七賢人の力
「おいカズー。こっちは任せたよー。うち、あっち側の進み具合見てくるからー」
「りょーかいっす、会長。いってらっさい」
我らが北山高等学校生徒会長さまの華麗に走り去る後姿を見届けたのち、おれは年度初めの大掃除で集められたゴミの山に向き直った。
「よっし。じゃあさっさとこれ収集場に突っこんで帰るぞ、瑞樹」
そういってシャツの腕を捲り上げながら相方の名前を呼ぶ。
「そうね。早くやっちゃいましょ」
頼もしい返事をしながらおれの隣でよしと片づけに意気込んでくれているのは木崎瑞樹。成績優秀、評判上々、眉目秀麗、早くも次期生徒会長候補の筆頭となっている人物である。名前こそまんま日本人風だがどこかの国の父親と、日本人の母親を持つハーフだという。婿養子に来た日本大好きな親父さんが頑として純日本人っぽい名前をつけたいと譲らなかったという。
そんなわけで、この木崎瑞樹は名前と外見がかけ離れているということもあって、入学当時の担任は名簿に不備があったのではないかと職員室に駆け込みかけた次第である。
手入れの行き届いた金色の髪は一本一本が日の下では眩いまでの光を放つだけでなく、目に入るものを片っ端から魅了する。容姿もこれまた、そこいらのモデル顔負けと言った感じで大きなスカイブルーの瞳に小さく収まった顔に、日本人よりもやや高くそびえる鼻は顔の中心で行儀よく鎮座している。
「はいはい。次、行くよー!」
「あいよっと!」
とまぁ、外見をこうして説明してみると大人しくて、とっつきにくいお嬢様をイメージしてしまいがちなのだが、これがどうやら素の彼女と言ったところである。男勝り、とまではいかないものの豪胆で豪快な性格をしている。全く、どういった環境で育ったらこの外見でこの性格が出来上がるのやら。大量に消費財の詰まったゴミ袋を浮遊魔術で矢継ぎ早に、かつ可憐にパスしてくる美女と言う絵面はどこの世界を探してもお目に掛かれるものではないだろう。
まず手始めに、収集箱から取り出す作業から始まる。体育館裏のピロティ―に設置された巨大な箱の中には無数のゴミ袋が種類別に区切られて鎮座している。その暑苦しさと言ったら夏場のおしくら饅頭の如し。
これが置かれている理由としては、集めたごみ袋をカラスが悪戯すると面倒云々ということらしいが、この際どうでもいいことなので割愛。
愚痴を言っていても仕方がないので高速で飛んでくるゴミ袋の勢いをこちらも魔術で相殺し、かつ袋を傷めないように次々に足元に転がしていく。
「不燃ラスト!」
威勢の良い声と共に第一陣最後の袋を地面に置いたところで、瑞樹は満足した様子で木造蒸し風呂ボックスから顔を出してきた。
「やっぱりさすがね、カズ。お見事!」
汗一滴垂らすことなく手をぱちぱちと叩く瑞樹。
「これぐらいでバテるかっての」
本気の賞賛のつもりなのだろうが、素直に受け取ることなくいつものようなやり取りを繰り返す。
「ふーん。書記の二宮くんなんか不燃ごみ四袋も軽めに投げたら音を上げちゃったけどね」
「お前の軽めは一般的には軽い部類には入らねーよ」
同期の生徒会役員の不幸を心から悼みながら地面に転がっているゴミ袋の半分をひとまとめに浮かび上がらせる。
「さて、処分場いくぞ」
「はーい」
くるりと振り返り残りの半分を瑞樹が同様に浮遊させる。
学校中から集まったゴミ袋を背におれたちは処分場まで歩き出した。
カズ、というのはおれの略称である。本名は小野軒和仁名前の一部を取ってカズというわけだ。分かりやすく覚えやすいニックネームと言うこともあっておれをこの名前で呼ぶ生徒が大多数を占めている。まぁ、呼び方なんてものは人それぞれで大体はパターン化されているし、この呼び方もその一つだろう
「あ、ニョッキ!」
とはいえ、人間一人一人思考は異なるもので。中にはそのオリジナリティーが溢れすぎてもはや手に負えないほどの呼び方を考えるものもいるわけで。
「成宮か。こんなとこでなにやってんの」
お世辞にも年相応とは呼べないほどのミニチュア人間、高校二年生に進級した今でも時たま児童と見間違われるという逸話が残っている。我が校きってのユニークオプションを持ち合わせている人物がおれを視界にとらえると、いかにもダルそうに近寄ってきた。
「まぁ聞いてくれよ。酷いんだよ、うちの委員長。今日は担当の先生から飲み物の差し入れを頂いてるから終わったら配るねとか、言っておきながら冷やすの忘れてるんですよー」
おれの肩に手を置き、悪代官のように微笑んだ彼女は何とも情けない声を春の空に向かって響かせた。
「とかいいつつサボってるんじゃねーよな」
「え、いやそんなまさか。冷やしてあげるからその間に見回りしてきてねとか言われてないから!」
「飲み物冷やして間に見回りして来いって言われたんだな」
はっと我に返る成宮だが時すでに遅し。
「ゆ、誘導尋問じゃない!」
「勝手にしゃべっておいてよくもまぁ。よし、風紀委員長にでもチクっておくか」
「はぁぁぁぁ!!勘弁して!それだけは勘弁してください!あ、そうだ、それ重いでしょ!手伝う!見回りのついでだし、手伝ってあげる!」
まるでジェットコースターにでも乗っているかのように乱高下する成宮美鈴のテンション。魔術の腕は確かなのだが落ち着きがなく、他の所でサボり癖があるようで委員長も彼女の処遇には頭を悩ませているらしい。
で・・・。
「ありがとう。スズちゃん」
「いやいや私も風紀委員の端くれだし。こんな重いものを運ばされている女の子を放ってはおけないよ」
瑞樹のもとへと駆け寄り、紙ごみ袋の半分を持ち上げながらおれの様子をチラリと見てきた。
まだ平らな胸をえっへんとはる成宮はどうやら反撃の瞬間を今か今かと伺っているようだ。背格好は小さくても、精神的なものはやはり年相応といったところか。寝首を掻かれないように注意しておかねば。事実、こいつの成績は隣を歩いている瑞樹に次ぐ化物ぶりだし。
「そうそう、瑞樹。駅前に新しいアイスクリーム屋さんができたの知ってる?」
