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4.幸せになりましょう

「……俺はな、この目のとおり、母が西欧の生まれなんだ」


 イムルの独白は突然始まった。


「芯国は遠く西の方の国とも貿易が活発でな。その中に女が貢物として含まれていることはよくあるんだ。俺の母もそのような女の一人だった……」


 珪己の瞳に一欠けらの蔑みもないことを見て、イムルは内心ほっとして話を続けた。自分の生い立ちを語りたいと思ったのはこれが初めてのことだった。それは自国の者には絶対に言えない、イムルという男の根源であり枷となる密話だった。


「俺の母は運がよかった。特別だった。普通そういう女は俺の国では妓楼に売られて死ぬまでその身を汚い男どもに与えることになる。だが俺の母は美しさゆえに王に献上され、寵愛を得、城に部屋をもらうことができた。母はたった一人の男と体を重ねればよいだけの幸運な女になれたんだ」


 幸福の定義についてあらためて考えたくなるところだが、イムルはよどみなく話をすすめていった。


「そして俺が生まれた。だがこの瞳に西欧の色を持って生まれたがゆえに、れっきとした現国王の血筋を受け継ぎながらも、王子でありながらも、俺の地位は非常に低いものと定められた」

「王子……?」


 イムルはこの少女を試すかのように、だが視線を合わせることなく話を続けていった。


「そうだ。俺は芯国の第七王子だ。俺の国には王子は十人いる。だが俺はその中でもっとも虐げられた王子ってわけさ」


 ははっと、哀しげにイムルが笑った。


「この目のせいでどこに行っても何をしても、俺は『西欧人の混血風情で』と評価される。母は俺が六歳のときに死んだ。もう王の寵愛もなくなり、一人故郷を恋しがって精神を病んでしまってな。最期のころは意味不明のことばかりぶつぶつとつぶやいていた。だが気が触れる前に母がよく言っていたよ。『お前は王子として気高く生きなさい』と。

 母が死去した後、湖国に一時住んでいたことがある。唯一の味方である母を失い、王子としてどう生きるべきか、それとも死ぬべきではないか、それを国の外で考えたくてな。俺はそこでセツカに会い――」


 イムルが押し黙ったので、珪己は心配になった。だがそのひどく真剣な顔に、黙って様子を見守った。


 実はイムルの父、芯国の王のほうこそ、この王子のことを持て余し、『殺すわけにもいかないが生かしておいても』と、積極的にイムルを国外に追いやった張本人であった。とうに成人したイムルはそのことを熟知していた。湖国最南端の海南州を支配する貴族、王家おうけは、隣国の王の依頼という名の命令――第七王子を一時預かる――を拝受しないわけにはいかなかったことも含めて。断れば密貿易による巨額の富を失うはめになるからである。


 王家にやってきたばかりの頃、イムルはまだ亡き母の言葉に従って生きていた。王子として生きるために、見た目という不利を超越した才能、人格を備えようと必死だった。その必死さが国王含めた人々の目には危険な存在になり得ると思わせてしまっていたのだから皮肉である。


 だからイムルが王家に住むうちに、その家の娘のセツカに感化され、その刺々しい成長意欲を失い、代わりに人間的な自己的な欲そのままの言動をするようになり――それでイムルはようやく自国に戻ることを許されたのであった。


 ちなみにそのときイムルを迎えに来たのがアソヤクであり、それ以降イムルはアソヤクにはいくらか心を開いている。イムルはアソヤクにセツカの運命論を聞かせ、アソヤクはなんやかんや言いながらもイムルが自由に動けるように補佐してくれている。時折口うるさいことを言うこともあるが、自分を援助する唯一の臣下のことをイムルは重宝していた。


 イムルは何やら考えていたが、やがて急に話題転換してきた。


「お前のことが気に入った」


 その突然の告白めいた発言に、珪己はうれしいような何とも言えない気持ちになった。


 この青年、確かに異国の人間であるし、その言動は残虐非道なものばかりだ。だがしばらく話をしてみて気がついた。やっぱりこの人も同じ人間で、獣なんかじゃないのだ、と。ただ考え方が違うだけなのではないか、と。


 生まれた場所や環境が異なれば人というものはいくらでも変わり得る。それはつまり、一方では善とみなされる人も、もう一方では悪となりえるということだ。正反対の意味であるのに、目に耳にできる事実はまったく同じという不可思議さ……。


 たとえば、言葉を尽くしてこの王子を改心できたとする。だがそれは珪己の考える善の定義によるもので、それがこの世の究極の善であることを保証しているものではない。


 そしてこれまた自分でも信じられないことなのだが、あれほど酷いことをしたこの青年のことを、珪己は憎めなくなってきていた。


 それは王美人と対峙したときと同じ心境の変化だった。少しでも理解できる面があると気づくと、途端に相手に共感してしまい、それゆえに憎めなくなってしまうのだ。


 だがまったく自分と異なる人間などいるわけがない。であれば、珪己の性質では、どのような人物も憎めないということになる。


(憎みきれない相手と命を懸けて闘うことなどできるのかしら……?)


