3.何も怖くなんかない
珪己が目を覚ました場所は、先ほどまでいたはずの通い慣れた道場ではなかった。
意識が戻り、見慣れない調度類ばかりの部屋にいることに気づき、一気に頭が覚醒した。首を回し、視線を上から下までくまなく動かすと、やはりここは道場ではなく、しかも見知らぬ場所だった。小窓にかけられた布は、その鮮やかな色と薄く揺れる様から、ここ湖国のものではないことはすぐに分かった。脇に飾られた花瓶は青緑の磁器で、それもまたこの国にはないものだ。
それらの意味するところを察し、はっとして起き上がった。今珪己が寝ていた寝台もまたこの国のものではない。炭油を重ねたのだろう、色濃く黒く塗られた籐製の寝台が聞きなれない乾いた音を鳴らした。
「起きたか」
低いその青年の声にはこの国の人間が発しない韻がある。
珪己はとっさに振り返った。そこにいたのはやはりあの異国人――イムルだった。
寝台の頭の方にもう一つ部屋があるのだが、イムルはそこに置かれた椅子に座り、手には茶器を持っていた。
近くも遠くもない距離で、束の間二人は見つめ合った。
なぜここにいるのか、ここは一体どこなのか。探る珪己の瞳を、イムルは静かに受け止めている。
イムルはひどく落ち着いていた。道場での激しい行為や感情を置き忘れてきたかのように。
静寂が支配する空間には、ぱらぱらと雨音だけが聞こえる。ふわりと鼻孔につく香りは、先日、芯国の巨船で嗅いだものによく似ていた。
決して狭くはないこの空間、だがここにあるすべての物が、イムルが、『ここはお前が元いた場所ではない』と語りかけてくるようだった。その青い瞳はうるさいくらいに明るく輝いている。
だがいくら美しく輝いたとしても、そこには得体の知れないもの特有の恐怖しか感じとれない。
濡れたままの衣のせいだけではなく小さく震えた珪己の様子に、イムルが茶器を机に置いた。
「どうした。何を恐れている」
真実分からないといった表情で立ち上がるや、ゆっくりと珪己に近づいてくる。一歩一歩、進むたびに床がぎいと鳴る。ぎい、ぎい、と鈍い音が鳴る。やがてその音が止んだ時には、二人は手を伸ばせば届く距離にいた。
『すべてが怖い』
言いかけた珪己の口は、いったん開きかけて閉じられた。
そして再度口を開いたときには、その双眸に再度炎を燃やしていた。
「私は何も怖くなんかないっ……!」
いまだ寝台の上にいるというのに、それでも珪己はこの青年を睨まずにはいられなかった。
*
仁威と温忠は今、芯国の大使館のすぐそばにまで来ている。未曾有の豪雨によって臨時閉店している店ばかりで、普段なら賑やかな界隈も、今は二人の他には誰も見あたらない。
二人は姿を見られないよう注意を払いながら、軒下から大使館のほうを探っていた。ここに来るまでまた雨に濡れ、二人の体は限界まで冷えきっている。それでも、己の内なる感情に突き動かされた結果、自身で決断してここに来ることを選んだのであった。
「お前、本当についてきていいのか」
分かっていても仁威が問うてしまったのは、温忠の状態が限界に近いことが見てとれるからだ。心も体も、いつ倒れてもおかしくないほどに疲弊している。だが温忠の決意は固かった。
「ええ。一緒に行きます。僕が一緒の方が少しはましだと思いますから」
温忠は今日、イムルの命によりこの大使館を訪れている。一度入館が許可された自分であれば、誰かに見咎められたとしても穏便にすませられるかもしれない、そう温忠は考えていた。
「だが嫌疑がかかればお前は」
「ええ、命まではとられないでしょうが、少なくとももう官吏にはなれないでしょうね」
「……いいのか? 馬侍郎はお前が礼部で献身的に働いていることを評価していたぞ」
だからこそ、馬侍郎――祥歌は、このやや怪しい素性の青年に、調印式に関わる重要な任を与えたのだ。真面目に働く有能な人間だと、祥歌は言葉にせずとも判断している。
祥歌のお墨付きがあれば、科挙に合格した暁には礼部所属の官吏になることも夢ではなくなるだろう。
