『 旅立ち 』
『ムシィ~~~~ッ!』
何度言っても覚えないアホな子らが大慌てでムサシのボロ屋に駆け込んできたのは、昔の夢を見た日から三日後の昼を過ぎた頃の事だった。
「こらッ! ムサシ先生でしょ! 何度言ったら――」
「――そんなこと言ってるバアイじゃないんだって!」
「チョーローとローシがよんでる! はやくきてって!」
「ダンチョーがそとのひとをひろってきたんだ!」
ムサシはアイラと顔を見合わせ、行ってくる、と告げて手ぶらで家を飛び出した。
診療所にも薬はある。それでもムサシが呼ばれているという事は、その『外の人』は特殊な毒に侵されているのだろう。ゲームでは『解毒薬』があればどんなモンスターから受けた毒でも回復できたが、現実の解毒は迅速かつ非常に繊細な仕事が要求される。ムサシが管理している解毒に使える薬草類は100種類以上。その中から勘で選んで持っていくのではなく、まずは一刻も早く駆けつけて症状から毒の種類を特定する。薬を選ぶのはその後だ。
いつもはゆったりと歩く往来をその超人的な健脚で疾風のように駆け抜ければ、ムサシのボロ屋から老師の自宅を兼ねる診療所まで30秒かからない。野次馬を掻き分けて診療所の中に入ると、そこには四人の人物がいた。
見た目は20代で、隠遁した賢者を彷彿とさせるローブを纏い、ダークブラウンの長髪を背に流した小柄なイケメンは、精霊族ノームと真人族の血を併せ持つ、およそ200年この里を治めてきた長老。
妖魅の竜族と真人族の血を併せ持つらしいが、真人族の好々爺にしか見えない人物がこの診療所の先生で、通称は『老師』。長老を超える最年長。
見た目は20代で、耳は柳の葉のように長く、肌は小麦色で髪は若葉色。動き易そうな服装の上に軽装の革製防具を身に付けているのが自警団の女性団長。アイラの実母で純血の精霊族ドリアード。
そして、診察用の寝台に見知らぬ若い美女が寝かされている。その長い水色の髪は精霊族ウンディーネを彷彿とさせるが、耳の形は真人族と変わらない。はずされた細剣や軽装甲など武装は隣の寝台の上にまとめて置かれており、身に付けているのは袖なしのミニ丈ワンピース、肘まで届く長手袋、オーバーニーソックス。
その所々が裂けて血が滲んでおり、肌は青白く、玉のような汗が浮かび、呼吸も荒い。一目見て危険な状態だと分かる。
ムサシは三人に目礼し、早速診察に取り掛かった。
「森で倒れていた。発見した時には既に意識がなかった」
「儂にできる【体内霊力精密制御】と【体外霊気精密操作】を応用した治療では、ある程度体力を回復させる事はできても、根本的な解決にはならんからのう」
ムサシは、団長と老師の話を聞きながら診察を行ない……
「手遅れ、か……」
長老が診察を終えたムサシの顔を見て呟いた。
病魔を駆除し解毒する薬を作る事はできる。しかし、それを投与しても、効果が現れるまで彼女の躰が持たない。――普通の薬なら。
「長老。お預けしている自分の道具鞄に――」
ガシッ、と不意に手を掴まれて、ムサシは思わず言葉の続きを飲み込んだ。
ムサシの手を掴んだのは、救助された女性。意識を失っていたはずだが、その空色の瞳は真っ直ぐにムサシを見詰め、唇を震わせながら言葉を紡いだ。
「……あ、あな…た…は、地球…人……?」
ムサシが思わず軽く目を見開き、あぁ、と頷いた――次の瞬間、その女性は、くわっ、と目を剥いてムサシに掴みかかった。
「――どこッ!? リアルへ帰還するためのトランスポートゲートはどこッ!? この森のどこにあるのッ!?」
ぐったりしていたのが嘘のようなもの凄い力でムサシの胸倉を掴み、半狂乱で問い詰める。そんな女性を団長と長老が反射的に取り押さえようとしたが、ムサシは掌を相手に向けるジェスチャーで二人を制止し、アイコンタクトで大丈夫だと伝えた。
「そんなものはない。少なくともこの周辺には」
「ない? 本当にないの?」
ムサシは、ない、と断言し、はっきりと頷いて見せた。
ムサシは、毎日夜が明ける前に起き、里の外へ出て午前中はほぼ絶望の森で過ごす。修行の一環として、木々が密集する森の中や山谷を疾風の如く駆け巡り、飛び越え、断崖絶壁を命綱なしで登攀する。その合間に挟む数分の休憩時間に、各種薬草や食用の山菜、木の実、果実など食料を採取し、獲物を狩り、朝食も森にある食材で適当に済ます。
それ故に、里の周囲でムサシの知らない場所はなく、だからこそ断言できる。
女性はムサシの目を覗き込むように見詰め、その言葉が真実だと判断したらしい。躰から、ふっ、と力が抜け、
「……よかった……」
かすれて消えてしまいそうなほど弱々しく小さな声。だがしかし、その一言をムサシの耳は聞き逃さなかった。
(よかった? リアルへ帰還するためのトランスポートゲートはない――それが良かったって言ったのか?)