会話からはそこいらの女子高生と遜色ない気配が漂っているが、この二人に勉強で太刀打ちできる者はほとんどいなかったりする。おれたちの学校は男子763人、女子767人。全校生徒は1530人という公立高校としては大規模なものとなっている。おれたちの学年は500人程度がいるのだが、入学当初の試験から上位数人は順位こそ入れ替われど、メンバーが入れ替わったことが一度もないとのこと。その人数はわずか8人。詰まるところ、この二人は国内の屈指の魔術学校のなかのエリート中のエリートというわけである。
両者の扱いはかなり対照的なものではあるが・・・。
「どうしたのよ。そんなにぼうっとして?」
「あぁ、わりぃ」
「どうせ大方テストの出来でも反省してたんでしょ」
背中越しに図星をつきながら瑞樹はクスクスと笑う。
「今回のは難しかったから、点数どうこう気にすることはないと思うよ」
と若干の幼声で成宮は励ましてくれるが、この二人にそんなことを言われてもちっとも気分は晴れない。
「うっせーよ。平均点90点超えの超優等生どもが」
「あ、拗ねた」
「拗ねたね」
悪態をついてみるがなんのその。どこ吹く風と言った様子で二人は楽しそうな声を上げている。
枝を賑わしていた桜の花びらもすっかり散り落ちた今週末。その代わりに校内を賑わすように入ってきた新入生。この学校が始まって以来、幾度となく繰り返された日常もおれたち二年生にとっては初めての光景である。
「委員長お疲れ様です」
「い、委員長!飲み物は冷えましたか!」
「お疲れです」
ゴミ捨て場が正面にちらつき始めた頃、横に並ぶように歩幅を合わせてきた一際大きな影。部活の代わりに地元の道場に通いつつ鍛え上げられた体に余分な脂肪はついていない。他の部活動生と並ぶまでもなくガッチリした体躯と清潔感マックスのピカピカ白ワイシャツから存在感を露わにする日に焼けた筋骨隆々の腕が白と黒のコントラストを不自然なまでにきっかりと決めている。
「や、みんな。お疲れさま。探したぞ、成宮」
図体に合わない爽やかな声をかけながら姿を現したのは北山高等学校現風紀委員長、山国慶一郎だった。
足を止める二人を置いておれと瑞樹はひとまずゴミ袋の処理へ。
「いや、成宮一人でいかせて心配だったんだが余計な心配だったようだね」
成宮の頭をわしわしと掻きながら後輩の成長を喜んで頷く、委員長。
それと喉元を撫でられる猫のように心地よさげな表情をした成宮美鈴。
「いや、助かりましたよ。成宮、一人でいたんですけど、これ運ぶの手伝ってくれて。校内巡視のついでだからって快く引き受けてくれました」
一人での部分を少し強調したが人のいいこの先輩には伝わらなかったらしい。
・・・。
成宮は瞬間的に体をこわばらせたような感じがしたのは気のせいではないだろう。
隣に並んだおれを、恐れるような目つきで観察している。
「貸し一つ。駅前のアイス、シングルな」
「なっ!?」
耳元で囁くと悲鳴にも近い声を上げるが、先輩はにこにこと笑みを浮かべている。
「じゃ、用事終わったらさっさと帰れよー。なんか最近物騒らしいからな」
離れ際に500ミリリットルのボトルジュースを放り投げ、校舎の方へと先輩は姿を消した。
受け取ったボトルを急いでこじ開け、半分近くを一気に飲み干す成宮に瑞樹も若干ながら困惑の色を浮かべている。
ぷはっとキャップを閉じ、ペットボトルをやたら強引に投げつけてきた。どうやらこれでさっきの件は手を打てとのことらしい。
が、お生憎様。その交渉はどうやっても成立しないのである。放物線を描くように投げ返す。
「悪いな。おれ、コーラ飲めねぇんだわ」
本日数発目の地雷を自ら踏みつけることになった小野軒和仁であった。
その後、痛々しいほどの沈黙が流れ、そのうちにガキだの幼稚だの惨憺たる口撃を受けてしまうことは想像に難くないだろう。
まぁ、後日駅前のアイスクリームを奢らせるという約束はキッチリ取り付けたわけであるが。
まぁ、天下の北山高校が誇る超優等生とはいえ所詮はまだ高校生、こんな会話が日常的なものなのである。
「次のニュースです。またもや、犠牲者が出てしまいました」
校門正面に取り付けられた大型のディスプレイから何やら不穏な単語の群れが意識に流れ込んでくる。
せわしなく流れるテロップには和製シリアルキラーなるものが見て取れる。
「先輩が言ってたけど、本当に物騒ね」
この事件の発端は約一週間前。巡回中の交番職員が何者かに襲われ、殺害されたことを皮切りに、警察の捜査を嘲笑うかのように掻い潜り続け、犠牲者を増やし続けている。
その数、今回の一件を含め九人。
一日に一人以上もの人間を殺しておきながら、その狂気は一週間たった現在も鞘に収まる気配を見せない。
瑞樹の左腕が微かに震えている。
「許せない」
普段のざっくらばんとした明るい性格はなりを潜め、周りの生徒さえも威圧する勢いで怒りを露わにしている。悪を許せないということで警察官となった熱血夫婦の血筋をよく受け継いでからか、瑞樹は昔から人が傷つけられる何かをひどく憎む傾向にあるのだ。
とはいえ、このまま放っておくわけにもいくまい。人垣に見えない壁でも敷かれているかのように、おれたちの周りだけ妙なスペースができてるし。
「瑞樹。ほら行くぞ」
「え。あ、うん」
適当に声をかけ、ディスプレイの前から立ち去る。離れ行く俺たちをいくつかの好奇の視線で追いかける者もいるが下手に気にしても逆効果だろう。色恋沙汰に目がない高校生のことだ、今更弁解しても余計に面倒になるだけだ。今のおれに出来ることと言えば、明日から妙な拡大解釈付きでこの噂が広がらないように、天の神様に祈ることぐらいのものだ。
―――もっとも、はなからいるとは思っていないが。
「やっぱり許せないのか、ああいう輩は」
校門から一つ先の路地にある自販機隣のベンチに座らせて尋ねてみる。
「そりゃね。でも、今の私ではどうしようもないわ」
「なんだ、直接対面でもしたらやっつけて両親に突き出すつもりでいたのか」
「初めて話を聞いた一週間前は、ね」
