発せられる音や声によって他の芯国人をも呼びよせてしまうだろう。それくらいは想像がつく。そうなったら終いだ。
温忠は宮城の二階、礼部の窓から見た開陽の街の景色を思い浮かべていった。
一面に連なる店の数々、景観を揃えるために似たような造りで建てられた官吏の屋敷、光る大小の池、それらの間を繋ぐいくつもの川や水路、そして開陽最大の運河・汴河。汴河の一部にはぐるりと船渠が設けられており、そのすぐ近くに各国の大使館がぽつぽつと建てられている。
芯国の大使館付近の地理を正確に思い出していく。
イムルの自室がある場所へ行くためには――。
温忠がその目を開けた。
分析が終了したとその目が語っている。
侑生の視線にうながされ、温忠は自らの提案を語った。
「このまま屋敷の中へは入らず、壁沿いに右へと進んでください。そこに見える木のあたりまでまずは行きましょう」
確かな表情を見せる温忠に、仁威と侑生がうなずいてみせた。




