1.あなたは自分のことが好き?
そして、芯国の大使館では――。
すべての人にないがしろにされているような、絶望的な思いに珪己はとらわれていた。
実際には父・楊玄徳や李侑生のような存在もいるのだが、数々のできごとが重なり続け、今こうして見知らぬ青年に組み敷かれ――何もかもが自分を追いつめているように感じられたのだ。
イムルは先ほど言った。「お前は美味い」「もっと食いたい」と。そして今、目の前に迫りつつあるこの青年の表情、欲にとらわれた顔つきからして、そのような経験がいまだ一度もない珪己もとうとう理解してしまったのである。
(自分が意識を失っている間に、この人によって私は……)
するとまた、道場で自覚したばかりの己の愚かさ、無価値さが思い出された。イムルの瞳に映った自分の顔のなんと弱々しかったことか……。
(今の自分はきっとその時よりも……)
一度自覚してしまうともう駄目だった。負の思考回路は止まらない。嫌な気持ちを餌にして、心はどこまでも堕ちていくだけだった。
堕ちて、堕ちて、堕ちて……。
行き着いた先には……何もなかった。
空っぽの自分。何の役にも立たない自分。
居ても居なくてもどうでもいい自分。どう利用されようともどうでもいい……自分。そういう自分しか見つけることができなかった。
だからこそ、価値のない自分はイムルを受け入れることしかできないのだと思い知らされたのであった。
少女の上に跨り口づけを迫ってくるイムルに、珪己は心に浮かんだたった一つの疑問を口に出していた。
「あなたは……自分のことが好き?」
その一言にイムルの動きが止まった。
やや顔を離し、その焦点を見下ろす珪己の顔へと合わせる。
「なぜそんなことを訊く」
「……自分のこと、好き?」
イムルの眉間に小さくしわが寄った。が、ややしばらくして、珪己から離れ、その隣にごろんと横になった。両手を枕にして足を組み、やがてぽつりと言った。
「好きではない、な」
「それって嫌いってこと?」
「……そうだな。嫌いだ」
「ねえ、どうして嫌いなの?」
イムルはその青い瞳だけを隣で同じように寝転がる珪己に向け、それから視線を天井へとやった。
「この目の色のせいで俺は誰にも好かれたことがない。誰にも好かれないような自分を好きになる阿呆がいるか?」
そう言って再度珪己に向けてきたその目は、これだけ野蛮なことをやってのけた人間のものとは思えないほど澄んでいた。
「そういう人もいるかもしれないじゃない」
「いるわけがないだろう」
自嘲するようにイムルが低く笑った。
「……私も。私も自分のこと好きじゃない」
突然の珪己の告白に、イムルは「そうか」と一言つぶやいただけだった。珪己もまたイムルと同じように、天井をじっと見つめている。
「私ってなんて駄目なんだろうって思うことが最近よくあるの。自分に自信をもたなくちゃ駄目だ、自信をもつことは素晴らしいことだって……そう分かっているのに、それができなくて……」
それを確固たるものとしたのは、もちろんこの隣にいる青年である。だが、「俺は自分のことは好きじゃないが自分には自信はあるぞ」と言う青年に、珪己は思わずイムルの方を向いていた。
「……そう! あなたって不思議な人だなってずっと思ってたの。大使の副官をするくらいなんだし才能も地位もあるんでしょ? それにきれいな顔をしているし、その瞳だってすごくきれい。だけどやることは無鉄砲で、自分のことを全然大切にしていない。どうして?」
「……俺のこの目をきれいだと言う人間は珍しいな」
イムルは体をひねると側面を下にし、その片手で頭を支えて珪己のほうに向きなおった。やや愉快そうにその瞳が細められている。それに珪己がさらに不思議そうな顔になった。
「あなたのその目がきれいじゃないならいったい何がきれいなの?」
素朴な問いに隠された最大級の賛美に、イムルが小さく息を飲んだ。だが、「芯国の人って、もしかして美的感覚が私と違うのかしら?」とまで言う珪己に、イムルはここにきて初めて心からの笑みを浮かべた。
「ははは。確かにお前の国と俺の国とでは好むものは違うな」
珪己は上半身から勢いづけて起き上がった。そしてイムルを見下ろした。もっとこの人と話してみたい、そう思ったのだ。
「私の国ではあなたの瞳のような透明で深い青を美しいと感じるのよ。この国は広いし、湖ばかりでしょ? だからこそ、東の果ての見たことのない海に、内陸に住む人たちは憧れるの。海って、あなたのその瞳にそっくりの色をしているんでしょ?」
ぺらぺらと快活に語りだしたこの少女をイムルはやや驚きをもって見上げている。
ここに来る前も、来た後でも、この少女が男女の機微に疎く、そちら方面の経験も知識もまるでないことは察しがついていた。芯国は一年の半分が常夏のような気候のせいか、男女の性的関係は非常にゆるく開放的で、イムルもまたその気質を有している。
ちなみに湖国も数十年ほど前から同様の傾向になりつつある。……そのはずだ。なのに、この楊珪己という少女は湖国創世前の価値観で生きる古代生物のようだった。
あれだけ長い時間をかけて深い口づけをして、さらに寝台に押し倒したのだ。己の半身であれば喜びに打ち震え「一つになりたい」と言ったイムルの言葉に嬉々として従うはずだった。しかし違った。
だが、もしも。
もしも珪己が半身ではないとしたら――その命を懸けて抵抗するはずだ。この少女は武芸者であるし、闘うことを選択し続けることで生きているような人間だ。それは宴での琵琶の奏で方もそうだし、今日直接会ってみて確信している。
だが当の少女はそのどれでもなく、直前の出来事までをも忘れてしまったかのように話に夢中になっている。
むくむくと、素朴な興味がイムルの中に湧いてきた。それと引き換えに体の奥に灯っていた熱が急速に失せていくのを感じた。その熱の根源はセツカから運命について論じられたときに生じたもので、この世で何としてでも生き延びてやると決意した瞬間に着火した炎だった。
なのに、あれだけ執拗に自分を苦しめていた炎が、闘いの場に赴くことでしかごまかすことのできなかった炎が、だんだんと小さくなっていく。それは不思議な感覚だった。
イムルは起き上がると寝台の向こう側、机と椅子のある方を指差した。
「……向こうで話そう」