 それは武官になることを認められている剣女らしい疑問だった。


 だが一つの真実に気づくと、とたんにその顔を険しくした。


「王子、その発言は矛盾していますから!」

「矛盾?」

「自分は嫌いなのに私のことを気に入ったというところですよ。矛盾してるじゃないですか」


 何だそれは、とあらためて尋ねられ、珪己が自慢げに答えた。


「もしも私があなたなのだとしたら、あなたは私のことは嫌いなはずですよね?」

「……は?」

「私もあなたのこと嫌いじゃないです。ほら、お互い矛盾していますよね? だから私はあなたじゃないし、あなたは私ではありません」


 その答えに少し頭をめぐらせ、イムルが合点がいったという顔をした。


「……なるほど。お前の言うとおりだ」

「ですよね?」

「だがセツカは言った。人には運命の半身、片割れがいるのだと。そいつを見つければ俺は幸せになれるのだと。そして俺はお前に運命を感じた。……これはいったいどういうことだ?」


 まっすぐに問われ、だからこそ珪己はぐっと腹に力を込めた。


(……たぶんここで答えを間違えてはいけない)


 イムルのその問いは、あきらかにこれまでの行動の理由の源だった。イムルの真剣な表情がそう語っている。セツカとは誰か、またそこで語られた運命とは何か、突然のことで珪己には分からない。が、この青年がその話を信じて今日まで行動してきたことは、表情からして明白だった。


 逡巡し、珪己は己が知る最良の解を述べた。


「自分の幸せは自分自身で見つけるしかないのだと思います」

「だからこそお前は俺自身なのではないか?」


 慎重に答えた瞬間、イムルがさっと反応した。その素早さからして、やはりこの瞬間が山場なのだ。


「お前を得ることで幸せになれるのだと、俺は今も感じている。俺の直感がそう告げている」


 笑みの奥、すがるような色が見えた気がした。


 すると既視感をもってイムルによく似た幼子がそこに現れた。


 瞳の色は同じ透き通るような深い青、なのにゆらゆらと揺れている。

 涙がその目を覆っている。

 唇を痛いくらいに噛んでいる。

 泣くのを懸命にこらえている。

 一度泣いてしまえば、堪えていた悲しみもあふれ出てしまうことを知っているかのように――。


 それはこの青年の幼少時代でもあり、また、これまで絶え間なく続いてきた人生、そして今の姿だった。


 強気な言動、その性格を裏打ちするような武芸者としての技量、王子としての権威――だがこの青年は心の奥にこんなにもか弱い少年を住まわせているのだ。泣くことも迷うこともできずに、ただ必死に、己の信じる無二の運命を見つけたいと、苦しみから逃れようと――。


 自分に似ている、と珪己は思ってしまった。


 八年前のあの夏、自宅の庭の池のほとりに佇んでいた自分が思い出される。


 鬼に殺された母親。

 鬼が好きだった自分。

 寝台の下、かくれんぼに興じてぐっすりと眠りこんでしまった自分。

 鬼の侵入をゆるしてしまった自分、母を見殺しにした自分――。


 泣いていいのかどうかも分からなかった。自分にできることをしなかったくせに、被害者ぶって悲しむことがゆるされるのかどうかも分からなかった。あの日も父は優しく抱きしめてくれた。だけどその体が震えていたことに珪己は気づいていた。自分のことを抱きしめながら、涙を見せずに泣いていた父親――。


 それでも、自分だけではなく、たぶん誰の内にも隠しておきたい弱い心があるのだろう。


『辛い時、悲しい時、人は誰でもそれを乗り越えようとする力を持っている』


 とある夜、そう珪己は皇帝・趙英龍に言った。


 だがその力はいったいどこから生まれてくるのだろう。もしもその力を自分の中に見つけることができなければ――その人はずっと辛くて悲しい思いを抱えて生きていくしかないのだ。この目の前の青年のように。


 たとえば。


 武芸者となる道を知らなければ、琵琶を捨てていたら、八年前の楊武襲撃事変直後の鬱屈した心を抱えて自分はこれまで生きてきたかもしれない……。


 母の面影が瞼の裏をかすめる。


 気づけば、珪己の瞳には涙が浮かんでいた。

 自然とその思いが口をついて出ていた。


「あなたはもう自分一人で生きていけます。生まれとか外見とか、自分ではどうしようもないことをどうしてそこまで背負うんですか。そんなふうに、誰かがいなくては生きてはいけないだなんて思い詰めないで……」


