5.愛に殉じる覚悟
袁仁威は時を見計らっていた。
いつ大使館に押し入ればいいか、その好機を得るためには慎重になり過ぎることはない。
こうしている間にも、珪己の身には危機が迫っているかもしれない。だが焦りは禁物だ。命と自由、この二つを同時に取り戻すという使命の前では何もかもを後回しにするべきで、純潔の死守など武官にとっては考慮すべき事項にも挙げられない。
だから仁威は、軒を打つ雨音を聞きながら、煙るような景色の向こうにある要塞のごとき屋敷を注視し続けている。通行人は皆無だ。天は今も獣が唸るように鳴り続けている。暑くもないのに、仁威の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。その変化は濡れそぼった全身においてまったく目立たない。だが、それだけが仁威の消耗の激しさを推し量れる唯一のものであった。そこに立っているだけで汗が吹き出てくるほどに、稀有な集中力を要する作業にあるということだ。
その時。
このような悪天候だというのに、背後から誰かが近づく気配がした。
野生動物に比類するがごとく、仁威が俊敏に反応した。
一瞬にして全身に闘気をまとい振り向くと、しかしそこにいたのは旧知の人物だった。
だが、そこにいたのは、まさかここで会うとは予想だにしない人物だった。
李侑生だ。
息は荒く、急いでここにやってきたのだろう。だがそれほど濡れておらず、この近くまで馬車でやってきたのだろうと推測できる。
「……侑生。お前」
「すべて分かっている」
そう即座に答えられ、しかし仁威にはそれを受け入ることができなかった。
(なぜこいつがここにいる……?)
仁威がこの件に積極的に関わっていられるのは、ひとえに張温忠というきっかけによる。それなしでは、おそらく仁威は今も自宅でぼんやりと過ごしていたに違いない。
ひそめられた仁威の眉間がこの武官の疑問を如実にあらわしていて、侑生はひきしめていた唇を解いた。
「珪己殿に会いに楊家に行き、そこで緊縛されていた家人らを発見した。その後、道場に行き、浩托くんからも話を聞いた。あそこに珪己殿がいるんだろう?」
「お前、本当にすべてを理解しているのか? 楊珪己を捕えたのは」
「芯国の王子だそうだね」
「ならば俺が残した物の意味も分かっているだろう……!」
猛りだした仁威に反して、息の落ち着いてきた侑生は静かに答えた。
「仁威が自分一人の力で珪己殿を助けようとしていることは分かっている。国のためにも珪己殿のためにもそうするべきだと判断したのだろう?」
「そこまで分かっているならなおさらだ! これは俺一人でやる。ここにいる男の助けを借りれば俺一人で十分だ。お前までその身を懸ける必要がどこにある? それに枢密副使のお前が罪を犯せば、それは楊枢密使の咎にもなるんだぞ?」
それはここに来るまでに侑生も随分と考えたことだった。別件ではあるが、黒太子・趙龍崇にも同じように釘を刺されている。だが、そんなことは官吏となって早七年、侑生はとうに分かっていた。だから侑生は出世を続けてきたのだし、骨身を削って仕事にまい進してきたのだ。自分の成すこと全てが上司である玄徳の評価に繋がるというのであれば、それはつまり自身の成功によって玄徳に貢献できるということだから……。
これまで玄徳を貶めるような失敗も言動もしたことはない。玄徳と、玄徳が理想とする枢密院の形を思い描いていれば、道を誤る不安もなかった。山の頂きに見える大旗めがけて、ひたすらまっすぐに進んでいればそれでよかったのである。
だがこの初春、珪己と直接言葉を交わすようになり、侑生は胸の奥で密やかに育つ恋の存在に気づいてしまった。初めての恋は侑生の心を散々かき乱した。何度も諦めようとした。玄徳のためにも恋を捨てるべきだとまで思いつめた。が、当の玄徳から、この恋を捨てなくてもよいと言ってもらえた。認められたことで、恋は侑生の心に太い根を張ってしまった。体の隅々にまで行き届いた恋の根は、侑生にとって唯一の人間らしい感情をもとに育成された分、もはやただの恋だと軽んじることもできないほどに巨大化している。
何を採り、何を捨てる覚悟をするべきなのか?
