2.他人のための強い願い
椅子の上、良季がやや前のめりになった。清照との距離が近づく。
「この初春以前と以降では侑生の様子に変化はありましたか」
尋問するような調子に、清照もつられて答えていく。
「そうね……梅の花が散りきってしまう頃、一時期、全然家に帰ってこなかったことはあったわよ。で、桜のつぼみがふくらみ始めた頃からは、落ち着きがなくなってたわね」
普段感情を表に出さない侑生の機微を見抜けるのは、清照が姉である所以だ。
「でも原因は分かってるのよ。それは珪己ちゃんに恋をしたからなの」
「清照殿は珪己殿のことをご存じか」
「ご存じもなにも、珪己ちゃんに女官としてのふるまいや化粧の仕方なんかを教えたのはこの私よ。田舎から出てきたせいか、珪己ちゃんたらそういうこと全然知らなくって。だから教えがいがあったわあ。うちに泊まり込みで、侑生もつきっきりで宮城のことを一から教えてあげてたんだから」
「……それで?」
「それで珪己ちゃんは後宮で女官勤めをはじめたんだけど、なんと一週間でやめちゃったの。でも仕方ないのよ。皇帝陛下に見初められちゃったんだから。あ、それくらいは良季さんも知っているでしょう?」
「……ええ」
「侑生は珪己ちゃんとの愛を守りきったのよ。後宮を出てからは、二人ともしばらくは仲良くやっていたのよ」
「しばらく、というのは?」
「一か月くらいかしら。その間、侑生はあなたのいう夜遊びをまったくしなかったもの。侑生もいい意味で喜怒哀楽がでてきて、なんていうか、青春してますって感じで我が弟ながらきらきらしてたわよ」
良季が相槌をうちながら続きをうながすと、清照のほうでも熱が入ってきたようで、より饒舌になっていった。
「私、あの頃の侑生が好きだったわ。年相応に人生を楽しんでいるって感じの侑生が……。あの子、『天子門正』じゃない? でもね、科挙の受験勉強をしたのはたったの一年なのよ、一年! それで天子門正ってすごくない? 我が弟ながら驚いたもの。……でも試験までの期間、侑生はずっと何かにおびえているようだった。勉強をしない時間はほとんどなかったし寝食すら惜しんで……」
清照の長い睫が伏せられた。
「そんな思いをしてまで文官になって、でもそれからも全然幸せそうじゃなかった。せっぱつまったような顔をして必死でね。それに夜遊びが頻繁になったのは文官になってからなのよね……。まあでも、戻ってきたら少しはいい顔になってたから、侑生にとってはそれが鬱屈を発散する手段なんだろうなって思ってたの」
清照の洞察はあながち間違ってはいない。良季は清照の話に耳を傾けながら、玄徳から聞いた侑生の過去の話――楊武襲撃事変について思い起こしていた。良季の知るかぎり、李侑生という青年は清照の語るとおりの人間だった。
枢密院で働くこと、罪を感じる楊玄徳のそばで期待に応えること、いつでも侑生はそれのみに注力している。少しでも言動を誤ると、その目の奥が悲壮感に暗く染まることに気づいたのはいつからだろう。しかしたとえ完璧に仕事をこなしたとしても、続けていくうちに、やはり瞳は暗くかげっていくのだ。その闇の色が薄まるときもあることにはあった。だが次第次第に濃くなっていくのは定められている宿命のごとくだった。
早くに仕事を終えて退城する侑生の背中を、良季は何度も黙って見送ってきた。そういうときの侑生は、まるで決死の覚悟で闘いへと挑もうとする戦士のようだったから。そして翌日には、侑生が何かしらを打ち負かして戻ってくるのも常だった。闇を葬り、かりそめの光を取り戻して――。
だがそのようなこと、人が生き続けるための最適な手段であるわけがない。
それは良季にも薄々察しがついていた。不特定多数の人を乞うことで己を保つなど、尋常な精神状態ではない。
だが、肉欲に溺れてしまう病もあるというが、侑生の場合はもっと深淵が複雑なようだった。兄貴分として単純に諭してどうこうなるとは到底思えなかった。罪一つで変わってしまった、いや、変わらざるを得なかった侑生の弱さが招いた闇なのか……。