苦虫を噛み潰したように言葉を紡ぎ出した彼女に含みを感じた。
「なあ。今回の犠牲者って本当に九人なのか」
どこからか流れてくる冷たい風は日の暮れをおれたちに告げようとしているのだろうか。既に大通りへと向かう道を横切る学生の数はまばらで、この付近で立ち話をする学生の声も気がつかないうちに消え失せていた。
体をこわばらせ、逡巡の色が瑞樹の瞳に映し出された気がしたが問いに対する答えは返ってきた。
「実際には。実際にはもっと多いのよ。警察関係者を中心に被害は出ているわ。奴の襲撃を受けて私の父さんは片腕を持っていかれたわ」
「あの親父さんが!?」
「だから言ったじゃない。今の私にはどうしようもないって」
つい数分前の言葉の意味をここでようやく把握した。
「ったく、いのちまではとられなかったからってけろっとしてたけど、それがいったいなにを意味するか分かってないのよ。あのバカ親父」
木崎剣輔。
またの名を、ミツルギ。
警察関係者の中でこの名を知らぬもはいないといっても過言ではない。彼が海外から侵入してきたA級テロリストの四人組を単身、現行犯逮捕してしまったという話は一時期メディアを騒がせた。この時、一味の男が取り調べに対し、ぼやくように呟いたという。「The man beating us is sword or something weapon?(あの男の体は剣か武器そのものか)」
その後、話を聞いていくと、この親父、拳銃やら刃物やらを持ち合わせた連中にあろうことか素手で殴りこんでいたことが判明した。
これを知った警察関係者の何者かがミツルギ、つまり剣のようなその身と命名し、現在の二つ名のように広まった。
国内最高峰の武術を持っている男の完璧なまでの敗北。
それが意味することは、つまり
「日本の警察では手出し不可能、てことになるじゃない」
だから、名前はオフレコなの。
俯きながら呟く彼女の言葉に抑揚はない。被害を受けているとぼかしてしていた。しかし彼女の言葉の端からは死人が出ている、そう聞こえてならない。
「さ、そろそろ帰りましょうか。あまり遅いと襲われるといけないし」
最後にそう締めくくり、サッと瑞樹は立ち上がった。
「現代のシリアルキラー。何の目的があってこんなことやってんのかな」
一人、人足まばらな学生街をだらだらと歩きながら、頭の中をグルグルと浮遊し続ける単語は最近はやりにはやっている殺人鬼の別称だ。
県内の学校では完全下校の時間を早め、まだ日明るいうちに生徒を自宅に帰すという処置をとり、警察は夜間パトロールの人数を大幅増員、さらに殺人鬼の危険度から3人一組、うち一人に魔術協会の魔術師を含む編成するという徹底ぶりを見せているものの効果はあまり発揮されていないのが現状である。
この方式での巡回が始まったのは4日前、しかしそれ以前と同様で1日に一人は被害に遭っている。さらに、まだ公表されていない警察関係者の被害も鑑みてみると全被害者数は既に10人を超えている可能性は高い。
まったく、なんてデタラメな殺人鬼だ。
目撃情報はやせ形の小さい体格の男というものが出回っているが、それ以上のものはなくこれだけの情報で気をつけろと言われても、それは無理というもの。見た目の情報だけで人を危険かどうか判別できるなら、詐欺師などと言う輩に騙される人もいるまいと心うちでぼやいてみる。
路地を曲がったところでワンコイン自販機を発見、財布から小銭を取り出し、自販機に流し込む。待つこと数秒、ガタンといつもの効果音を鳴らしながらアルミニウム製の冷えた缶が登場した。
缶ジュースの代名詞ともいえる中身が吹き出しそうになる音を短い音をたて、中身を一気に飲み干す。
空を見上げてみると、燃えるような派手な姿はなりを潜め、取って代わるようにうすらうすらと星屑たちが輝きだしている。
さて、帰るか。
残りのジュースを喉奥に流し込もうとしたとき、こちらを見つめる視線に気がつき、缶を片手に陣取っていた自販機前を開けた
―――ッ。
半ば反射的に身をかがめた。
直後、硬貨と思しき四枚の金属板が自販機に派手に突き刺ささる。
続けて後方に飛びずさると、再び足元には三枚の硬貨が正三角形をかたどり、屹立していた。
状況に困惑しつつコインが飛んできたに目をやると、その姿に絶句した。
世の中、やせ形で小柄の人間なんてごまんといる。そんな陳腐な情報で殺人鬼を割り出せるはずがない、と心底信じてやまなかった。
しかし、そんなこと、おれに判断できるはずもなかったんだ。だっておれは、殺人鬼と顔すら合わせたことがないのだから。
そして、一つ分かったことがある。
殺人鬼相手に、外見の特徴なんか無意味、だということだ。
全身から溢れんばかりの殺意は肌の表面をチリチリと焦がしつけ獲物を威圧する。それだけで己の存在がいかなるものかということを実に分かりやすく表現しているのだ。
背中を見せれば即、殺す。
月の光を受けギラリと輝く短刀がおれを嘲笑う。
「お前、いったい・・・!?」
刀身を映し出した輝きは闇に消え失せ、それと同時に殺人鬼も姿をくらます。しかし、それは疑いようもなく、開戦の合図だったことを、身をもって知らされた。
「かはっ」
瞬く間に三発、順番すらも処理されない速度でパンチが放たれた。
殴られた。脳が理解するより、痛みを神経が伝えるよりも早く肺の中の空気が力づくで外に押し出される。
「く、そっ」
今にも倒れそうな体を何とか支えようと踏ん張るも、殺人鬼にはおれの苦労など汲み取る必要などない。
額を押されただけで突っ伏しそうな体に、さらにもう一発、無慈悲な蹴りが炸裂する。鳩尾を完璧にとらえた強力な一撃は弱ったおれを吹き飛ばすには十分すぎた。空気と一緒に内臓まで吐き出してしまいそうな錯覚を覚えつつ、おれの体がアスファルトに打ち付けられる。全身が燃えるように熱く、体は満足に動かない。恐怖によるものなのか、それとも単に体が悲鳴を上げているだけなのかすら区別はつかない
しかし、足音は何故か遠のいていく。
助かった?でも、なぜ?