ムサシは疑問を覚えたが、今はそれを問い質せそうにない。倒れ込む前にそっと支えて寝台に寝かせたが、女性は直前までの行動が嘘のように力なく横たわっている。蝋燭の火は燃え尽きる寸前に最も激しく燃え上がる、などと言われているが……もう猶予はなさそうだ。
ムサシは、詳しい話を聞くためにも救命に必要なものを取りに行こうとしたのだが、またしても女性に手を掴まれて引き止められた。
「……もう…いい。もう…いい…の……」
生体機能が著しく低下し、もう痛みを感じる事すらできなくなったのだろう。女性は透き通るような微笑みを浮かべ、自分を助けようとするムサシに感謝の眼差しを向ける。しかし、最後の瞬間、一転して表情を悲しみに歪め、
「……ごめん…な…さい……、あなた……しか…助け…られ…く…て…………」
そう言い遺した。
老師が、結局名前も分からないままの女性の脈をとる。それから瞳孔反応を診て臨終を確認した。
「彼女は、『貴方しか助けられなくて』と言って謝罪していたが、君の知り合いなのか?」
長老の問いに、ムサシは、いいえ、と首を振る。
「――『たち』です」
「何?」
「声にはなっていませんでしたが、唇は確かに『たち』と動いていました」
貴方たちしか助けられなくて――彼女はそう言っていた。だが、ムサシには彼女と以前に会った覚えがなく、助けられた覚えもない。それになにより、
(貴方〝たち〟……この異世界にいるのは、俺だけじゃない?)
それが仲間の事なのか、同じ時に《エターナル・スフィア》にログインしていた他のプレイヤーの事なのかは分からないが、つまり、そういう事なのだろう。
この一件は、ムサシに旅立ちが近い事を予感させた。そして――
「この里を出ようと思った事はないか?」
長老にそう訊かれたのは、名前も知らぬ女性を手厚く葬った翌日の事だった。
いつも通り午前中を絶望の森で過ごし、朝稽古を終えていつも通りの場所で昼寝をしていると、いつも通りアイラがやってきたのだが、いつも通りはとりあえずここで中断。長老が呼んでいると言うのですぐ家を訪ねると応接間に通され、待っていた長老に座るよう勧められ、テーブルを挟んで対面に座り、そして、挨拶や世間話もそこそこにそう訊かれた。それにムサシは、戸惑いながら、
「えぇ~と、それはつまり、『出て行け』という事でしょうか?」
なんか村を追い出されるような悪い事したかなぁ~、と内心自分の行動を顧みつつ訊き返すと、長老は、勘違いしないでくれ、と首を振りつつ、
「行動が不審だという理由で団長が二人の若者を呼び出した。ノートンとウェルズだ」
「二人とも自警団の団員ですね。一緒に狩りに行った事もあります」
歳が近い事もあって交流がある二人は、この村で生まれ育ち、精霊族や妖魅族の血が混じっているとの事だが、外見は真人族となんら変わらない。
「団長が問い質すと、二人は『里を出るつもりだった』と白状した。どうにも外界への興味が尽きぬらしい。先日の一件もそれに拍車をかけたようだ」
「つまり、『森の外まで二人を護衛しろ』という事ですか?」
長老は、うむ、と頷いてから、
「もちろんこれは長老としての命令などではなく、この里の子供達全員の成長を見守ってきた者としてのお願いだ。君は剣の達人というだけではなく、弓と槍の腕前も村一番の団長に勝るとも劣らないと聞く。あの二人もそれなりの使い手ではあるらしいが、君がいてくれれば安心だ。もちろん、預かっている装備は返却する」
「『里を出るな』とは言わないんですね」
すると、長老は俯き、澄んだ琥珀色の瞳に憂いを滲ませて、
