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3.はずむ会話の先に

 窮地に陥り絶望しかけたその時、珪己は己が発したその一言によってこの危機をひとまず回避できた幸運に気がついた。そして希望の光が見えれば、心はやはりそちらの方へと真っ直ぐに向かい出すのであった。自分からあきらめて絶望という名の沼に落ちようとは思えない。一度落ちれば二度と這い上がることのない底なしの沼になど――。


 そして今は内心ほっとしている。寝台から降りることができただけでもこれまでのことを考えれば十分な成果だ。しかしそのようなことはおくびにも出さない。いつ目の前のこの異国人が意趣を返すか分かったものではない。


 趙龍崇の警告どおり、この青年は本能に従う獣なのだろう。そうでなければ、無関係の子供を襲い、鄭古亥を無残に打ち倒すような非道を平気でするはずがない。であれば同じ人間であると考えては危険だ。


 今、珪己にできることはこの青年を懐柔すること、そして少しでも時間を稼ぐことくらいだ。誰かが自分を助けに来てくれるかもしれない。だが期待はしていない。そこは現実的だ。しかしまだそれを全否定するほどの窮地ではないとも思う。自分の記憶のないところでこの青年に何をされたか予想はついてしまっているが……。


 ただ、その一度のことで、今までの、そしてこれからの自分の生涯を捨てようとまでは思っていない。十六年の歳月を無にしたくはないのだ。真剣に落ち込むのも後からでいい。「覚えていないとき」でよかった、と、やや見当違いな点に珪己は感謝している。


 そうして、珪己はイムルから芯国の文化について詳しく聞き出していった。


 イムルが話すたびに小さなことでも口を挟み質問していく。イムルは話の腰を折るような問いを疎んじることなく、それどころか楽しげに答えていった。そのため、珪己は目論みどおり、身の安全を守ることのできる時間を確保していったのであった。


 そして珪己の興味を一番引いたのは、やはり武芸に関することだった。


「ええっ? 芯国には女性の武芸者がたくさんいるんですか?」

「そうだ。武官の一割は女人だし、市井の民でも何らかの簡単な業は使えるぞ」

「芯国の女性はどのような業を使うんですか? 武器は?」

「うちの国の女共は男顔負けの体格をしている奴が多くてな、男も女もそのあたりはあまり変わらないな。だが長剣は特別なものがあり、女武官は大抵それを使う」


 珪己の喉がごくりと鳴った。


「と、特別って……。どういう物なんですか……?」

「昔、西欧から入ったものでな。刀身は古来のものとほぼ同じなのだが、細く軽くできている。そのぶん鍔競り合ったり打ち合ったりすることには不向きなのだが、俊敏に動き敵の急所を突くのには便利なんだ。小柄な女に特に向いている」


 国家機密に等しいその情報を、珪己は感慨深く聞いている。


「その剣、どこで手に入りますかね……?」

「今の湖国で手に入れることはまず無理だな」

「そうですか……。でもいつか絶対に使ってみたいです」


 そうやって事細かく話を聞いていたら、このような状況にあるというのに話に夢中になっている自分に珪己は気づいた。近くの国でそこまで異なる行動、考え方をする人々がいるということを全然知らなかったし、自分以外の女武芸者の存在についても心からの驚きを覚えてしまったのである。