採りたいものは数多くある。だが、そのどれもが優劣をつけることが難しいものばかりだった。
だから目的ではなく行動から分析した。結局、侑生が即決すべきことは、芯国人の一件を玄徳に伝えるべきかどうか、それだけだった。それならば解きやすい。玄徳には伝えない、それしかあり得ない。伝えることで得られるものはわずかで、優先すべき事項はなかったのである。では伝えないことで何を失うか。その点をあらためて考えて、すると解決策は侑生の望みとぴたりと一致した。そして手段と目的は逆でも良いことに気づいたのである。
そう、よく思案し、だからこそ侑生は今ここにいるのだ。
達観したようなさばさばとした表情を見せる侑生に、仁威がさらに猛った。
「お前は本当に考えたのか? あの日、酒楼でお前は言っただろう。『もしも八年前に戻れたらどうするか』と。その時のお前の答えは、こんなふうに無意味に自分の身を懸けることではなかったはずだ……!」
「……私はね、このところいろんな人に同じことばかりを言われているんだ」
気づけば、侑生は仁威の怒気とは真逆の雰囲気をまとっていた。
「自分のために生きろ、幸せになれ。そう言われても私にはそれを了承することなどできなかった。一度罪を背負った者がどうして過去を忘れて幸せになどなれるのか、と」
その吐露には仁威の怒りを鎮める効果が十分にあった。それはもちろん、仁威もまた侑生と同じ類の生き方を選びそれに忠実に従ってきたからだ。
侑生が静かにほほ笑んだ。
「……でも分かったんだ。珪己殿を取り返すには誰かが大使館に乗り込まなくてはいけないことは明白。であればその誰かは私がいい、とね」
「いや、違うだろう。お前は枢密副使なんだぞ? 上級官吏がやるべきことではない! それに俺の方が位も低く武芸の腕もある。そして楊珪己は俺の直属の部下だ。俺がやるべきことだ!」
きっぱりと言い切った仁威に、侑生がその目元を柔らかく細めた。
「いいや、私だ」
なぜ、と言おうとして、だが瞬時に答えが分かってしまった。
言葉にせずとも、その瞳が有言に語っているのだ。
(聞いたらまずい……!)
とっさにそう思った。
聞けば自分はこの大役をこの男に譲らなくてはならなくなる。
この男にこれだけの大役を譲らざるをえなくなる。
これから引き起こす罪の咎をこの男に背負わせなくてはいけなくなる――。
はっとして動きかけた仁威に気づいたのかどうか、侑生は制止される前にその答えを口にした。
「珪己殿のことを愛しているんだ……。愛している人をこの手で救う、これ以上の喜びがどこにある?」
「お前……」
目の前のこの男に訊きたいことはたくさんあった。
なぜ今頃になってそのようなことを言い出すのか。
それは本当に愛なのか。
何か勘違いをしているのではないのか。
それはいったいいつからなのか。
だがどの疑問も言葉には出せなかった。
目の前にいるこの旧知の男、何も構えることなく自然なままでそこにいる。瞳には澄んだ色が見える。今ここにいることが当然で、自分が抱くその想いもまた真実であると信じきっている。
楊珪己への想いがどれほどのものかを定量的に評価することは無意味だ。それがはっきりと分かる。侑生は真実の愛を見つけたと信じ、そのために行動したいと心を決めてしまっている。その覚悟を打ち砕くことなどどうしてできようか。贖罪のために、他人のために生き続けてきた哀れな男が、自分のためだけに、愛のために生きる道を選ぼうとしているのだ。
「……それがお前の考える幸せだということか」
「ああ」
よく理解してくれたとばかりに、場違いなほど華やかに侑生がほほ笑んだ。それもまた嘘偽りのない笑みだった。それは仁威の胸を苦しくさせた。晴れ晴れとした顔をする侑生には、もう自分のその愛を成就させようという人として当然の欲が見えなかったからだ。それはまるで、戦場において殉職を決意した、極限状態を超えて悟ってしまった武官のようだった。そういう仲間の表情を仁威は幾度も見ている。またその結末のほとんどが同じであったことも知っている……。
(お前はその幸せと引き換えに一体何を得るというんだ……?)
仁威は武官であるから、任務のために命を懸けることの意義を理解している。だが、それでも、侑生のことが哀れに思えてどうしようもなかった。
(お前のこれまでの命ともいえるその名声や職を失ってまで……そこまでしてお前は……)
ふっと、この男の姉のことが思い出された。姉弟そろって愛にその身を懸けるとはなんとも不器用な奴らだ。一切の見返りを求めずに愛を貫こうとするその姿勢。愛すること自体に己の生を見出している二人――。
「……そろいもそろって馬鹿ばっかりだな」
仁威のつぶやきは聞こえなかったようで、「え?」と侑生が聞き直すと、仁威がその顔をにやりとさせた。
「分かった。ただしやはり俺も行く」
「いやしかし、仁威まで来なくても」
「いいや俺も行く。俺の方が腕も立つし、お前ひとりで行くよりも楊珪己を救出できる確率は高くなるだろう。この張温忠のことを護る人間も必要だ」
食い下がる仁威に、突如侑生がその表情を険しくさせた。
「……まさか、お前も珪己殿を?」
それに対して仁威はさらに険しい顔になった。
「俺はお前の女には手を出さない。それは何度も言っているだろう? お前がお前の生き方を選ぶように、俺にも俺の生き方を選ぶ権利があるってことだ。俺は自分の部下を見殺しにするような真似はしない。俺は俺のできるかぎりのことをしたいんだ。楊珪己はお前が愛する女である以前に俺の部下なんだよ」
それに侑生が見るからにほっとした顔をした。
「では仁威のことを全面的に頼らせてもらうよ。部下のためによろしく頼む」
「ああ、もちろんだ」
仁威は力強くうなずいてみせた。




