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2.あなたがうらやましい

「なかなか戻ってこないわねえ」


 その女性の声に良季が顔をあげると、そこにはいつの間にか李清照がいた。思ったよりも真剣にこの女性の詩集を読んでいた自分に、良季はややバツの悪い思いをした。


「もうちょっとで帰ってくると思うからもう少し待ってあげてね」

「待つことは苦ではありませんのでお気になさらず」


 良季はほとんど読了していたその詩集を閉じると清照のほうに差し出した。


「大変面白かったです。ありがとうございます」


 ありがちな感想だ。だがそれだけのことに清照の顔は十代の少女のようにぱあっと明るくなった。


「本当?」

「ええ。このような詩の書き方、世界があるということを私は初めて知りました」

「ねえ、もっと具体的な感想を聞かせてよ」


 良季の正面、つい一刻前まで自分が座っていた席に腰かけると、清照が身を乗り出してきた。目は爛々と輝いている。


「なかなか感想を聞く機会がなくて。ほら、創作者にとって読者の感想を聞くことほど身になることってないでしょ?」


 それに良季が小さく首をかしげた。


「あら。どうしたの?」


 清照の問いに良季がさも不思議そうに答えた。


「……いえ。あなたの世界は自己完結しており、他人の感想を聞きたいと思っているとは想像していなかったもので」


 ぴん、と表情を硬くした清照に、さらに良季は続けた。


「あなたはこの愛を捧げたい相手にすら、その愛を理解してもらいたいとは思っていないのではないですか? 自分の愛がどういうものかを世間に知らせたい、ただそれだけのために書かれたものですよね。肯定されることを求め、否定する意見には聞く耳を持つつもりもない」

「……それが悪い?」


 うなるような声音とあからさまな敵意むきだしの表情に、だが良季のほうは表情を変えることはなかった。


「悪いなどと言っていません。人は誰しもが承認欲求を持っているものです。そして当然、自分がもっとも価値をおいているものをこそ、第三者に認めてもらいたいと思うものですよ。それが清照殿の場合は愛であったと。それだけのことです」

「……それが馬鹿にしているように聞こえるっていうのよ!」


 良季の言葉にかぶせるように、清照が怒りもあらわに怒鳴った。


「清照殿、落ち着いてください」


 その良季自身は今も平静を保っている。


「あなたが怒るのもまた当然です。あなたは愛を傷つけられた、否定されたと考えられたのでしょう? ですが違います。……私はあなたがうらやましい」

「うらやましい……?」


 予想だにしない言葉に、清照は意表を突かれた。その驚く様子に良季が寂しげにほほ笑んだ。


「ええ……うらやましいです。あなたは自分がもっとも大切にしていることを堂々と主張できる。そのように、自分の感情、思想そのままに声をあげることが、この世ではどれほど難しいことか……。少なくとも私にはできません。ですから、うらやましい、そう申したのです」


 言葉だけを聞けば、良季が再三この詩集を、清照の抱える愛の世界を馬鹿にしているように思えたかもしれない。だが良季の声音やその表情、伏し目がちな瞳は、この青年が心からそう思っていると語っていた。


 清照は思わず尋ねていた。


「あなたはなぜそれを言えないの? 枢密院事だから?」

「理由も言えません」


 先ほどまでの物憂げな表情はどうしたというのか、良季は明瞭に拒絶した。


「今あなたに言えることであれば、私はとっくに言うべき人に伝えています」

「……それもそうね」


 清照もまたこの苦悩する青年のために端的に応じた。


「良季さんがその想いを伝えることができる日がくることを祈っているわ」

「ありがとうございます。そう言っていただけるだけでわが身には十分です。……まあでも」


 そこでようやく良季が言葉につまった。


「……清照殿のその愛が成就されることはなさそうなので、私のほうからは同じ言葉を返すことはできませんけどね」


 理屈で考えればそうだろう、とでも言いたげな返答に、清照の頬がぴくぴくと震えた。


「あなた……失礼な人ね」

「おや、そうですか? これでも私は枢密院では高く評価されているんですけどね」

「はいはい、言ってなさい」


 清照はこのとき初めて、このような部下を持つ弟の職務の苦労を慮った。

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