1.惨劇のあと
荒ぶる天空の下、ことさら体格のいい葦毛の馬が全速力で駆けている。つぶてのごとき雨粒に打たれてもめげることなく、一直線にぬかるんだ道を駆けてゆく。
その背には二人の青年の姿があった。綱を握るのは袁仁威、そして背中から仁威の胴を必死で掴んでいるのは張温忠である。
馬を叱咤激励し、駆け出し当初からまったく速度を緩めさせることなく、仁威は楊家へと向かっている。ここまでする必要があるのかは分からない。今すぐそれほどの危機が迫っているのかどうか定かではない。
だが、仁威は決めたのだ。
楊珪己を必ず護る、と。
だから庇護の対象が無事であることを確認するまでは、仁威は全力でもってこの件にあたると決意していた。そして仁威の背に捕まる温忠の様子からしても、この判断と行動は過剰とは思っていない。
二人が楊家に着く頃には、雨はさらに激しさを増していた。どろどろと鳴る曇天からはいつまた雷が落ちてもおかしくはない。ここに来るまで面白いくらいに誰ともすれ違わなかった。人として最低限の危機感知能力を誰もが備えているからなのだろう。
馬がその足を止めるや否や、仁威は滑らかな動作で降り、次に馬上で震える温忠を抱えて地面に降ろした。地に足がついた瞬間、温忠がよろめいた。民間人ではありえないほどの速さで駆け続けてきて、今、温忠は仁威の家を訪れたときとは別の恐怖で体が震えている。雨に打たれ続けて体は芯から冷え切ってしまった。
「こ……ここが珪己の家ですか?」
「ああ」
返答を受け、何かに導かれるかのようにふらふらとした足取りで門をくぐろうとした温忠を、仁威が肩に手を置いて制した。
「袁殿……?」
「しっ」
仁威がその人差し指を自分の口にあてた。近衛軍第一隊隊長の鋭い視線に、温忠の動きが止まる。この短時間ですっかりやつれ果てた温忠と違って、仁威はいまだ平静を保ちその様子を変えていない。しばらく聴覚に集中していた仁威であったが、突如その眉をきゅっとひそめた。
「……先にこっちに行く。いいか、静かにゆっくりと歩け」
仁威が指差したのは、すぐ隣に立つ古い道場だった。
「どうして、ですか」
至極もっともな質問に、仁威は歩き出したその足を止めた。そしてこのうるさいほどの豪雨の中、やけに温忠に顔を近づけ小声で言った。
「こちらから誰かがうめく声が聞こえる。……この道場で何かが起こっている」
反射的に道場のほうを向いた温忠であったが、彼の耳には特異な音も声も何も聞こえなかった。仁威のほうを振り返ると、彼が深くうなずいたことが察せられた。こうして手を伸ばせば触れられる距離にいても、雨に煙り、お互いの姿を正確な情報として得ることはできなくなっているのだ。だが、かすかに見える仁威の双眸の強さ、そしてその瞳が語るひっ迫さは、このような悪天候の下でも減じることなく温忠まで届いた。
仁威はこれ以上は何も語ることなく、緩やかな、だが緻密な動作で道場へと近づいていった。温忠もあわてて仁威の動きを真似しながら後を追う。
音だけではなく、この泥でぐちゃぐちゃになった足元にも、仁威はすでにその証拠を見つけていた。この未成年を対象とした道場に通うにしては大きく深すぎる足跡が三人分ある。同じ数、逆向きの真新しい足跡もしっかりと残っている。
――訪問者、いや侵入者は三名。
そのどれもが武芸に秀でていると思われる体格の良い男たちだろう。
そしてもう、ここにはいない。
それでも扉の前で用心して耳をそばだてると、中からうんうんと唸る声が聞こえた。後からやってきた温忠も同じように耳をそばだて、今度こそはその声が聞こえたようで、仁威のほうにその青白い顔を向けた。
仁威は黙ってその驚きを示した顔に向かってうなずいた。そして一つ息をつくと、一気に扉を開けた。
ばーん! という音が響く。
残響の中、仁威がその身を道場内へと滑り込ませる。懐から出した懐剣を手に持ち、重心を落とし、右から左へ、全体像を知るために視線を動かしていく。だが予想通り、ここに敵意ある者の存在はなかった。
まず目に入ったのは鄭古亥の姿だ。道場の中央、気を失って倒れている。元近衛軍将軍の古亥が、ぼろ雑巾のようにその身を横たえている。何者かと戦い破れたことは全身の状態から明らかだった。だが、ざっと見て、命の危険はなさそうだと判断できた。呼吸が正しい律動をもって繰り返されているからだ。
次に道場の奥のほう、まだ子供というべき三人の少年がまとめて縛られ寝転がされていることに気づいた。三人は古亥と違って目に見える外傷はなく、まるでただ静かに寝ているかのようだった。こちらも生命にかかわる状態ではないと判断できる。
その三人から離れて奥の隅、同じく手足と口を縛られているが、唯一意識のある少年がいた。年のころは十五、六。楊珪己と同年代と思われるこの少年が、あの呻き声の当事者だ。