虚ろな意識ではろくに思考も回らない。
不幸なことに、その答えはすぐさま指示された。
「なぜ、本気でやらない」
投げかけられた男の声には、殺意以上に憤りが籠っている。
「お前、こんなものじゃないだろ」
馬乗りになりつつ、すでに虫の息である体に容赦なく拳が突き立てられる。
「賢人の力、見せてみろ!」
「お前が、目覚めているのは分かっている」
「このまま死なれては困る」
「それでもかつての英雄の魂を受け継ぐ者か!!」
何度目か分からない拳は、ドスンと顔の真横のアスファルトを打ち砕いた。
「そうか、気配がしたからお前だと思った。けど違うみたいだな。あっちの女の方だったのか」
おれの顔をのぞき込む男の瞳には既におれは映っていない。狂気に満ちた眼球が一際強く輝いた。
―――――次こそ、殺される。
近づいてくる死に抗おうとするが、既に満身創痍、体に力は入るはずもなかった。体に垂直に突き刺される刃の姿が瞼の奥に浮かんでくるが、その時は訪れなかった。
のっさりと立ち上がった男はおれに目を向けることもなく、再び夕闇の中へと溶けるように姿を消した。
「一体、なんだったんだ。あれ」
ようやく紡ぎ出された言葉は、思いのほか自然だった。
仰向けに倒れ、服こそ汚れてはいるものの、体のダメージは殴られた回数とは一致しない。
「幻影にぼかされたか」
立ち上がって呟いた言葉は自分でも驚くほどに、恨みがましかった。
ま、生きているし交番にでも届け出るかそう思い至り、男のある一言が脳裏をよぎった。
―――お前だと思った
―――違う
―――あっちの女の方だったのか
待てよ。あっちの方の女って誰だよ。
いや、おれは知っている。
あいつが指している女が誰かを、分かっているはずだ。
じゃあ、どうする。
「行くっきゃねーだろ」
走り出した後で呟いた。あの男がこの場を去ってからどれくらいの時間が経っているか分からない。
警察に連絡する時間すらも惜しんで、木崎瑞樹の通学路へと駆け出した。
「おいおい。なんだよこの感じ」
果たして、そこで繰り広げられている戦闘はおれの想像を絶するものであった。遠距離から繰り出される高火力の魔術、しかしそのどれもが勝敗を決する一撃になる様子はない。それだけを聞けば、互角の戦いなのだろうかと判断できるが、実はそうでもない。片方は魔術を連発、そしてもう片方は魔術を使うことなくその攻撃をいなしている。つまり、案外に追い込まれているのはこの魔術師の方だと直感的に悟った。
ここで繰り広げられているのは、魔術の応酬ではなく、魔術の生成とその破壊。魔術師は次々と魔術を繰り出し、一見有利なように見えて、実はそのほとんどは不自然な形で消え失せている。
探している場所はすぐに見つかった。襲撃された場所から僅か10分、市街地の巨大廃ビル跡地で戦闘は既に始まっていた。
5階建てのビルの屋上にはどうやら人が一人いるらしく、そこからビルの駐車場に向けていくつもの魔術が次々と生成されては放たれ、駐車場で消滅していた。
恐る恐る、近づき門の入り口から戦闘の様子を伺うとそこには短いダガー1本で嵐のように飛んでくる魔術を次々と弾き、人間離れしたスピードでそれを躱している例の殺人鬼の姿があった。
その目は月明かりさえも反射させる橙色。闇夜に不気味なまでの存在感を浮かびあげている。自由自在にステップを踏み続ける様子は何故か楽しそうで、歓喜にも似た感情が浮かび上がっているような気がした。
そして、殺人鬼の目が煌めいた。
魔術の発動がわずかに遅れたその瞬間をこの男が見逃すはずもなかった。妖しく光るダガーを片手に建物の内部へと瞬く間に姿を消した。
魔術が飛んできていた最上階を仰ぎ見ると、背中ぐらいまで伸びた髪が夜風に優雅になびいている。下階をしばらくの間見つめると、奥の方へと姿を消していった。
それを見届け、右手に護身用の小太刀を召喚する。おれはこれでも昔から道場に通い、剣を扱ってきた身なのだ。あの殺人鬼相手にどこまで通用するかは分からないが、少なくともないよりはマシだろう。それに、年齢は分からなかったが、あの殺人鬼と戦闘を繰り広げていたのは女性に違いない。あの男の動き、接近戦になればいくら魔術が達者だからと言っても勝ち目は薄いように思われる。
止せばいいものを、おれは異次元より具現化された小太刀を片手に廃ビルの敷地内へと潜入を開始した。
いくら使い慣れた装備があると言えども、慣れない状況にはやはり精神的には不安になる。あの殺人鬼の戦闘レベルはまるで未知数。屋上でみた影に万に一つも、おれの知り合いであるという可能性がなければ、何事もなく踵を返して今頃は布団の上で寝転がっていることだろう。
心の中でため息を吐きつつ、煤だらけの階段をひそひそと気配を殺して一段一段上がっていく。ビルに入って少し驚いたことがある。外見はヒビが入りボロボロで今にも崩れ落ちそうなのだが、意外にも内装はしっかりしており、よっぽどの衝撃を加えない限りビルの下敷きで生き埋めとかいう事態は起きそうもない。とはいえ、長い間放置されていたことには変わりないようで、おかげで床のあちこちに埃が溜まっており、時たま空きっぱなしの窓から入ってくる夜風で舞い上がり吸い込んでしまいそうになる。
もしそれで咳き込んでしまえば、文字通り命取りにつながる可能性がでてくる。あの男がおれの存在を認識してない以上、第三者の存在を知らせてしまうようなことは極力避けたい。
現在位置は、件のビルの三階。潜入を試みてからいくらか時間が経ったが、戦闘が再開された様子はない。屋上で戦闘が行われると踏んでいたおれからすれば、これはかなりの誤算だ。屋上で二人が刃を交えているならこの建物内でどちらかと出くわすことはなくなるが、今の状況はその限りではない。
最悪―――後方から奇襲を受けてそのまま倒れる可能性だってあるのだ。
ガタンッ!
前触れもなく、静かな廊下に不釣り合いな音が鳴り響く。あまりの唐突さに心臓が口から飛び出しかけたが、なんとか呼吸を整え、踊り場の影からフロアの先を見通す。
すると、
「痛ったー」
傍から聞いただけで膝のあたりをさすっていることが分かってしまいそうな、情けない声が聞こえてきた。
声の出どころは踊り場を出てすぐ左側の部屋からだった。周囲にあの男の影がないことを確認し壁声に声をかける。
「もしかして、そこにいるのは会長ですか」
囁いた声は通路に響くほどのものでもないが、隣の部屋には十分聞こえるぐらいのボリュームだ。
「・・・」
しかし、返事が返ってくる様子はなく、先ほどまであったはずの人の気配はこの部屋から消失していた。
気のせいか、もしくは全く別の誰かがこの場にいて知らない人の声がしたから気配を消したのか、後者の方ならばおれは殺人鬼と間違われて急襲を受けかねない。そう思い、ゆっくりと立ち上がり再度踊場へと足を向けて
「ぐっ、ぅ?」
急に後ろに引っ張られ、口元にハンカチのようなものがあてがわれた。そのまま勢いよく反対側の部屋に押し込まれ、冷たいフローリングの床に雑に転がされると扉がゆっくりと閉まるのが見えた。
「誰かが、いる?」
口元の布はどうやってか固定されているらしく、口から外れる様子はなく声を出そうにも出せない。一方、両手はいつの間にやらロープのようなもので縛られ手に握っていたはずの小太刀でさえも手の内からなくなっていた。
一体、誰が?
