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4.幸せをあきらめるな

 その瞬間、隼平がずいっと侑生に近づいた。その顔は侑生に触れそうなくらいに近い。


「いいや、違う!」


 常にない語気の荒さに、天井のほうを見やっていた侑生は隼平に視線をおろした。見ると、隼平は涙で充血した目で侑生を強く見つめていた。その射抜くような瞳は、まるで侑生が故意に封印してきた何かを暴かんとするようだった。


「いいか、人はいくらでも変われる。変わりたいと思った瞬間から変われるんだ!」

「そんなことはない。私はずっとこうして生きてきた。これからもきっとそうだ……」

「いいや違う! 絶対に違う! いいか、お前には幸せになる権利がある。誰にだってそういう権利がある。だがな、それには変わる勇気が必要なんだ。お前自身が変わらなくちゃ、幸せになることなんてできないぞ!」


 隼平の言葉が侑生を袋小路へと追い込んでいく。幸せを得たいのであれば変われと言う。だが、変わる、このたった一つの言葉がどれほどに重いものか。そもそも変わることでこの罪から逃げたくはないのだ。このまま罰にひれ伏していたいのだ。己の過去の行動は間違いなく悪であるし、それ以外に罪の償い方を知らないのだから。……罪に溺れている方が楽だから。


 だが隼平は侑生の怠惰な心も看破して言い募った。


「楽な方に逃げるな、楽な方に逃げるんじゃない! そうやってあきらめて、分かりやすい方法ばかり選んで、それで幸せになれるわけがないじゃないか! 人を愛するって、人と繋がるって、そんな楽してできることじゃないだろ!」


 肩で息をする隼平と、侑生はしばらく見つめ合った。こんなふうに誰かに叱咤されるのはいつ以来だろう、こんなふうに真剣に自分を想ってくれる人と見つめ合うのはいつ以来だろう、と考えながら。


(――ああそうだ)


 一昨日、宴の場で同じような瞳の色で自分を見つめてくれた人のことを侑生は思い出した。その人、玄徳は、侑生の前でそっと扇子を開き、その涙を周囲に見られないように気遣ってくれたではないか……。


 すると条件反射のように、あの皇族の闇色の声が侑生の脳裏に再生された。



『君の不手際は上司である楊枢密使の不手際ともなる。君にできることはその恋を捨てることだけだ――』


『楊枢密使の不手際となる――』


『君にできることはその恋を捨てることだけだ――』



 隼平の真心が通じるからこそ、同じ瞳の色で自分を見つめてくれた玄徳の尊さが分かってしまう。


「……私は玄徳様のことも大切なんだ。玄徳様にもしものことがあると想像するだけで、私は動けなくなる……」


 侑生の言葉は即座に隼平によって遮られた。


「おい! いい加減にしろよっ!」


 激情のままに、隼平がその拳で直接座る床を思い切り強く叩いた。


「そうやって過去に縛られている人間が幸せを掴めるはずがないだろうっ!」


 侑生がはっとした表情で隼平を見ると、隼平は一度ためらうように口を結び、そしてうなずいた。


「……ああ、俺はお前の過去を知っている。お前と楊枢密使のこと、八年前のことをな」

「な、なぜ……」

「楊枢密使から聞いた」

「玄徳様から?」

「そうだ。枢密院事への昇進を告げられたときに、良季も一緒にな。……それがなぜだか分かるか?」


 さらに強い視線で見つめられ、侑生が何も言えないでいると、隼平が続けた。


「お前に自分の人生を生きてほしいからだよ。罪や罰のために生きようとするお前を放っておけないからだよ。それは楊枢密使が被害者でお前が加害者だからとか、二人が上司と部下という関係だからじゃないよ。楊枢密使にとってお前は大切な人になっているからだよ。大切な人には幸せになってほしい、そう思うものだろう?」


 語る隼平もまた、自分にとって大切な人のことを思い出していた。


 つるりとした頭と日に焼けたそばかすだらけの顔。けっして美しい人ではなかったけれど、その人はいつでもほほ笑んでいた。空腹に行き倒れていた幼き日の隼平に、「共に来い」、そう言って差し出してくれたあの人の手の温もり……。どれも忘れたことは一度たりとてない。


 玄徳は隼平と良季に侑生の過去を語った。それは枢密院事として、枢密副使となる侑生に嘘偽りのない忠誠を誓うために必要なことだった。だが侑生の過去を聞き、それを語る玄徳に触れ、隼平はそれとは別のことを思ったのだった。


 玄徳は侑生を救いたいと願っている。大切だと思うからこそ、侑生を自分から解放したいと思っている。そのためには侑生に己自身の価値を信じさせたいとも考えている。だからこその二十代半ばでの枢密副使、紫袍の上級官吏への昇格なのではないか。だからこその隼平と良季、二人揃っての枢密院事なのではないか。


(……ああ、俺も大切な人を大切に扱いたかった)