「この里は、居場所を失い、行く当てのない者が、絶望の果てに辿り着く安住の地だ。夢や希望を抱く若者を閉じ込める牢獄にはしたくない」
そう言ってから、ムサシに護衛の件について回答を求めた。
「分かりました。お引受します」
長老は、安堵の息をついた後、ありがとう、と言って深々と頭を下げた。
その日はそれで長老の家を辞し、自宅に戻ると作業の準備を整えたアイラが待っていた。いったいどんな用だったのかと訊かれたが、この事はまだ内密にという事だったので、ちょっと仕事を頼まれて引き受けた、とだけ答え、いつもより遅れて作業を開始した。それ以降はいつも通り。
後日、家を訪れた長老の使いに、出発は一週間後の予定だと伝えられた。
そして、いつも通りの毎日を過ごしていると、あっという間に一週間が過ぎ去った。
出発当日の夜明け前。ムサシは、預けていた装備を受け取るため長老の家にいた。
わざわざ出迎えてくれた長老に案内された奥の部屋は、かつて預けるために装備を解いた場所。部屋の中央に置かれたテーブルの上には、3メートル程の細長い布包みと、衣服を納めるための葛篭が一つ置かれている。
「だいぶ背も伸びたし、まぁ、そうだよな……」
葛篭の中に納められている着物や防具の見てみると、およそ3年前はピッタリだったが、今では明らかにサイズが小さい。
「体内霊力を込めてみなさい」
良くも悪くもバカなムサシは、尊敬できると判断した年長者の言葉には、まず疑問を差し挟む事なく素直に従う。言われた通りにしてみると、それはほのかな光を発して今のムサシにピッタリのサイズに変化した。
「エリキシルで創造された物とはそういうものだ」
目を丸くしていたムサシは、それだけ言い置いて部屋を出て行こうとする長老を呼び止めようとしたが、
「私は応接間にいる。準備が整ったら来なさい」
そう言って出て行ってしまった。
一人部屋に残されたムサシは、まぁいいか、と呟き、装備を身に付ける。
ゲーム内での装備変更は、メニューで操作すれば一瞬だった。だが、現実ではそうは行かない。しかし、ちゃんと着られるのか、という心配は杞憂だった。丁寧に畳まれていた着物を手に取り、体内霊力――〝気〟を込めてサイズを最適化し、いざ身に着けようとするとあっさりできた。初めてのはずなのに何故か躰が知っていたのだ。
「懐かしいなぁ~」
思わず呟き、身に付けた装備に目を向ける。
防具は、〔戦極侍の戦装束〕
黒を基調とした着物の袖と袴の裾を手甲と脚絆でまとめ、足には黒足袋。上着は朱色を基調とした雅な丈長の陣羽織。黒曜石のような色合の装甲に紅玉色の縁取りと彫刻が施された籠手と脛当ては、風情ある切子細工の名品を彷彿とさせる。それらに、今は装備せず道具鞄にしまった額から前頭部を覆う鉢金を加えた一揃いの小具足。
装甲が少ない見た目通り、物理攻撃に対する防御力は低いが、全状態異常と全属性ダメージを完全に無効化する。
装身具は、〔仙忍の草鞋〕と〔神猿の印籠〕
〔仙忍の草鞋〕は、一見普通の草鞋だが、素材は藁ではなく龍の髭。踏み付けにダメージが発生し、フィールド効果によるダメージを無効化。【隠蔽】にプラス補正があり、無音で移動できる。
〔神猿の印籠〕は、桃の意匠が施された根付と、黒漆地に朱と金の蒔絵で必勝の象徴である猿が描かれた印籠。戦闘勝仏の加護により、ステータスの全パラメーターを大幅に上昇させ、通常攻撃で敵に与えたダメージの10%自分のHPが回復する。
《エターナル・スフィア》ではただの飾りだったが、今は印籠としてちゃんと丸薬などを収納できるようになっている。
鞄は、〔道具使いの仕事道具〕。
