3.自分で自分が嫌になる
雨に濡れるからいやだとごねる女を、侑生は無理やり部屋から追い出した。
「早く帰らないと。これからもっと雨は激しくなるよ」
言葉だけは思いやりのありそうな男を演じて。
女がいなくなると、けっして広くはないこの部屋――逢引きのための宿坊の一室――がようやく静かになった。心の通う兆しのないただの他人と共にいるには、この部屋は狭すぎた。
静かになった分、薄く開いた窓の方、雨音が耳につくようになった。ざざざ、ざざざ、と何かを凪ぐような音が聞こえる。侑生が女に言ったことは真実となった。
単衣だけを纏い、窓際に腰を降ろし、隙間から外を眺める。曇天と雨と、他に意味のありそうなものは何も見えなかった。ただただ雨が降り続いているだけだ。
知らず、ふうっとため息がでた。
昨夜の残り酒を杯に注いで、侑生は一気にあおった。
今夜、楊珪己は華殿に入る。
かりそめの女官として、そして皇帝の妃候補として――。
あと数刻で楊珪己はこの世から消えうせるのだ。侑生のいたこの世界から消え、華殿の奥、後宮へと閉じ込められるのだ。そしておそらく、一生そこから出ることはないだろう。これからはその少女の姿を見ることもできないだろう。偶然、ほんの少し、遠くから、どこかへとでかける彼女の横顔を眺めるだけなのだろう。
その視線の先に自分がいることは――ない。
これから半月は雨が続く。それが侑生にはうれしかった。雨の季節、珪己が東宮へ招かれることはないだろうから。後宮と東宮の間の石橋は大きな曲線を持って池の上に掛けられているのだが、雨に濡れると滑りやすくなるという欠点がある。そのため、妃候補である重要な女人を召す初夜として、この時期は不適切なのだ。
だが雨がやみ、夏が訪れれば――。
星々のまたたく夜空の下、美しく装った珪己が石橋を渡る姿が思い起こされ――。
気づけば、侑生は握りしめていた杯を力任せに壁に投げつけていた。
杯は見事に砕けた。鋭利な白い破片があたりに散らばる。
高ぶる内面を抑え、大きく息をする。
そしてまた侑生は外を眺めた。景色はなんら変わっていない。
今日はこのまま陽が落ちることに気づかず、いつの間にか夜になっていることだろう。
(その方がいい。今日だけはその方がいい……)
と、窓の真逆の位置にある戸のほう、どたどたと騒がしい足音が聞こえだしたかと思うと、その主がこの室の前で立ち止まり、そして無遠慮に戸が開かれた。
侑生が顔を向けると、そこには呉隼平の姿があった。
「……何しに来たんだ」
足音と気配と状況から、その姿を見る前から正体は予測できていた。なので侑生の表情には驚きは一切見られず、ただ不快さだけがあった。
「上司の休日を邪魔しないでくれるか」
「こういうときまで上司づらすんな。心配だから来たんだよ。決まってるだろうが」
隼平は室に入ると、侑生の目の前にどかっと胡坐をかいて座った。その心根が真実だからこそ、今の侑生にはうっとうしく思えてしまう。
すっと目をそらし、侑生はまた外を見やった。
「……心配なんてしなくていい」
「俺が勝手に心配してるだけだ。迷惑か?」
「迷惑だ」
「そりゃあすまない。だが心配だから俺はここにいるぞ」
侑生は何も言わず、その顔を窓のほうへと向けている。隼平はそんな侑生の横顔をじっと睨むように見つめた。
「……行かなくていいのか」
侑生は答えない。
「会いたくないのか」
微動だにしない。
「このまま二度と会えなくてもいいのか」
何ら反応を見せない侑生に、隼平がいきり立った。
「おい、聞いてんのか!」
それでも侑生は外を見つめ続けている。かたくなに心を閉ざしている。
たまらず隼平は侑生の腕を掴んだ。
「なあ、本当にいいのか。せめて気持ちだけでも伝えたほうがいいんじゃないか? うまくいくかどうかは俺にも分からないけどさ、でもそうやって何も言わずにさよならするほうが絶対辛いから。あとでしんどいから。……俺もさ、言いたいことを言わずに別れてしまった人が、いて」
最後の方の声音は明らかに普段の隼平とは違っていた。
侑生がゆっくりと顔を向けると、隼平はそれだけでひどくほっとした顔になった。それは隼平らしい柔らかな表情で、しかしやや泣きそうになっていた。隼平自身、思いもしなかった感情の高まりに戸惑いつつも、一つ一つ、これまで胸の内にずっとしまっていた思いを吐き出していった。
「……俺、ずっと後悔してるんだ。今でも後悔してる。きっとずっと、このまま一生後悔しながら生き続けるんだろうなって、そう思う。……いつでも、言おうと思えば言えたんだ。いつでも言おうと思えば言えたんだ。その機会はいくらでもあったんだ。だけど俺は言わなかった。自分の気持ちをきちんと言うのって恥ずかしいじゃん。けどさ、俺、当たり前のことに気づいていなかったんだ……」
泣き笑いのまま隼平は続けた。
「言わないかぎり、その人は俺の気持ちを知ることはないし、いつ何が起きるかなんて誰にも分からないってこと。そんな当たり前のことに気づいていなかったんだ……」
隼平の瞳からつうっと涙がこぼれ落ちた。大の男が涙を流す姿は、だからこそ隼平の真摯な心をあらわしている。
いつの間にか、侑生も素直な心で隼平と向かい合っていた。侑生の目にもまた涙が溢れていた。
「私もそうだ……。私も隼平と同じだよ。何も分かっていなかった……」
隼平が乱暴に腕で顔ごと涙をぬぐった。
「だけど俺がこうして来て、そんで教えてやっただろう? だから侑生、もうお前には分かっているはずだ。そうだろう? だったら何をすべきかも分かるだろう?」
「何をすべきか……それは分からない」
小さくかぶりを振った侑生に、隼平が語気荒く迫った。
「いいや、分かっているはずだ! お前は楊珪己を愛している。そうだろう?!」
直接的なその表現に、侑生がやや動揺した。が、それも一瞬のことだった。
「愛だけではどうにもならない。珪己殿は陛下の……皇帝陛下の妃になるかもしれないんだ」
今まで誰にも言えていなかったその驚くべき事実に、だが隼平は一切動揺しなかった。
「なんで? そんなのどうにでもなるだろ」
「そんな……? 相手は陛下なんだぞ」
「おいおい、思い出せって。世間には彼女はお前の恋人だっていうことで周知されているんだぞ。陛下がまた官吏の恋人を奪おうとしている、そんな醜聞が広まるくらいなら、お前から彼女を奪うことは断念するはずだ。お前は賢い奴だ、もっと頭を使えよ? 今のこの状況から挽回する方法はいくらでもあるはずだよ。こんなところでくすぶっていても何の解決にもならないじゃないか」
「……だが珪己殿は私のことを望んでいない」
隼平はずっと気になっていたことを恐る恐る問うた。
「もしかしてあの夜……珪己ちゃんに気持ちを伝えたのか?」
「いや、伝えようとして伝えられなかった。……自業自得だ。これまでの私の行いが、もう彼女にこの気持ちを信じさせることができないんだ」
零れ落ちそうになる涙に、侑生がくっとその顎をあげた。
「今だってそうだよ。私はこういう人間なんだ。自分で自分が嫌になる……」