4.宝山の金家
皇帝・趙英龍が初めて訪れたその側妃の室は、明るさや光源といったものが一切なく、完璧な闇に支配されていた。なんとも不思議で独特な、神秘的な空間だった。後宮内、ここだけが常夜の国の領域なのだと錯覚してしまいそうになるほどに。
それでも、暗いながらも、部屋の奥に二人の女官が座っているのが見えた。だがこの女官、後宮内でよく見かける女官とはいでたちが異なっていた。
長い黒髪は結うことなく座る腿までまっすぐ垂れ下がっている。白一色の衣を身にまとっている。化粧気のないその顔は無表情でやや青白くもある。それが普段太陽の光を浴びないせいであることを英龍は知識として知っていた。
二人の女官よりも奥の方にも誰かがいる。見えずとも、生きる者から匂い立つ気配を確かにそこから感じる。
やがて、闇に慣れてきた英龍の目に、ぼうっと、同じく白一色の衣をまとう女人の姿が見えてきた。彼女こそが金昭儀、この室の主であり英龍の二人いる側妃のうちの一人である。
彼女は雪のような白髪を有していた。その髪が座る床の上に波紋のように広がっている。だが髪の色の割には年若い。英龍と同年代のようだ。この側妃の容貌や歳の頃を知るのはこれが初めてのことだった。
金昭儀が、両目をつむったまま、赤味の一切ない唇を開いた。
「――お初にお目にかかります」
純な氷のように冷たく透き通る声だった。
英龍は静かにその場に座った。本来であれば皇帝が姿を現せば彼女らは礼をとるべきであり、金昭儀の座る上座は皇帝に譲らねばならない。だが金昭儀はそれをせず、そばに侍る女官らも主の無礼をたしなめることはなかった。それこそ当然であるかのように、ただ沈黙を保ち座している。
「宝山の金家が火急の件とは如何した」
英龍の発した声にいつもよりも覇気がないのは仕方のないことだ。
金という姓の者はこの国に数多くおり、決して特別ではない。だが宝山の金家というと話は違う。
ここ開陽から北西の方角、湖国の中央よりやや西の方に、針のような岩山が密集した山岳地帯がある。人が住まうには非常に厳しいその一帯は、周囲の州に支配されない独立した自治区として国に認められている。その連なる山々の最高峰が宝山であり、その頂に金家の屋敷がある。
宝山の金家は易者としてこの国隋一の才を誇っている。が、その力は現在、この国の皇帝以外のためには使われない。それは湖国の成る前、十国時代に、この金家の力を奪い合った悲惨な歴史があるからだった。
当時、十の小国同士の争いに乗じて、金家は数々の権力者から従属するよう絶え間なく脅された。しかし己の才に矜持を持つ金家の衆はこれらのすべてを拒否した。それにより、金家の人間はもとより、金家に従う多くの者が命を落としたという。
そのような時代に、湖国の初代皇帝となった趙龍舜が金家の窮地を救った。数々の狼藉者をなぎ倒し、湖国を興すや、「趙家は私欲のためには金家の力を使わない」と明言したのである。これにより、金家は趙家に永久の忠誠を誓った。そう伝えられている。
金家の易者としての力は、生まれながらに白髪の女人のみに備わる天賦の才であるという。そして、皇帝が代わるたび、金家は才のある女人の一人を妃という名目で趙家に差し出してきた。それゆえ事情を知るごく一部の者――皇族の一部と侍従長、そして女官長――にとって、歴代の金昭儀といえば、それは宝山の金家、易者の女人を意味した。
英龍はこれまでこの金家の易者と会いまみえたことがなかった。自分に与えられたこの女性はもとより、父の代の金昭儀も、だ。父である前皇帝・趙大龍からも「金家の易者には自ら近づいてはならない」と生前から言い含められていた。あれは夜伽をさせるための女ではない、もしそのようなことをすれば易者としての才は消滅し、金家は趙家から離れていくであろう――と。
だが前皇帝はこうも言っていた。もしも金家の妃に呼ばれたら、何をさし置いてもこの易者の話を聞かなくてはならない、と。金家の力は本物であり、悪しき未来を預言し、回避するための策を授けてくれるのだ、と。
その金昭儀がこの十年の沈黙を破って英龍を招へいしたのであるから、彼が緊張するのも無理はなかった。
いまだ目をつむったままの金昭儀が、英龍の硬い気配を察し薄く笑った。その小さな動作によって英龍もまた相手のことを一つ理解した。
「そなた、目が?」
「はい。見えませぬ。金家の易者は生まれたときから暗闇で過ごすため、誰もが見ることができなくなるのです」
「それでどのように星を見るのだ? 金家では星を見て占うと聞いているが」
「それは誤りでございます。金家は星の声を聴くことで占うのです」
「聴く……?」
「ええ。陛下は昼日中にも天空に星があることをご存じでしょうか」
英龍は黙ってしまった。星とは夜の空に突如現れて輝くものだと思っていたからだ。近頃、蘇頌という学者が最新の天球儀を開発し、この地は水平な皿のような構造ではなく球体なのかもしれないなどと斬新な説を唱えていたが……。それよりもこの易者の発言のほうがよほど突飛に感じる。
金昭儀がその細い声で沈黙を破った。
「闇の中にいますと、昼でも星々の声が聴こえます。そして目が見えない方がよく聴こえるのです。星の数は無限、そしてすべての星が異なる波長、強さでもって天空で煌めいております。それを私共は『星の声』と申しております」
世の理をすべて理解しているとでもいうように語る金昭儀によって、この灯り一つない闇ばかりの部屋が、いつしか壮大な空間へと様変わりしていった。
闇の中、びっしりと敷き詰められたかのような光の粒が見える。
その一つ一つが意志のある生物のように自分勝手に光り、揺らぎ、姿を消し、そしてまた現れる。
気づけば英龍自身もまたその空間の中、砂粒ほどの存在になってしまったかのような錯覚に陥っていた。
(これが天というものなのか――)
浮遊した体で見下ろす先には青く光る球体がある。
それはただ一つだけで、美しく、しかし広大な闇の中儚く存在している。
だが溢れんばかりの命がそこにはある。
それを英龍はなぜか知っている。
手を伸ばして包み込もうとして――気づけば先ほどまでと同じ場所に胡坐をかいて座る自分へと意識が戻っていた。
はっとして視線を上げると、白髪の女性は変わらずそこにいた。
「――それでは、陛下。本日こちらにお招きした理由を説明いたします」