背負う罪を克服することも無視することもできない侑生。その逃げ道のない人生が、悲しいかな、同じように罪を抱える良季には理解できてしまう。仕方ないのだ。他に道はないのだから。なぜ人を乞うてしまうのか、根本的な理由は分からない。だがそれで生の道に戻り罪を背負い直せるのであれば、十分に価値はある。
それに、人を乞うことをやめて、それで侑生はこの先どうやって己を保つことができるのか。代替策もない。
真の救いを与えることもできないのに、侑生を今いる泥沼から連れ出す権利は、良季にはないように思えていて、だからこそ今まで隼平とともに黙って見過ごしてきたのであった。
だが楊珪己と語らうことで愛を知り、一時でもそのような悪癖がなくなっていたのだとしたら――。
ここにきて良季はあらためて思った。この上司の愛を成就させたい……と。この上司のためにどんなことをしてでも愛を紡がせてあげたい……と。
そう強く思った。
それは遠く離れた故郷での、あの夕暮れの湖を前にしたとき以来の、他人のための強い願いだった。
「――あ、そういえば、半刻前かな。もう一人の枢密院事も来たのよ。侑生に会いに」
「それは呉隼平ですか?」
「あらごめんなさい。名前は聞いてないから分からないの。良季さんと同い年くらいの人よ」
「そしてやけににやついた顔をした恰幅のある男ですよね」
凛々しい顔から発せられた罵詈雑言に、清照が吹き出した。
「うんそう。そんな人よ」
「で、隼平は?」
「昨日から帰っていないって説明したら、真面目な顔して『分かりました』って言って、止める間もなくすぐ出て行っちゃったの」
「……そうですか」
「今頃雨に打たれていないといいんだけどね……」
清照が視線を窓のほうへとやった。外では薄灰色の空の下、絶えることなく雨が降っている。見るからに、そして音を聞くからに、雨の激しさが分かる。
「で、お二人は侑生にどんな御用で?」
清照の問いはもっともで、今日は休日、それに部下の二人が李家を訪問するのはこれが初めてのことであった。であれば何かしら特別な事情があると推測されても不思議ではない。
「申し訳ありませんが任務に関わることですので」
良季が頭を下げた。だがその拒絶は清照の予想するもので、だからまったく気にならなかった。
「まあいいわ。じゃあ好きなだけここにいるといいいわ。あんまり遅くなるようなら夕餉も用意させるから」
「かたじけない」
「もっとお茶を飲む? それともお菓子でもどう?」
「いえ、もうけっこうです」
「そう? 何かほしいものがあったら家人に言いつけてね。じゃ、私はそろそろ」
清照が立ちあがった。その手が机に置かれ、それによって、良季はその爪の先が墨によって黒く染まっていることに気づいた。
「何か書き物をされているのですか?」
清照は質問の意図をはかり、良季の視線の先にある自分の指を見た。
次に顔を上げた清照は自信に満ち溢れた表情になっていた。
「ええ。詩を書いているの」
「ほお。詩を」
女人が詩を書く。
良季は科挙の試験のために読み込んだ数々の慇懃な詩を思い起こしてみた。だが、それらはどうもこの目の前の艶やかな女性の行為とは一致しなかった。詩とは国や自然を賛美するもので、どれだけ仰々しい比喩を使いこなせるか、激しく歌い上げられるかが重要視される。そのため、著名な詩人には男しかいない。詩とは男の住む世界を言葉で表す行為ともいえた。
興味がわいた。
「よかったらいくつか読ませてもらっても?」
おそらくまだ時間は腐るほどある。良季はここへは何も持ってきておらず、ちょうど何か書物を拝借したいと願い出るつもりでいた。
すると、清照がその顔をぱっと輝かせ、花開いたかのような満面の笑みになった。
「ええ! 私、今度詩集を出すのよ。ぜひそれを読んで!」