《エターナル・スフィア》で最大の容量を誇る魔法の道具鞄。一見ありふれた腰に装着するタイプの鞄だが、容量に上限が存在する他の魔法鞄とは異なり、獲得者は装備すると同時に収容できるアイテム数に上限がない特殊技術【亜空間収納】を使えるようになる。
主武装は、〔名刀・ノサダ〕。そして、副武装は、葛篭と一緒に置いてあったおよそ3メートルの細長い布包みの中身。
〔屠龍刀・必滅之法〕。
隕石から採取された謎の超金属を大地の中心から湧き上がる火で鍛え、神龍の生き血で焼入れした斬れぬもののない最強の妖刀。およそ210センチの刀身は、身幅、肉厚共に十分で、反りは深く、刃文は苛烈さを秘めた華麗な乱刃。およそ90センチの柄は、竜皮地に黒色捻糸ひねり巻き。鍔は、小型で黒銀地に六芒魔法陣の彫刻。鞘は、素材に神秘の力を宿す世界樹が用いられた〔太刀持鞘〕という特殊なもの。黒漆地に金の上品な装飾が施され、本来なら帯に着ける下緒の止具に用いられる栗形と返角があるべき場所に宝玉が象嵌されており、機巧族の非固定武装のように何の支えもなく空中に浮遊し、殿様の後を付いて回る太刀持ちの小姓のように後についてくる。
「久しぶりだな」
クリア不可能だといわれていたイベントの一つ、『天地門八部衆の試練』のクリア報酬であり、共に幾匹もの古代龍や巨竜を屠ってきた相棒に語りかけながら鯉口を切り、わずかに引き抜いて白刃の覗かせた。
その禍々しいまでに妖艶な刀身は、長老が手入れを欠かさずにいてくれたというより、〔名刀・ノサダ〕と同様、【不滅】の属性を持つが故に手入れの必要がなかったのだろう。
そっと屠龍刀を納め、〔太刀持鞘〕に〝気〟を込める。すると、色を失っていた宝玉が真珠色の光を取り戻した。手を放すと空中に浮遊し、滑るようにムサシの背後へ。ちょうど斜めに背負ったような形で静止する。
「この3年で十分過ぎるほど現実だって事を実感したはずなのに、こうしてみるとやっぱりゲームみたいだな」
ムサシは、どれもこれも思い入れが深い装備の具合を確かめながら呟いた。
だが、やはり、これは現実だ。
何故なら、――この世界では人が死ぬ。
ゲームなら、HPが0になり、甦生される事なく死亡後の猶予時間が過ぎれば、その躰は光と化して霧散し、最新のセーブポイントに転送され、復活する。
しかし、この世界では光と化して霧散したりはしない。冷たい亡骸が残り、適切に処置して埋葬してやらなければアンデッドモンスターと化して人に害をなす。
ムサシが看取った〝彼女〟の場合、誰も名前を知らなかった。それ故に、火葬すればゾンビやスケルトンと化す事はないだろうが、墓に名を刻まなければ実体を持たない幽霊『スパンキー』と化してしまう恐れがある。そのため、彼女には聖名『ジェーン・ドゥ』が仮の名前として与えられ墓碑に刻まれた。
ちなみに、男性の場合の聖名は『ジョン・ドゥ』。
――それはさておき。
メニューが開けないので、【亜空間収納】の使い方が分からない。しかし、鞄の内側は底なしで、脱いだ服を入れて試してみたところ、取り出したいものをイメージすれば問題なく取り出せる事が分かった。自宅から最低限必要なものをまとめて持ってきた布袋の中身を全て道具鞄へ移し、借りていた着替えの分と今脱いだ服を畳んで葛篭の中に納める。
そうして準備を終えたムサシは、長老が待つ応接間へ。
浮遊する〔屠龍刀・必滅之法〕は、ちゃんと後についてきた。
いつかのように待っていた長老に座るよう勧められ、ムサシは〔名刀・ノサダ〕を鞘ごと帯から抜き、テーブルを挟んで対面に腰を下ろした。
「もうあれは3年も前の事になるのだな……」と少し遠い目をして呟いてから「君は私に、どうやったらスキルを使えるようになるのか、と質問した時の事を覚えているか?」