 ぽろり、と頬を涙が伝った。

 その滴が流れるさまを凝視し、イムルがやや震えるその口を開いた。


「……なぜ泣くんだ」

「だって……あなたがとても辛そうだから」


 イムルの苦しむ姿は珪己自身の姿でもあり、父・玄徳の姿でもあり、そしてすべての人の姿だった。


 父が珍しくその柔和な顔を消して、辛そうに遠くを見やりながら語っていたことを思い出す。


『自分で自分を否定することほど苦しいことはないんだ――』


 この青年はその出自を己が背負うべき罪の一つとみなしている。この世に生まれた瞬間から罪人として生きる運命を背負ってしまったかのように、生きているというただそれだけのことが罪であるかのように……。


(だけどそんなこと、受け入れられるわけがない……!)


「王子、私はあなたではないけれど、でもあなたと同じことで苦しんだことがあるから分かります。……分かるんです。お願いですから自分が存在することを否定しないでください。自分のことが嫌いだと、さっき私は言いました。でもやっぱり、自分のことを嫌いなままでは幸せになんてなれないんですよ。自分の嫌なところばかりを見たら駄目なんですよ……。私たち、いいところだっていっぱいありますよね? そうですよね? だったら、そのいいところを好きになればいいじゃないですか。そんな自分を愛おしいって思えれば、それだけで私たちは幸せになれるんじゃないですか……?」


 珪己の言葉一つ一つに、イムルもまたその表情を変えていった。王子らしい精悍な顔が歪み、眉間が寄せられ、その瞳がうるみ――。それは先ほど珪己が見た幻の少年によく似ていた。ずっと我慢していた辛く切ない心を解き放つまいと耐えているのもそっくりだ。


 珪己は机の上にあったイムルの手をとった。その手はこの猛々しい青年の言動と相反してひどく冷たくなっていた。武骨な手はイムルの努力の象徴だ。だが誰が知っているだろう。その努力と忍耐が身を結ぶとは限らないことを。


 だったら、自分たちにできることは一つしかない。


「私もあなたも、これまで楽して生きてきたわけじゃないですよね? 頑張って生きてきましたよね? そんな一生懸命な自分のこと、他の誰でもない自分が褒めてあげなくちゃ……。自分自身が自分の一番の味方にならなくちゃ……」

「お前……」


 ぎゅっとその手を握った。


「ねえ、もうやめませんか? こうやって誰かを傷つけたり奪ったりして、それで生きていることを実感しようとすること」

「俺はっ! そんなつもりじゃ……!」

「もうやめましょうよ……自分を粗末にしている人は幸せそうには見えません。それは幸せではないからですよ。本当に幸せになりたかったら、今の自分を大切にしなくちゃだめなんですよ……」


 この青年に語るというよりも、もう自分自身に語っているかのようだった。


「過去も他人からの評価も、もういいじゃないですか。それに囚われるってことは、私たちは自分で自分のことを不幸だと決めつけるようなものです。一生不幸でいることを自分で決めたようなものです。だけど、あなたのその瞳はあなたの国では嫌われるのかもしれないですけど、私の国では美しいと感じるんです。だから、あなたがその生まれや瞳に負い目を感じる必要なんかないんです。私も……私もたとえ何があろうとも、もう他人の目で見た自分に振り回されるのはやめます。自分の価値を信じてみます。だから……だからあなたも……」

「……お前も、か?」


 食いしばる歯の隙間から、ささやくように確認され、珪己はぽろぽろと涙をこぼしながら、あとは言葉にならずにうなずいた。それからも、何度も力強くうなずいた。訴え始めてからずっと、珪己は真摯にイムルを見つめていた。際限なく涙をこぼしながらもイムルを強く見つめていた。


「ねえ王子……私たち、自分の力で幸せになりましょう?」


 そう言ったとたん、イムルの顔がくしゃくしゃに歪んだ。瞳から涙が零れ落ちる。玉のようなその涙があとからあとから湧いてくる。本人にも止める術はないようで、やがて、ううう、とうなるや机につっぷした。それでも盛り上がった肩が上下し時折震えていることから、イムルが顔を隠して号泣していることは明らかだった。珪己はその様子にまた涙を誘われ、同じように涙を流し続けた。


(泣くことでこの苦しみや悲しみが浄化されるのなら、いつまでだって泣いていたいよ……)


 そう珪己は思った。

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