それは確かに温忠のここのところの最大の夢であり目標だった。だが温忠は静かに首を振った。
「……いいんです。袁殿だって武官を辞する覚悟で臨むのですから」
ここに来る前、仁威は浩托に、油紙に包んだ書簡と、そして紅玉を預けてきた。紅玉は武官の証、そして書簡とは辞表である。近衛軍第一隊隊長のままでは大使館に押し入ることはできない。いや、もし無事に入ることができても、そこで武力を行使する事態が起きたとき、その当事者が近衛軍の者では大問題となる。国や政治とは何ら関わりのない人間が大使館に侵入し狼藉をはたらいた、そういう筋書きを仁威は用意する必要があったのだった。
「だが……」
仁威とて温忠が同行してくれるほうが良いことは分かっている。芯国の言葉を理解でき、かつ王子と顔見知りのこの青年、自分一人の場合に比べて非常に力強い助けとなるだろう。それでもためらうのは、この任に関わればその生涯が大きく変わってしまう恐れがあるからだ。
だがそれにも温忠は気丈に笑ってみせた。
「……袁殿。僕には好きな人がいるんです」
突然の論点の変化についていけない仁威に、しかし温忠はかまわず続けた。
「彼女はもう亡くなっています。だけど僕は今でも彼女が好きなんです。……彼女が亡くなっていたと知った夜、僕は飲みなれない酒を一人でしこたま飲みました。そして気づけば天井の梁に紐を巻きつけ、輪を作り、そこに首をかけていました。……発作的に自殺しようとしていたんです」
「お前……」
「ですけどね、結局死ねませんでした。首が痛いよりもとにかく息が苦しくて、そしたら酔いが一気に醒めたんです。死にたくない、そればかりを思いました。暴れて高いところから落ちた拍子に腕を折って……馬鹿みたいですよね」
はは、と乾いた笑いをあげたのは一瞬だった。
「でもそれで分かったんです。彼女のことは大好きだけど、それ以上に僕は自分の人生を生きたいんだって……。それでもね、今でも彼女のことは本当に好きなんですよ。矛盾しているように聞こえるかもしれないですけど、本当にそうなんです」
温忠の独白には次第に熱がこもっていき、自然と早口になるのを本人が気づかないほどだった。
「彼女の思いついた話によって珪己が危ない目にあっています。それはよく分かっています。でもだからといって彼女は悪女なんかじゃない。とても清らかな人で、生きることに誠実に向き合っている人でした。そういう人だから王子だって感化されたんだし、僕も好きになったんです」
言葉が口から零れ落ちていくように温忠は語っていった。
「礼部で官吏になりたいとは今でも思っていますよ? でもそれは彼女への愛を失ってまですることではないんです。官吏にならなくても僕はこれからも何かしらの夢を見つけて生きていけますから。夢はね、どんなときでも見つけられるものだって、僕はそう思うんです。恋もそうだと思います。心さえひらいていれば、恋をする相手はいくらでも、いつでも見つけられると思っています」
語りつくし、温忠は口を閉ざした。だが、これまで誰にも言えずにいた熱い想いは、出口を求めて新たな言葉に変化していった。
「でも……でもね、本当に好きな人、愛する人は、この世に一人しかないんですよ。出会ってしまって、その人しかいないって知ってしまったら、もうそれは唯一の真実の愛なんです。他には替えることのできない運命の愛なんです。僕は彼女への、セツカ様への愛を守りたいだけなんです。それは王子を救うことであり珪己を救うことと同じだって、僕は……そう思うんです」
そこまで言うと、温忠はおもむろに空を見上げた。灰一色の雲しかない空を見つめ、温忠は誰にともなくつぶやいた。
「……ああ、珪己に言ったとおりだ。恋は毒にもなるって分かってたのになあ……。でもこんな甘い毒なら、運命なら……。生きている限り、人は愛からは逃げられないんでしょうかねえ……」
低く立ち込めた雨雲からは、変わらず大粒の雨が降り注いでいる。