「はい」
「あの時、私は『分からない』とだけ答えたが、言い直そう。ある方法でスキルを使えるようになる。だが、君が以前に修得したスキルが使えるようになるかは分からない。――君はそれでもその方法を知りたいか?」
「はい」
「それは何故か、理由を聞かせてもらえるか?」
「何故か? 知りたい理由……」と眉間にしわを寄せて首を傾げ、うぅ~ん、としばらく考えた末に出した答えは「……知っておいたほうが良い様な気がするから? です」
長老は、首を傾げつつ言うムサシを不思議そうに眺めてから、
「では、何故あの時、君にその方法を教えなかったのか、その理由を知りたいか?」
「いえ、別に」
「それは何故か、理由を聞かせてもらえるか?」
ムサシは、え、また? と言わんばかりの顔をしてから、うぅ~ん、と考え、
「気にならないから? です」
長老は、またしても首を傾げつつ答えるムサシを不思議そうに眺め……ふと表情を和らげた。
「冒険者ギルドへ赴き、〔ティンクトラ〕を授けてもらいなさい」
「ティンクトラ? を授けてもらう……冒険者ギルドで?」
「人類は常にモンスターの脅威に晒されている。〔ティンクトラ〕は古の賢者が創り出した至宝だ」
長老は、懐から小さな布袋を取り出し、ムサシの前に置いた。
ムサシは、テーブルに置かれた掌に乗る大きさのそれを見てから目で問い、長老が頷いたのを見て手に取った。巻いて縛ってある紐を解いて口を開ける。中には、指環と腕環、それと、左右一対の耳飾りが入っていた。
「今回の依頼の報酬として受け取ってくれ。君も知っての通り、外界との交流がなく自給自足するこの里では金銭を必要としない。だが、外では違う。これを売れば、幾許かの金銭を得られるだろう」
ムサシは、それをありがたく頂戴した。
「それと、これを持って行きなさい」
そう言って、長老はどこからともなく取り出したものをムサシの前に置いた。
それは、一辺がおよそ4センチの正三角形で構成された正四面体。ほのかに薄紅色の輝きを放ち、クリスタルガラスのように透明度が高く、中心では人魂のような光の球体が揺らめいている。非常に高価そうだが、残念な事に、4つある面の内の1つの面に細かなひびが入っていた。
「これは?」
「〝ジェーン〟のものだ」
どうやら、名も知らぬ彼女の遺品の一つらしい。
「それをどうするかは、君に任せる」
長老の様子から、詳しく説明してくれるつもりはないらしいと察したムサシは、黙ってそれを受け取り、道具鞄にしまった。
さて、そろそろ行くとしよう、と言って席を立った長老に、はい、と返事をして続き、〔名刀・ノサダ〕を腰に佩く。
旅立つムサシと見送る長老が共に長老宅を出た時にはもう夜が明けており、じき森の中にも光が差し込み危険が潜む暗闇が追い払われるだろう。
「君なら、道を間違う事はないだろう」
里の出入口へ向かう道中、長老は穏やかな表情で独り言のように言い、ぼぉ~~っとしていてよく聞き取れなかったムサシが何と言ったのか尋ねると、
「――ムサシ。君の家はそのままにしておく。旅に疲れたら、いつでも帰ってきなさい」
長老の言葉で胸が、じぃ~~ん、と熱くなり、
「はい! ありがとうございます!」
ムサシは足を止め、感謝の言葉と共に深々と頭を下げた。
ムサシと長老が到着した時、里の出入口には見送りにきた人々の姿があった。その中には、診療所の老師や自警団の団長、眠そうな子供達やアイラの姿もある。
「え? 先生?」
アイラは、長老と共にやってきたムサシの姿を見つけて呆然とした後、慌てた様子でムサシに駆け寄った。旅立つ他の若者達の所へ行く長老に挨拶してから、心なしか血の気の引いた顔でその姿を見詰め、