慌てた見渡してみるが静かな室内に落ちた影はおよそ二つ。一つは無様に床に転がるおれの影、そしてもう一つは、
「一体どういう間違いで迷い込んだのかしら」
前頭葉に手をやり困り果てた様子の一つ上の女の子。
軽いくせっ毛がふわりと夜風に舞い上がる。肩口でまとめられたショートスタイルの髪型はこの人物の代名詞にほど近い。
薄暗い室内が窓から差し込む月光によって徐々にその姿の全容を見せる。ここは会議室だったのか、やたら部屋の広さに似合わない量の椅子や机が壁の一角に集められている。
やがて件の人物のシルエットさえも色のある実態としてこの世界に浮き彫りにした。透き通るような白い肌にほどよく引き締まった脚、しかしその脛には若干ぶつけた跡が残っている。
北山高等学校生徒会長であり、本学校最高と謳われる魔術センスを誇る霧神果梨が少し残念な恰好で姿を現したのだった。
「とりあえず、落ち着いたようね」
部屋に入り込んだ直後に、何者かが通路を踏み鳴らしながら駆けていく。窓越しに映る体格は忘れもしない、あの男のものだった。しかし、その影は迷うことなくこの部屋の前を通り過ぎていき、その足音はすぐさまエコーを残して去って行った。
ふっと息を吐き出し、会長は口元のハンカチ、両手を縛っていたロープを手際よく解いていった。
「で、どこまで知っているの」
神妙な顔つきでグッと顔を近づけながら言い寄ってくる。学内屈指の人気を誇る超美人の迫力に気圧されながら、今日あったことをそのまま話す。
「えっと、あいつと会長がやりあってたことと、あいつが殺人鬼だってこと、かな」
―――殺人鬼。
その言葉に眉を一瞬潜めた会長はこの怖いもの知らず、とおれを叱咤した。想像だにしていなかった、その一言を浴びて思わず全身が硬直する。
「どうしてあいつが危険人物だって知って後を追ってくるのよ!」
「いや、最初に襲われた後、おれの知っているやつを襲うみたいなこと言ってたから心配になって」
ありのままの説明になるほど、と頷いた会長はおれの肩を力強く握りしめ、おれの瞳を凝視してきた。その視線はあまりにも剛直で、逆らい難い力を宿している。
「ここが危ないってことは分かったはずよ。悪いことは言わない。あいつに見つかる前に早く逃げなさい」
提案ではなく、絶対的な命令。
日常で聞き慣れているはずの声は、この非日常的な場面では腹の底に直接響いてくるような錯覚を覚えさせる。一度にその指令を与えられた相手は、時間差なく従わせてしまいそうな、そんな暴力的な力を持っているかのようだった。
でも、おれは。
無意識のうちにその力を弾き返した。
「何やってんすか」
言葉を切って指をさす。
「会長だって、会長だって、こんなとこで何やってんすか」
その先には、白く、柔らかに月明かりに浮かび上がる滑らかな肌には似合わない、酷く赤く染まった液体がポタポタと流れ出ていた。
「右腕、切られてるじゃないすか」
自分でも情けないくらいに震える声を振り絞っての反論だった。
「会長、まだあいつと戦うんですか。おれが逃げた後も。そんなのダメです。会長だって殺されますよ」
目の前の女の子が流している血液、それを見ておれはようやく現実を理解したのかもしれない。
おれはただの非日常ではない。冒険とかそんな軽いものではない。ホンモノの命のやり取りだ、と。
「そうだ、先輩、警察呼びましょう。それならあいつも――」
「それだけ?」
最後の文に重ねるように発された言葉は、研ぎ澄まされた氷の刃のようだった。続きは聞くまでもなく、その一言で十分すぎた。
必要ない。逃げなさい。戦う。そして、
―――忘れなさい。
おれを見つめる瞳が全てを語っている。
静かに魔術が展開され、淡い光がおれの体をそっと包み込み、窓から夜空へと放り出される。俯いたままの会長の表情を伺うことはできない。
派手に音を立てて開く扉、そのまま扉に向き直る会長の奥には例の男の影が。刹那、視線がぶつかり男は嬉しそうに口元を綻ばせた。
コマ送りのように再生される両者の構えは、最後まで見届けることもなくひび割れたコンクリートの奥へと消えていった。
「おいおい。なんだよこの感じ」
果たして、そこで繰り広げられている戦闘はおれの想像を絶するものであった。遠距離から繰り出される高火力の魔術、しかしそのどれもが勝敗を決する一撃になる様子はない。それだけを聞けば、互角の戦いなのだろうかと判断できるが、実はそうでもない。片方は魔術を連発、そしてもう片方は魔術を使うことなくその攻撃をいなしている。つまり、案外に追い込まれているのはこの魔術師の方だと直感的に悟った。
ここで繰り広げられているのは、魔術の応酬ではなく、魔術の生成とその破壊。魔術師は次々と魔術を繰り出し、一見有利なように見えて、実はそのほとんどは不自然な形で消え失せている。
探している場所はすぐに見つかった。襲撃された場所から僅か10分、市街地の巨大廃ビル跡地で戦闘は既に始まっていた。
5階建てのビルの屋上にはどうやら人が一人いるらしく、そこからビルの駐車場に向けていくつもの魔術が次々と生成されては放たれ、駐車場で消滅していた。
恐る恐る、近づき門の入り口から戦闘の様子を伺うとそこには短いダガー1本で嵐のように飛んでくる魔術を次々と弾き、人間離れしたスピードでそれを躱している例の殺人鬼の姿があった。
その目は月明かりさえも反射させる橙色。闇夜に不気味なまでの存在感を浮かびあげている。自由自在にステップを踏み続ける様子は何故か楽しそうで、歓喜にも似た感情が浮かび上がっているような気がした。
そして、殺人鬼の目が煌めいた。
魔術の発動がわずかに遅れたその瞬間をこの男が見逃すはずもなかった。妖しく光るダガーを片手に建物の内部へと瞬く間に姿を消した。
魔術が飛んできていた最上階を仰ぎ見ると、背中ぐらいまで伸びた髪が夜風に優雅になびいている。下階をしばらくの間見つめると、奥の方へと姿を消していった。