仁威が瞬時にそこまで観察し終えてようやく、背後で温忠が息を飲む気配がした。普通に暮らしていれば決して見ることのない惨劇であるから動揺して当然だろう。だが仁威は八年前のあの夏から、これよりもひどい状況ですら幾度も立ち会ってきたし、その元凶、つまり人を殺した経験も数え切れないくらいある。それゆえ、闘いの場において冷静に観察する力は概に養われていた。非人間的な能力ともいえるが、それなしでは武官は命を保つことなどできはしない。
仁威は警戒心を解くと、大股でこの少年――洪托に近づき、手足を拘束する縄を懐剣で断ち切った。すると浩托は自由になったばかりの両手で口を覆っていた布をはずし、次いで仁威にしがみついてきた。
「た、助けてください! お願いします助けてくださいっ……!」
仁威は興奮する浩托を落ち着かせるためにその肩を数回優しく叩いた。
「大丈夫、大丈夫だ。まずはきちんと話してくれないか」
そう言う仁威の表情や態度はひどく冷静で、それに気づいた浩托の息づかいも、激しいものから次第に自然なものへと戻っていった。その様子を観察していた仁威は頃合いを見て問い直した。
「……よし。では何が起こったのか順序だてて話してくれないか」
「あ、あなたは……?」
「俺は袁仁威という」
だが近衛軍の隊長であるとか武官であることまでは言わなかった。
「袁、さん……」
「昔、この道場に通っていたことがある。それに楊珪己のことも知っている」
その少女の名に、落ち着きを取り戻しかけていた浩托の肩が大きく跳ねた。
「そう、珪己! 珪己が連れていかれたんです!」
ほんのわずか、仁威の眉がぴくりと動いた。
「いつ、誰に?」
「異国の男です。三人でした! 奴ら突然現れて、あっという間にちび達や俺を捕まえて、師匠のことも負かして……。奴ら、珪己を探しにここに来たみたいで、三人のうちの一番偉そうな奴が、珪己が現れたらすごくうれしそうになって」
「その人、背が高くて瞳が青い方ですか?」
割り込んできた温忠に、浩托がこくこくと何度もうなずいてみせた。
「そうそう、そうです! 名前はイムルだって自分で言ってました!」
「やっぱり……」
温忠が唇を噛んだ。
「でもまさかここまで早く来るなんて……」
温忠の言葉を仁威が遮った。
「いや、今は悔いている場合ではない。で、楊珪己はその異国人に連れていかれたんだな。それはいつだ?」
少し考えて浩托が答えた。
「半刻ほど前です」
「張温忠、どこに連れていかれたかは分かるな?」
「は、はい。たぶん芯国の大使館だと思います。今、王子は大使館に駐在していて、僕は昼前にそこで王子とお会いしました」
「……え? 王子ってなんですか?」
当然の疑問を口にする浩托に、しかし誰も答えなかった。
仁威が決意した表情で浩托に向いた。
「よし、では他の人間のことはお前に任せる。張温忠、俺たちはその大使館へと行くぞ」
立ち上がり迷いなく扉のほうへと歩きかけた仁威の腕を、温忠がとっさに掴んだ。
「だめです! 行ったらだめです……!」
あれほど必死の面持ちで助けを乞うてきた温忠が、今は全力で仁威を止めようとしている。それに仁威が片方の眉をあげた。
「行かなくては助けることができないだろう」
そこに浩托も割り込んできた。
「そうです! 珪己はその王子って奴にえらい気に入られちゃってたから、早く助けないと汚されてしまう!」
温忠と仁威がその少年の発言にさっと振り向いた。二人にじっと見つめられ、浩托はまだ言っていなかった重大な事実を、友である珪己のために言わずにいたことを苦しげに白状した。
「……あいつ、珪己の唇を奪ったんです」
浩托を見つめる二人の目が見開かれた。
「あいつ、すげえうれしそうにずっとそればっかりやってた。それで最後にものすごく物欲しそうな顔をして珪己の体を眺めて、それから担ぎ上げて出ていったんだ……!」
より一層青ざめた温忠が、悲しげにその頭を抱えた。
「ああ、王子は珪己を運命の相手だと確信してしまったんだ……」
その言葉を黙って聞く仁威の顔色も幾分青白くなっている。だがすぐに元の表情を取り戻した。
「であれば余計に急がなくてはなるまい」
すると温忠はさらなる力を込めて仁威の腕を掴んだ。
「だめですだめです! 公館の中は特別で、その国の法律で治められることが認められているんです。だから湖国の人間は入ってはいけないんです。許可のない他国人の侵入者は即逮捕されますし、その場で殺されてもおかしくないんですよ?」
「ではなぜ俺に助けを求めた」
その一言に、虚を突かれた温忠の手の力が緩んだ。
「……すみません」
一瞬の静寂の後、それでも善なる心が温忠の顔を上げさせた。
「でもあそこはほんとうに危険なんです! この国の皇族ですら入ることの許されない領域なんですよ……!」
すると仁威が懐から文を取り出した。ここに来る前、急ぎでしたためていた文だ。濡れないように油紙で包まれたそれを温忠に無言で突き出す。温忠はおずおずとそれを受け取った。その油紙の下、触ると文だけではなく、何か小石のような丸くて硬い物が同封されていることが分かった。
はっとした温忠がその顔を上げると、仁威は無言でうなずいた。その表情は覚悟をした者だけが有する気迫に満ちていた。