「せ、先生、そのお姿は……?」
「あれ? 長老に仕事を頼まれて引き受けた、って前に話さなかったっけ?」
「仕事の内容までは……」
「そうだっけ? ノートン達の護衛だよ」
「護衛……という事は、先生はすぐに帰ってきてくれるんですよね?」
ムサシは、胸の前で手を組み合わせ、何かを祈るような、何かに怯えるようなアイラの様子を不思議そうに思いながら、
「あれ? 仕事の後そのまま旅に出て世界を見てくる、って言わなかったっけ?」
「聞いてませんッ!! そ、そんな急に……ッ!? そんなのって……ッ!」
激しく動揺するアイラの様子に、なんでそんなに驚いてるんだ? と思うと同時に、そういえば言ってなかったな、と思い出した。長老がその事を知っていたような口振りで話していたので言ったような気になっていた。
「大丈夫。この辺で取れる素材で作れる薬の作り方は全部教えたし、出来栄えも上々だから。家に保管されているやつはアイラの判断で使ってくれていいよ」
じゃあ行ってきます、と言って歩き出したムサシを、アイラが呼び止めた。
「私、待ってますッ! ずっと待ってますからッ! 必ず返ってきて下さいねッ!」
足を止めて振り返ったムサシは、目をパチパチさせた後、にっこりと笑い、
「いいよ。俺の仲間のお母さんが言ってたんだってさ。『いつ帰ってくるか分からない人を待ち続けるのは辛い』って。いつどこで野垂れ死んでもおかしくない俺の事なんか気にしなくていいから、アイラはみんなと仲良く――って、おぉいッ!? どうしたアイラ!?」
自覚していなかったらしいアイラは、大いに慌てるムサシの様子に、え? と困惑し、ふと頬に触れて自分が泣いている事に気が付いた。しかも、気付いた事で拍車がかかってしまったらしく、涙は後から後から止めどなく零れ落ち……アイラは涙で濡れた顔を両手で隠すと踵を返して走って行ってしまった。
何故アイラが泣き出したのかまるで理解できず、ただただ女の子を泣かせてしまった罪悪感でオロオロするムサシ――そんな愚か者に忍び寄る無数の人影が。
「あ、自警団のみんな。それに団長――って痛ッ! 誰だ今後ろから頭小突いた奴――って痛いんだけどッ! ぐぉおッ!? オイちょっとやめ――ぐぁあああああぁッ!?」
団長を始め、無言の団員達に寄って集って小突かれ、突き飛ばされ、首を絞められ……揉みくちゃにされて出入口前に放り出された時には、ダメージこそないもののヘトヘトになっていた。挙句の果てには、これから共に旅立つ10代後半の4人――準備を整えて待っていたノートンとウェルズ、それに共に旅立つ事を熱望したグラッツとコーザまでもが、冷え切った軽蔑の眼差しで見下ろしてくる。
「……そうだな。原因は分からなくても結果的に女の子を泣かせたんだ。この仕打ちはその仕置きだと思い、甘んじて受けよう」
侍らしい潔さを発揮し、その場に姿勢よく正座するムサシ。その、さぁ来い、と言わんばかりの様子に、4人を含む自警団の面々は、呆れ果てたと言わんばかりに深々とため息をついた。
――なにはともあれ。
隠れ里の出入口は巨大な岩で塞がれている。これには内側にだけ複雑な紋様が刻印されており、そこに体内霊力を込めると軽量化の術が発動し、簡単に持ち上げる事ができる。
出入口を塞いでいた大岩が脇に退かされ、これまでお世話になった人々と、顔を洗って急ぎ戻ってきたアイラ、それに、ようやく『サ』を忘れず名前を呼んでくれた子供達に見送られて、ムサシは、4人の若者と共に、ファティマの隠れ里から旅立った。