それを見届け、右手に護身用の小太刀を召喚する。おれはこれでも昔から道場に通い、剣を扱ってきた身なのだ。あの殺人鬼相手にどこまで通用するかは分からないが、少なくともないよりはマシだろう。それに、年齢は分からなかったが、あの殺人鬼と戦闘を繰り広げていたのは女性に違いない。あの男の動き、接近戦になればいくら魔術が達者だからと言っても勝ち目は薄いように思われる。
止せばいいものを、おれは異次元より具現化された小太刀を片手に廃ビルの敷地内へと潜入を開始した。
いくら使い慣れた装備があると言えども、慣れない状況にはやはり精神的には不安になる。あの殺人鬼の戦闘レベルはまるで未知数。屋上でみた影に万に一つも、おれの知り合いであるという可能性がなければ、何事もなく踵を返して今頃は布団の上で寝転がっていることだろう。
心の中でため息を吐きつつ、煤だらけの階段をひそひそと気配を殺して一段一段上がっていく。ビルに入って少し驚いたことがある。外見はヒビが入りボロボロで今にも崩れ落ちそうなのだが、意外にも内装はしっかりしており、よっぽどの衝撃を加えない限りビルの下敷きで生き埋めとかいう事態は起きそうもない。とはいえ、長い間放置されていたことには変わりないようで、おかげで床のあちこちに埃が溜まっており、時たま空きっぱなしの窓から入ってくる夜風で舞い上がり吸い込んでしまいそうになる。
もしそれで咳き込んでしまえば、文字通り命取りにつながる可能性がでてくる。あの男がおれの存在を認識してない以上、第三者の存在を知らせてしまうようなことは極力避けたい。
現在位置は、件のビルの三階。潜入を試みてからいくらか時間が経ったが、戦闘が再開された様子はない。屋上で戦闘が行われると踏んでいたおれからすれば、これはかなりの誤算だ。屋上で二人が刃を交えているならこの建物内でどちらかと出くわすことはなくなるが、今の状況はその限りではない。
最悪―――後方から奇襲を受けてそのまま倒れる可能性だってあるのだ。
ガタンッ!
前触れもなく、静かな廊下に不釣り合いな音が鳴り響く。あまりの唐突さに心臓が口から飛び出しかけたが、なんとか呼吸を整え、踊り場の影からフロアの先を見通す。
すると、
「痛ったー」
傍から聞いただけで膝のあたりをさすっていることが分かってしまいそうな、情けない声が聞こえてきた。
声の出どころは踊り場を出てすぐ左側の部屋からだった。周囲にあの男の影がないことを確認し壁声に声をかける。
「もしかして、そこにいるのは会長ですか」
囁いた声は通路に響くほどのものでもないが、隣の部屋には十分聞こえるぐらいのボリュームだ。
「・・・」
しかし、返事が返ってくる様子はなく、先ほどまであったはずの人の気配はこの部屋から消失していた。
気のせいか、もしくは全く別の誰かがこの場にいて知らない人の声がしたから気配を消したのか、後者の方ならばおれは殺人鬼と間違われて急襲を受けかねない。そう思い、ゆっくりと立ち上がり再度踊場へと足を向けて
「ぐっ、ぅ?」
急に後ろに引っ張られ、口元にハンカチのようなものがあてがわれた。そのまま勢いよく反対側の部屋に押し込まれ、冷たいフローリングの床に雑に転がされると扉がゆっくりと閉まるのが見えた。
「誰かが、いる?」
口元の布はどうやってか固定されているらしく、口から外れる様子はなく声を出そうにも出せない。一方、両手はいつの間にやらロープのようなもので縛られ手に握っていたはずの小太刀でさえも手の内からなくなっていた。
一体、誰が?
慌てた見渡してみるが静かな室内に落ちた影はおよそ二つ。一つは無様に床に転がるおれの影、そしてもう一つは、
「一体どういう間違いで迷い込んだのかしら」
前頭葉に手をやり困り果てた様子の一つ上の女の子。
軽いくせっ毛がふわりと夜風に舞い上がる。肩口でまとめられたショートスタイルの髪型はこの人物の代名詞にほど近い。
薄暗い室内が窓から差し込む月光によって徐々にその姿の全容を見せる。ここは会議室だったのか、やたら部屋の広さに似合わない量の椅子や机が壁の一角に集められている。
やがて件の人物のシルエットさえも色のある実態としてこの世界に浮き彫りにした。透き通るような白い肌にほどよく引き締まった脚、しかしその脛には若干ぶつけた跡が残っている。
北山高等学校生徒会長であり、本学校最高と謳われる魔術センスを誇る霧神果梨が少し残念な恰好で姿を現したのだった。
「とりあえず、落ち着いたようね」
部屋に入り込んだ直後に、何者かが通路を踏み鳴らしながら駆けていく。窓越しに映る体格は忘れもしない、あの男のものだった。しかし、その影は迷うことなくこの部屋の前を通り過ぎていき、その足音はすぐさまエコーを残して去って行った。
ふっと息を吐き出し、会長は口元のハンカチ、両手を縛っていたロープを手際よく解いていった。
「で、どこまで知っているの」
神妙な顔つきでグッと顔を近づけながら言い寄ってくる。学内屈指の人気を誇る超美人の迫力に気圧されながら、今日あったことをそのまま話す。
「えっと、あいつと会長がやりあってたことと、あいつが殺人鬼だってこと、かな」
―――殺人鬼。
その言葉に眉を一瞬潜めた会長はこの怖いもの知らず、とおれを叱咤した。想像だにしていなかった、その一言を浴びて思わず全身が硬直する。
「どうしてあいつが危険人物だって知って後を追ってくるのよ!」
「いや、最初に襲われた後、おれの知っているやつを襲うみたいなこと言ってたから心配になって」
ありのままの説明になるほど、と頷いた会長はおれの肩を力強く握りしめ、おれの瞳を凝視してきた。その視線はあまりにも剛直で、逆らい難い力を宿している。
「ここが危ないってことは分かったはずよ。悪いことは言わない。あいつに見つかる前に早く逃げなさい」
提案ではなく、絶対的な命令。
日常で聞き慣れているはずの声は、この非日常的な場面では腹の底に直接響いてくるような錯覚を覚えさせる。一度にその指令を与えられた相手は、時間差なく従わせてしまいそうな、そんな暴力的な力を持っているかのようだった。
でも、おれは。
無意識のうちにその力を弾き返した。
「何やってんすか」
言葉を切って指をさす。
「会長だって、会長だって、こんなとこで何やってんすか」