「……よく分かりました。世界は広いんですね。でもって、自分の考え一つで世界が成り立っているわけじゃないってこともよく分かりました」


 まさに模範的な生徒のごとく拝聴し続けていた珪己に、向かい合って座るイムルが無言でじっと見つめてきた。


「……何ですか?」

「……いや。お前、面白いな」


 似たような発言は、先日湖国の皇族二人にもされたばかりだ。

 なので珪己はつい頬をふくらませた。


「面白いって、褒め言葉じゃないって知ってます?」

「そうなのか? だが面白いものには負の印象などないだろうが」


 一拍おいて、珪己も確かにそうだと気づいた。


「それもそうですね」


 そう言った珪己をまたイムルが興味深げに見つめる。


「お前……どこまでも素直な奴だな」


 だがその言葉は珪己には聞き捨てならなかった。


「ええっ! あなたのほうがよっぽど素直じゃないですか!」

「俺が? どこがだ」

「自分で分かってないんですか? 欲しくなったら即行動するところなんて、まるで乳を求める赤子のようですよ?」


 さすがに「あなたは獣のようだと皇族方に比喩されたのですよ」などとは言わない。少なくとも人間として例える優しさは持っている。なので「俺を赤子同然に語るのはお前くらいだぞ」と愉快そうに笑うこの青年に、「実は……」とより辛辣な事実を語りたくなりはしたものの、それを珪己はなんとか我慢した。


 ふと珪己は思った。


(皇族の方や偉い方って人をからかうのが好きなのかしら?)


 そういう扱いを受けることがこのところ多い。


(……あ、違うな。男の人はみんなそうなんだわ)


 それは李侑生と袁仁威のことも含めてである。彼ら二人こそ、珪己の唇を奪い、たやすく心を嬲ってみせたのだから――。


(ああでも……侑生様のことは私が愚かであっただけのように思えるし……)


(心って不便で容赦ないんだわ。真実は一つしかないのに、どう捉えるかは私の自由でもあり責任で……)


(私が傷つくのは全部私自身が原因なのよね。私が駄目で馬鹿だから、だから真実を知ることもできないんだもの……)


 やや悲しげな表情になった珪己を、イムルはしばらく無言でじっと見つめていたが、やがて問うた。


「お前がさっき俺にたずねたこと……」

「なんですか?」

「……いや。だから……。お前は自分のことが好きではないのか?」


 珪己はイムルとしばらく視線を合わせると観念して答えた。


「好きじゃないというか、自分の馬鹿さ加減が嫌になっているだけです。それに誰しもが私のことを適当に扱うから、それを否定できなくて……辛くて」


 その告白に、イムルは思わず尋ねていた。


「もしかしてここに連れてきて迷惑だったか?」


 珪己は対するこの青年の表情にはっきりとした焦りを見て、だから正直には答えられなくなった。


「……迷惑ではないです。面白い話も聞けましたし」


 あ、自分でも「面白い」という言葉を前向きな意味付けで使ってるな、と頭の片隅で考えつつ、さすがに少しくらいの苦言はしたい。


「でも嫌がる人にああいうことをするのはやめたほうがいいですよ?」

「ああいうこととは」

「だ、だから」


 珪己は口ごもりながらも必死で答えた。

 たぶんこの人ははっきり言わないと通じない。


「……口づけのことですよ」


 それにイムルが目を見開いた。


「それは湖国の流儀か?」

「え?」


 お互い相手との温度差を感じ、一瞬の静寂が訪れた。

 だがすぐにイムルがそれを破った。


「湖国では口づけをするときに相手に許可を得る必要があるのか?」


 真剣に問われ、珪己も即答できない自分に気づいた。


「そう言われると……分かりませんね」

「俺の国ではしたくなったらするものだぞ」


 胸を張って答えられ、珪己は「でもでも」と訴えた。


「言葉できちんと『是』と示すことではないかもしれませんが、それでも私たちは言葉以外でも会話をしているじゃないですか。そこから読み取るべきですよね」

「言葉以外で?」

「そうですよ。表情とか身振り手振りとかで、相手が何を言いたいのかだいたいは分かりますよね。口で『是』と言ってたって、それが嘘であることだってありますよね?」

「……そんなものか?」

「そうです! 道場でだって私、一度も『是』なんて示していませんから!」


 自分であの時のことに触れるのは勇気がいったが、それでも珪己は口に出した。この青年の驚愕の表情からして、今ここで自分が明言しなければ、第二第三の犠牲者が生まれてしまうかもしれない。自分こそが被害者のくせにおかしな正義感が芽生えていた。


「ですから、絶対にもう二度とあんなことはしてはいけませんよ?」

「……なんだかアソヤクみたいな奴だな、お前」


 やや嫌そうに、だが懐かしげな目つきでイムルが珪己を見た。

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