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5.凶の星と吉の星

✳︎



「お前が俺を怖くないのは当然だ」


 そう言うや、イムルは珪己の乗る寝台に腰を降ろした。見た目以上に重量のある青年の体が乗ったことで、二人だけの空間に、ぎしりと音が響いた。その音一つがなぜか珪己の胸を訳もなくざわめかせた。やや身をそらしたが、イムルは寝台に片手をついてその青い瞳で覗き込んできた。


 しばらくじっと見つめられた。


 思いの外真剣に見つめられ、珪己は動くに動けなくなった。検分するような、かといって品定めするような無礼な様子でもない。ただじっと、穴があくのではないかと思うくらいに見つめ続けるのだ。体当たりをして逃げ出すといった強行手段をとる雰囲気ではなかった。だから珪己は無理な姿勢に背中を軋ませながらもイムルの視線に耐えた。腹にくすぶる怒りの種を感じながら。


 やがて満足したのだろう、イムルの表情にふいに笑みが浮かんだ。


「お前は俺なんだ」


 微笑み、吐息を交じえてイムルが言った。


「自分自身のことを怖いと普通思うか?」


 イムルの手が珪己の頬に伸びる。それを珪己は反射的に払った。長い沈黙の中で少し夢見心地になっていたが、一気に醒めた。


「私はあなたじゃない」

「いいや、お前は俺だ。俺には分かる」


 珪己の否定をイムルはまったく意に介さない。光悦とした表情は別の次元に住まう誰かと接しているかのようだ。それが珪己の怒りを再燃させた。


「なんでそんなことが分かるのよ」

「お前に口づけをすると、俺は自分自身が潤っていくのを感じた。だからだ」


 言葉に出され、そこで珪己はこの目の前の青年との息が奪われるほどの行為を思い出した。乙女の条件反射として頬を赤く染めてしまい、それを見たイムルもまた頬を上気させた。


 青い瞳に一瞬にして力が宿る。


 その目が唇を寄せた場所、舌を這わせた場所を一つ一つ確認するように動き出した。その都度、瞳の輝きが増していく。動きに合わせて珪己の体は正直に震えた。


 珪己を存分に眺め終えると、イムルは満足気に一つ大きく息を吐いた。


「……お前の体はすごく美味かった。どこもかしこも。こんなことは初めてだ。お前を食らうと体中に生気が湧き全身が熱くたぎる。それもこれもお前が俺の半身だからだろう?」


 イムルがうっとりとした目つきで珪己の頭をなで、髪を触った。


 珪己がその言葉の意味を理解しきれずにいると、イムルが動いた。

 珪己の肩に手をやり、とん、と押す。

 それが自然なことのように、珪己はそのまま背中から寝台に仰向けに倒れてしまった。


 いまだ思考が止まったままの珪己の上に、イムルが上半身から覆いかぶさるように近づいてきた。

 珪己の目前には、この青年の顔、そして高い天井しかない。


「もっと食いたい。食ってお前と一つになりたい……」


 それはまさしく御馳走を前にした獣だった。



 *



 侑生と隼平は楊家に着くと門戸をせわしなく叩いた。想いをのせて、天空のとどろきよりも強く。


 だが叩いても叩いても応答がない。家人が誰一人出てこない。


「どうしたんだろうなあ。雨で聞こえないのかな?」


 隼平がそう言った一拍の後、突如侑生の気配が変わった。


 応答を待たずに戸を開くと、そのまま誰のことわりもなく屋敷の中へと入っていく。それをあわてて隼平は追いかけた。


 侑生がこの屋敷に入った回数はまだ三度ほどしかない。だが今の楊家にはその初回――八年前の夏と同質の空気が至るところに満ちていた。血の匂いはしない。殺気立った人間が潜んでいるような気配もない。だがこの場からは異様な気の残骸、事後の雰囲気がそこかしこに感じられるのだ。


 これ以上はないほどの俊敏な動作で侑生は駆けていく。手当たり次第に各部屋の状況を確認していく。そのただならぬ様子に、隼平もようやくその意味を悟った。


「賊か?!」

「いや、分からない。だが何者かが侵入したことは間違いない……!」


 そう言いながらも侑生の動きはさらに加速されていく。


 本来であればこういう時ほど落ち着いて対処しなくてはいけない。まだ賊がこの場に潜んでいる可能性も十分にあるし、その賊が人質をとっているおそれもある。静かに、ゆっくりと、慎重に部屋をあらためていくべきだ。だが、常であればそういったことが得意であるはずの侑生にその余裕はない。愛ゆえの直感、そして恐れが侑生を突き動かしているのだ。


「珪己殿、どこだ! 珪己殿……!」


 額に汗を浮かべて必死な面持ちで探索をする侑生は、今、何も隠していない。隼平もまた自身が育った寺でのの惨事を思い出し、その笑みを消して探索に加わった。


「珪己ちゃん! 珪己ちゃーん!」


 やがて、この上級官吏にしては手狭な屋敷の奥、紐で緊縛された楊家の家人らが発見された。


 だが――そこに目的の少女の姿はなかった。



 *



「陛下。吉兆と凶兆が出ております」


 そう告げた金昭儀の声は、今も何の感情もこもらない平坦なものだった。その声質ゆえに、その発言が間違いなく真実であるかようにこの場に響いた。


 夜を再現したかのようなこの部屋にいても、外の雨の激しさがうかがえる。ざざざざ、ざざざざ。勢いが増してきている。まるでこの世に吉などないかのように、生きとし生ける者を責めるかのように雨は降っている。この室に足を踏み入れて以来、英龍は現実と夢幻の間をたゆたっている。


 だがその幻覚は金昭儀によって打ち消された。


「――陛下が動けば吉となります」


 英龍は湿り気のある重い空気を腹から吸い込み、そして吐いた。吐き切って、次に息を止める。もう一度息を深く吸い、そして吐く。そうやって呼吸を整えていき、ようやく覚悟を決めてから問うた。


「……動くとは?」

「これからお一人で紫苑寺に参拝くださりませ」

「紫苑寺?」


 その名は聞いたことがない。だがおそらく開陽にそのような無名の寺があるのだろう。


「だが余は」


 余は皇帝である、だから急な城外への外出、しかも単独での行動など無理なことだ。そう続けようとして、それは金昭儀によって遮られた。


「動かねば……趙家ちょうけに滅びの星が近づきましょう」


 あぐらをかいて座る膝の上、英龍の両の拳がぎりりと握りしめられた。深く眉間を寄せ、そのつり上がり気味の瞳が細められる。その目はこの場ではなく別の世界を見ているかのようで焦点が合っていない。


 背中を伝う汗に英龍は気づいた。


 このような緊迫した状況にいるのは随分久しぶりだ、と頭の片隅で思う。


「……動かねば趙家は滅びるかもしれない、と」

「そのとおりでございます」

「それが凶の星か」

「いかにも」

「……では吉の星とは?」


 無意識にそこに希望を託していた。


 すると金昭儀が厳かに告げた。


「その寺に月の御子がおりまする」

「月の……御子?」

「はい。月の御子は趙家を栄えさせるでしょう。さあ、即刻出立してくださりませ」


 それだけ言うと、金昭儀はその小さな唇を固く閉ざした。まるで一気に目の前の門を閉じるかのように、それは突然の会話の終了だった。



 いまだ雨はやむ気配はない。

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