その先には、白く、柔らかに月明かりに浮かび上がる滑らかな肌には似合わない、酷く赤く染まった液体がポタポタと流れ出ていた。
「右腕、切られてるじゃないすか」
自分でも情けないくらいに震える声を振り絞っての反論だった。
「会長、まだあいつと戦うんですか。おれが逃げた後も。そんなのダメです。会長だって殺されますよ」
目の前の女の子が流している血液、それを見ておれはようやく現実を理解したのかもしれない。
おれはただの非日常ではない。冒険とかそんな軽いものではない。ホンモノの命のやり取りだ、と。
「そうだ、先輩、警察呼びましょう。それならあいつも――」
「それだけ?」
最後の文に重ねるように発された言葉は、研ぎ澄まされた氷の刃のようだった。続きは聞くまでもなく、その一言で十分すぎた。
必要ない。逃げなさい。戦う。そして、
―――忘れなさい。
おれを見つめる瞳が全てを語っている。
静かに魔術が展開され、淡い光がおれの体をそっと包み込み、窓から夜空へと放り出される。俯いたままの会長の表情を伺うことはできない。
派手に音を立てて開く扉、そのまま扉に向き直る会長の奥には例の男の影が。刹那、視線がぶつかり男は嬉しそうに口元を綻ばせた。
コマ送りのように再生される両者の構えは、最後まで見届けることもなくひび割れたコンクリートの奥へと消えていった。
「くっそ、がぁっ!」
放り出された高さは地上約10メートル、会長にかけられた魔術を強引に破るとおれの体は万有引力の法則によって、地上へと落下速度を引き上げながら吸い寄せられる。
「っっっくぅー」
空中で姿勢を整え、着地には成功したもののやはり高さが原因か、体を貫くように全身に衝撃が走る。
しかし、おれもここで立ち止まっている時間はない。
あんな光景を見て、おれは会長を放っておけるわけがないのだ。
一緒に放り出された小太刀を手にし、塗装が剥げかけている地面を全力で蹴りつける。このまま帰って寝たんじゃ、寝起きが悪すぎる。
あんな体で個人戦とか笑えたものじゃない。しかも、あいつは接近戦を得意としている。たとえ屋上での戦闘に持ち込めたとしても会長に分があるとは到底思えない。
わずか数秒の間に増やした創傷をかばうように屋上へと浮かび上がって行った会長を追いかけ、ただひたすらに疾走した。
間もなく聞こえ始める、第2ラウンド開始の知らせは部外者であったおれ嘲笑う。建物内でもスピードを落とすことなく階段を飛ばしながら、翔け上がる。
3階、4階、5階、最後に現れた屋上への閉ざされた扉を力任せに蹴破り、死戦場へとおれは躍り出た。
「燃やし尽くせ、braze!」
四肢だけでなく顔や胴体に創傷を刻まれた華奢な体が吹き飛ばれ、地面を転がる光景はおれからこの上ない怒りを引き出していた。
半ば反射的に詠唱を終えた魔術は会長に追撃を加えようとする男の軌道に重なった。男は視界に魔術を捉えると後方へ飛び退き、難を逃れたがすぐに会長を追撃する仕草は見せない。
「ボロボロじゃないっすか。会長」
息も絶え絶えになっているであろう会長を背に、殺人鬼を正面に位置取る。背後からは呼吸音が聞こえるのみで、どうやら結構ギリギリの場面に殴りこんだようだった。
「邪魔するな。その7賢人はおれが殺す。後でお前の相手してやるから待ってろ」
相も変わらず単調な男の物言い。
「後じゃ意味ねぇんだよ」
おれの存在などないに等しい、か。
「ふん。引っ込んでいろ。雑魚」
男が何やら呟くと、どこからか不要な魔術が流れ込んでくる。恐らくこれは、おれがあの時に受けた幻惑魔術と同じもの。
バリンッと体内の魔力を練り固め、体内へと侵入を試みる異物を弾き返すと男は少し驚いたような表情を見せた。
「お前、さっきと違う。まるで別人。何があった」
「ここから立ち去れ。さもなくば」
男の言葉を無視し、左足を若干引いた状態で小太刀を構える。
「面白い。気が変わった。お前、先に殺す!」
「やめなさい!あんたの目的はうちなんでしょ。だったらその子は関係ない!」
立ち上がることすら難しい会長の必死の抗議が背後から上がる。けれど、それを受け入れるわけにはいかない。
おれがここで背を向ければ、会長は、確実にこいつに殺されるのだから。
「お前との戦い楽しかった。けど、」
まだ足りない。
男の視界のうちには既に会長の姿はない。声色に似合わぬ冷徹な瞳の奥に映っているのは、このおれただ一人。遊び飽きた玩具から目を逸らすように、この男は意識の中からも会長を完全に排除しようとしている。
この男が今求めているものは会長の生命などではない。
おれは、そう直感した。
「その女、今は忘れろ」
猛然と距離を縮めながら男は言った。
全力でおれの相手をしろと。余計なことを考えていては、容赦なく切り刻む、と。
―――上等だ。やってやるよ。
獲物の重量で劣る男は勢いのままに体重をかけた上段からダガーを振るってくるが、避ける気もないおれはそれを受け止め、瞬時に男の体を弾き返す。
予想に反した行動に驚いたのか、男は再び間合いを取ろうと後方にステップを踏む。
しかし、後方への移動は近距離戦において重大な隙を生み出す
「ぐッ」
後ろへ重心をかけた瞬間、男の懐に潜りこみ腹部へと真っ直ぐに足を突き出す。慌てた男は迎撃を試みるも、体勢はあまりにも不安定過ぎた。蹴りの勢いに耐え切れなかった体は吹き飛び、ダガーの刃はおれの体に掠ることすらしない。
「・・・・」
再び開いた間合い。
何やら男の口が動いているが、言葉は聞き取ることができない。
「最高だぜ。お前、最高だぜ!」
男から発せられた言葉には始めて見せる歓喜の色で染まり切っているが、正直不快でしかない。
闇夜に浮かび上がる橙の瞳に力が籠り、男は再度駆け出した。
「ハッハァァーーーー!!」
奇声を撒き散らす男の様子は実にいい加減で、同様にスピードも段違いにデタラメなものになっていた。
踏み込む間もなく、ダガーの間合いまで詰め寄られる。連続で繰り出される斬撃は先の立会とは異なり、防いだ小太刀に重みのようなものはかかってこない。しかし、その手数は凄まじく、隙を見せれば体のどこを切りつけられても不思議ではない。
