2.国とは、家族とは、愛とは
同じ時、皇帝・趙英龍は後宮内にて、一人娘の菊花の部屋にいた。向き合う親子の間には、雨が降る前に二人で摘んだ花がわんさとある。小さく可憐な黄色の花が、大小かまわず手当たり次第にかき集められた花瓶の中に活けられている。だが、これだけの量を一か所に集めたことで、この花固有の清楚であるがゆえの美を損なってしまっていた。
「少々摘みすぎたのではないか」
そう言って嘆息した英龍に、菊花はこの父に瓜二つのつり上がった瞳を、さらにきりりとつり上げてみせた。
「そんなことはありません。少ないくらいです」
「そ、そうか?」
「父上はご存知ないのですか。黄色の花をたくさん集めると幸せが舞い込むのですよ」
「ほお。幸せか」
誰から聞いたのかは定かではないが、巷によくある迷信か。しかしそんな話に夢中になれる娘の素直さはなんとも可愛い。今日も衣を散々に汚して花集めに精を出し、終わる頃には頰が興奮で真っ赤に染まっていた。七歳の娘の底抜けの体力に、英龍は額に汗して付き合うことになった。だがこれだけ喜んでもらえるなら本望だ。
「そうです。だからいっぱい集めたのです。珪己の部屋に二つ、父上の部屋に二つ、母上の部屋に二つ、それに廊下にも飾りたいですし」
「おお、余と麗の部屋にもか」
「はい! わらわの大好きな人たちでこの天陽園の花を共有したいのです」
「……そうか」
いつ見ても飽きることのない愛娘の笑顔。大好きだと言葉にされるのは今でも面はゆいが、それでも嬉しさのほうが勝る。
先日の公務を経て、娘は幾分成長したように感じる。それは親心ゆえの過大評価だろうか。成人で皇帝である英龍からすれば、菊花に与えた公務は簡単すぎて大したことではないのだが、そんな些細に思える経験ですら幼きわが子は成長の糧にしたようだ。
子供とは、いや、人とはなんともすごい存在なのだな、と、こういうとき英龍はつくづく感じる。それもまた、菊花という存在があるからだ。菊花がいなければ、英龍はそういったことを知らずに今ものうのうと皇帝然として生きていただろう。
こういうとき英龍は、このまま麗と菊花、家族三人だけで一生を過ごしてもいいのではないかと思ってしまう。それに異母弟・龍崇もいれば、これ以上何を望む必要があるだろうか。
だが先日の龍崇の忠言のとおり、皇帝としては妃を増やさなくてはならず、それは今ではなくても、遠い将来確実に実行すべき己の責務であった。だがそれを英龍は単なる責務と捉えることができないでいた。
妃を増やすのは子を成すため。
子を成すということは家族を増やすということだ。
それはつまり、麗や菊花以外にも大切に思える人を増やすということでもある。
(父や祖父が存命のうちに訊いておけばよかった……)
あなた方はどうしてそんなにたくさんの妃を持つことができたのですか。
すべての妃を、子を愛していたのですか。
家族に優劣はあったのですか。
それとも真に政のためだけに家族を増やしたのですか。
『あなたにとって国とは、家族とは、愛とは何だったのですか――?』
思案する英龍に菊花が気づいた。「どうされたのですか?」と問うてくる菊花は心から案じてくれていて、それがまた英龍の心を打った。
今、英龍が分かっていることは数少ない。
麗と菊花が大切で、おそらくこれが愛するということなのだ。
二人が幸せそうにしていると嬉しくなるし、辛そうにしていると心配になる。その瞳に自分への労りや愛おしさが見えるとたまらない気持ちになる。
――そして時たま、飢えを感じる。
もっと楽になりたい。
喜びを感じたい。
生きることを楽しみたい。
男としての欲を――解放したい。
そう思う浅ましい自分が胸の奥に潜んでいる。それに気づいたのは麗や菊花と和解してしばらくのことだった。二人との隔たりや皇帝としての任に追われ、英龍は長い間その獣のごとき欲望を心の奥底に無意識のうちに封印していた。それがなぜか、幸せを感じ始めるとともにゆるゆると暴かれつつある。聖なる天上人としての自分だけではいられなくなってきている。
先日の龍崇の提言は、しばらくしてそれが真実であることに思い至った。
『あなたに必要なのは、あなたの心を分かち合い、癒し、抱きしめてくれる、そんな人ですよ――』
龍崇は英龍に妃を娶るように進言した。しかしそれは女でなくてもよく、英龍がこの心を分かち合える人であれば誰でもよいとまで言った。
そのとき英龍はこの異母弟に問うた。
心を分かち合うということが愛なのか? と。
自分で問うて、それからあらためて、何度も自分自身に問い続けてきた。だがまだはっきりとは分かっていない。愛の全容を理解できていない。
愛とは何人にまで分配できるものなのだろうか?
分配することでその一つ一つの愛は薄まってしまわないのだろうか?
麗や菊花への愛情が薄まってしまわないだろうか?
目の前の娘を見ていると、英龍はそれは嫌だと思った。この娘を、そして麗を想う気持ちが薄くなるくらいなら、自分一人で鬱々としているほうがよほどいい。庶民は妻は一人しか娶らないのだし、自分だってそれでいいではないか。皇帝だからと甘えたことを言ってはいけない。
この国にはすでに菊花という正当な後継者がいる。菊花が難しくても龍崇がいる。他にも皇族は何人もいる。起こり得るか分からない最悪の事態を想定して妃を増やす必要があるとは断言できない。
英龍は菊花を安心させるべくほほ笑んでみせた。すると涙目になりかけていた菊花の表情が分かりやすく輝いた。そんな単純さもまた愛らしい。このような男の笑みで一喜一憂する可愛い我が子――。
英龍は席を立った。まだ雨は強い。だがこれは季節が移り変わる際の長雨の始まりだろうから、いつまでもここにいても解決はしない。今日は世間では休日だが、宮城内、上級官吏にはそのようなものはない。いわんや皇族もである。いくつかの決裁すべき事項が英龍の帰還を待っている。それにこれ以上菊花といると、この娘への愛情の強さゆえに胸が苦しくて辛くなりそうだった。
菊花の部屋を出て、数人の女官を従えて英龍が廊下を歩いていると、その前に女官長・江春が膝をついて現れた。そのような仰々しい現れ方は今の状況にそぐわないものがあり、それゆえ英龍はその足を止めた。
「何用だ」
「恐れ入ります。陛下、金昭儀が火急の件で拝謁したいとのことでございます」
そう言って頭を垂れる江春に、ややあって英龍は答えた。
「あい分かった。案内せよ」