 そう隼平は思い、もう叶わない願いだからこそ玄徳の代わりにそれを請け負ってみようと決心したのだ。


 そして枢密院事として侑生と接するうちに、隼平はこの青年に自分を見るようになっていった。さらには玄徳が侑生を見る優しいまなざしにその人――ぼうを反映するようになっていった。それは嫉妬のようだが、どちらかというと羨望、いや郷愁だろう。きっとこんなふうに呉坊は自分のことを見守っていてくれていたのではないか、そう想像してしまう自分がいた。


 だからこそ、今のような侑生にこそ、その心に素直に従って動いてほしいと切に願う。きっと呉坊ならそう思うはずだから。


『――だがな、生きることも死ぬことも同じだよ。どちらも同じなんだ。食べようが食べまいがかまわないと思うこと、それがお前の中にもきっとある。……なあ、お前にもいつかそれが分かるといいな』


 その答えは、呉坊に問答をされたあの夜にすでに分かっていた。星々の輝く夜空の下、呉坊に抱きしめられた瞬間、幼い隼平にも分かってしまった。


 それは『大切な人を幸せにする』ということだ。


 それからの隼平は呉坊の笑顔が曇ることのないよう、いつでも笑っていられるようにがむしゃらに働いた。それでも生活がひっ迫する寺のため、隼平は文官となることを決意した。あの頃の自分は幸せだった。大切な人のために生きた日々はかけがえのない宝であり、辛いことは何一つなかった。


 辛い出来事が一切ない世界――それこそが生きるうえでもっとも喜ばしい状況、つまり幸せというものではないだろうか。


 呉坊は死んでしまったが、あの日、夕暮れに染まる湖を前に良季が説いたように、呉坊はこの胸の中にいると隼平は信じている。なぜなら隼平の言葉一つ動作一つに呉坊の意志や信心をあらわすことができるからだ。


 呉坊の言葉は今でも残らず思い出せる。


『生きることも死ぬことも同じだよ。どちらも同じなんだ――』


 だからこそ、隼平は侑生にこう言いたいのだ。


「お前が幸せになることで楊枢密使が不幸になることなんてない。決してないから……だからお前は自分の幸せを、その愛をあきらめるな」


 その瞬間、昨日の今日で侑生の涙腺はいともたやすく決壊した。限界まで耐えていた涙が、その涼しげな瞳からこぼれ出す。美麗なその顔が涙で濡れ、やがてくしゃくしゃになった。


「ううう、うう……」


 嗚咽を漏らす侑生の肩に、隼平はそっと触れ、そして指先に力を込めた。


「……泣け泣け。だけどな、たくさん泣いてすっきりしたらすぐに楊家に行くぞ。後宮に連れていかれる前に珪己ちゃんを奪いに行くぞ。分かったな?」


 その温もりに満ちた言葉に、侑生は泣きながらもこくこくとうなずいた。ただうなずくことしかできなかった。





 あらかじめこうなることを予想していたのか、またはそうなってほしいと望んでいたのか。


 隼平の機転により、宿場の外にはすでに馬車が待機していた。隼平と侑生が乗り込むと、馬車は雨に煙る人通りのない道を走り出した。


 かなりの速度を出しているせいで、わだちが幾度も固い石に乗り上げてそのたびに馬車が跳ねた。それでも御者は減速することなく馬を走らせ続けた。金銭さえ払えば大方の御者は命じられたとおりに動く。その揺れる馬車の中、侑生がやや言葉を濁しながらたずねた。


「その……隼平が言っていた大切な人というのは誰なんだ?」

「ああ、俺? お坊さんだよ」

「坊さん?」

「そ。女のお坊さん」

「……女?」

「あ、いや違うぞ! お坊さんに手を出したわけじゃないぞ!」


 大きな隼平の体が、馬車が石に乗り上げるたびにぐらぐらと揺れている。はわわわ、とへりを掴みながら、それでももう一方の手を否定するために顔の前で左右に振った。


「俺、いわゆる浮浪者、捨て子だったんだ。で、そのお坊さんに拾ってもらって、ここに来るまでは寺で暮らしてたってわけ」

「……そうなのか」

「そうなんだよ。ていうか、侑生ってほんと部下のこと何にも知らないよな」


 だがそう言った隼平はにかっと笑った。


「俺、お前のそういうところ好きだよ。俺の素性とか過去とかに関係なくさ、今の俺を評価してくれるお前が好き」


 それは実際そのとおりで、侑生は自分の過去のことがあるがゆえに、他人をその過去を通して評価したいとは思わなくなっていた。生まれや育ちは自分ではどうしようもないことだ。それらをもって人をふるいにかけるということは、生まれながらに人の上下が定められているということになる。だが侑生は、今と、そして未来を通してその人を見る。それは罪を背負う自分を肯定したいと願う無意識のあらわれでもあった。


 侑生は指摘され、しかし自分の奥底にあるその不埒な願いにまでは気づかず、ただ面はゆい気持ちになっただけだった。


 隼平は――侑生のその願いに前から気づいている。そして気づけばより一層この年若い上司を好きになったのだった。


「……なあ、俺の話聞いてくれる? 俺と呉坊さん、それに良季の話」


 見れば隼平の目はひどく優しい光を含んでいた。


「俺が覚えている一番昔の記憶は、いつも腹が減ってたってことなんだ――」

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