振り抜かれたダガーには知らぬ間に血液が滴り、頬からは熱い何かが流れ出していく。
体に意識を集中して痛みを思い起こせば、もしかしたら卒倒してしまうほどのダメージを追っているのかもしれない。
その代償としてか、加速する男の斬撃を耐える中、おれは時がゆっくりと流れるような感覚を覚え始めた。緩やかな時間、爛々と輝く男の目を視界に捉え、おれの体を蹂躙し続けたダガーの軌跡を先回りして小太刀で受け止める。
訝しげな瞳でおれの動きを観察する男は真っ直ぐだった筋に時間差を利用したり、突きを織り交ぜたりなどパターンの変化を試みたが、そのどれもがおれの体に触れることはない。
心臓を直接狙った真っ直ぐな突き半身で躱し、振り向きざまに放たれる喉元を掻ききるような筋を切羽のすぐ上で受け流す。
始めて大きく崩れた男の体に見舞う斬撃。手首を返して勢いのままに振り下ろされた小太刀は、しかし男を十分に捉えることはなかった。
「キサマ、一体何者だ」
ぎらつく男の目にはもはや余裕はない。度重なる斬撃の乱舞は男の体力を想像以上に消耗していたようだ。肩を上下させながら、呼吸を整えている。
どうやら、この殺人鬼の戦闘スキルはさほど高くなかったらしい。距離が空いているとはいえ、相手の目の前で呼吸の乱れを露わにし、息を整えるなど言語道断。その上に話しかけてくるとはお笑い草にもほどがある。
―――どうやら、これで終わりだな。
決着の刻を確信したおれは殺人鬼の戯言に答えるまでもなく、斬りかかった。―――一週間にも及ぶ連続殺人事件にしてはあっけない幕引きだ。
三間の間合いを三歩で詰め寄る相手は初めてだったらしい。無造作に腹部めがけた突きが繰り出されるが、今のおれには他愛のない一手。
すれ違うように体をさばき、その側方から全体重をかけた体当たりをぶつける。よろめいて宙を迷う右手に握られたダガーを峰で打ち払い、引き戻すように男の体を袈裟に切る。
「やるな、坊主」
―――このおれに、この能力(力)を使わせるとは。
「なっ?」
おれは、一生忘れることはないだろう。
振り抜かれた刃は絶対的で、致命的で、不可避的な必殺の一撃。
その背後で嘲笑うようにおれの耳元で、囁きかけられたこの忌々しい殺人鬼の声を。
肩を、足を、背中を、一瞬のうちに突き捨てられた、全身に走る死の予感を。
カランッと手から滑り落ちた小太刀を、月明かりが照らす。その輝きに曇りはなく、まだ血の色を知らない。
膝から崩れ落ちたところを蹴り飛ばされ、ドスンと体が冷たい壁に背中を打ち付けへたり込むように地面に這いつくばる。
コツ、コツと乾いた足音が反響するたびに近づいてくる瞳に先までの感情はなく、それが否応なく死の風景を直感させる。
やがて、すぐ真横で止められた歩み、振り上げられた地に汚れたダガーは、おれの体を捉えるには至らなかった。
「ぐぅ、あ!」
視界から男の姿が瞬間的に消えた。直後、ガシャンと落下防止用の金網が物音を立てたかと、思うと一際大きく騒ぎ始めた。
「うちが本気の魔術を使っていたと思ったら大間違いだかんね」
セリフの割には覇気が感じられないが、空元気とも思えない。そんな不可思議な声の方に今にも壊れそうな首を回してみると、声の主は、やはりボロボロで、滴り落ちる深紅の体液を押さえながら立っていた。
「それに、時間切れじゃない?」
おれの体がふっと浮かび上がり会長の下へとゆらゆらと海上を漂うに移動する。やがて、会長の足元でゆっくりと地に体がつけられる。
赤く染まったブラウスの袖口を押さえる手には、もはや十分な力は籠っていない。しかし、その瞳には余裕とさえも感じられる光で満ち満ちている。
「こ、れは・・・?」
困惑の表情を浮かべる殺人鬼。
それもそのはずだ。
「ようやく気がついたようね」
勝ち誇ったような会長の言葉。それが合図だったかのように、屋上の扉が派手な音を立てて開けられ、ぞろぞろと武装した人々が押し入ってきた。ライオットシールドに自動小銃、閃光弾のようなものまで見受けられる当たり、かなり大きな戦力をここに導入されているようだ。
「あなたの天敵、お巡りさんよ。それも、かなりの大人数のね。白兵戦では無類の強さを誇るあなただけど、これだけ多くの人間を相手にして戦闘、もとい逃亡できるかしら」
「キサマ、まだ全力ではなかったな」
呪うような殺人鬼の言葉にさぁねと会長が肩をすくませると、号令をかけられた。
シールドを持った警官隊が一斉に殺人鬼を取り押さえに掛かる。
これでようやく終わる。たった数時間だった。しかし、その時間でおれは何度死を覚悟したことだろう。
張りつめていた精神が弛緩したせいだろうか、どっと全身に疲労の波が押し寄せ、今にも瞼を閉じてしまいたい。そんな衝動に駆られる。
「全くもう。無茶してくれちゃって」
でも、ありがとうね。
おれに向けて笑いかける会長はあまりにも綺麗で、いつもの活動で見慣れている会長なのに。おれは言葉をかけることすらも忘れ、見入った。
そして、信じられないものが視界に入った。
「っっ!」
――嘘だろ。
声にならない叫びは会長に届くことはない。必死の形相に会長は優しく首を傾げるのみ。
背後に、警官隊の中心にいるはずの男が亡霊のように姿を現した。手に握られたダガーには一寸の陰りも見られない。
逆手に握られた獲物は会長の背中、その中心を穿つように振り下ろされる。
バターを斬るように、滑らかな曲線を描きながら迫るダガーは、しかしピタリとその動きを静止した。
否、封じられた。
「何、やってくれてんだ。この野郎」
一度聴いたら、忘れることのできないであろう、若々しさの中に渋みを含んだ声の主によって。
大木のような腕でねじるように殺人鬼の手首が捻り上げられた。
自然。
カラン、と凶器が屋上に転がった。
「命拾いしたな」
顔を忌々しげに歪めて殺人鬼は言い残し、消失した。
消えた。
信じられないことに、その存在そのものがそこにはなかったかのように。
果たして、殺人鬼は再び行方を暗ましたのであった。