『 ムサシ 』
「――おいッ! ムサシッ!」
名前を呼ばれて、はっ、と我に返ると、目の前には三人の少年達の姿が。周囲を見回してみると、そこは道場のすぐ近くの公園だった。
「お前、俺の話、聞いてなかっただろ?」
「あぁ~……、あれだろ? 剣道やりたいって――」
「――ちげぇよバカ。なぁ、ヒマだからなんかしようぜ」
坊主頭が言うと、隣のメガネがブリッジを中指でクイッと押し上げながら、
「おい、なんだそれは? 用があったから呼んだんじゃないのか?」
「いや、別に。ヒマだったから呼んでみた」
その言い草に、メガネが眉間にしわを寄せ、
「まぁ、そんな事だろうと思ったよ」
そう言って、同じ理由で呼ばれた美少女のような美少年が苦笑する。
ムサシは、三人が会話する声をどこか遠く感じながら、ふと思った。
(こいつらの名前、なんだっけ?)
ん~……、としばし考え、思い出した。
「タケル、ユウスケ、ハルカ」
名前を呼ばれた三人の視線がこちらを向く。とりあえず呼んでみただけだったのでどうしようかと思っていると、自然とその言葉が口を衝いた。
「剣道やりてぇなぁ~」
それを聞いた三人は、呆れ果てたようにため息をつき、
「たまの休みだぞ? 勘弁してくれよ」
坊主頭のタケルが大袈裟に天を仰ぎつつ言えば、
「剣バに付き合ってられるか」
ユウスケがずり落ちたメガネを直しながら言い、
「あと少しで剣道漬けの毎日が始まるんだから、今ぐらい剣道のこと忘れたっていいと思うよ?」
顔だけでなく名前まで女みたいなハルカが眉をハの字にして苦笑した。
ちなみに、ユウスケが言った『剣バ』とは、『剣道バカ』の略。つまり、ムサシの事。
「ねぇ、なんでこっちで集ったの? 今夜の約束があるんだし、あっちだったらいくらでもヒマ潰せるのに」
「うちは時間制限があって、親がうるせぇんだよ」
「お前の都合なんて知るかハゲ。そういえば、他は呼んでないのか?」
「タツヤとジュリとサキは、なんか用があってこれないんだとさ」
ムサシは、それを聞いて思い出した。
ここにいる健、祐介、遥、それに今名前が出た龍也、紗希、ジュリこと樹理愛に自分を加えた七人は、物心ついた頃から同じ道場で剣を交えた剣道仲間だ。この七人の親が高校時代に剣道部で共に汗を流した仲らしく、それが縁で出会い、今でも家族ぐるみの付き合いをしている。
そんな仲間の事を、自分は何故思い出した、つまり、忘れていたんだろう?
「お~い、ムサシ! おぉ~い、帰ってこぉ~い!」
ふと気付くと、タケルが顔の前で手を振っていた。
「らしくないな。まさか、本当に剣道が足りてないのか?」
ハルカはユウスケの言い草に、それこそまさかだよ、と苦笑してから、
「あっ! ひょっとして、また明け方まであっちで無茶してたとか?」
「あっち?」
ハルカは、うん、と頷いて言った。
「――《エターナル・スフィア》」
「――先生ッ!」
間近からの声に、はっ、と目を開け、仰向けに寝ていたムサシは、素早く上体を起こした。
「ど、どうしたんですか?」
戸惑う声がしたほうに目を向けると、そこには10代半ばと思しき少女の姿が。
質素だが清潔そうな中世村娘風の服を着ており、やや幼さを残した顔立ちは妖精のように可憐で、小麦色の肌は瑞々しく肌理細やか。人のそれよりやや長く尖った耳が、若草色の髪の間から覗いている。
周囲を見回してみると、そこはボロ屋の軒下に置かれた長椅子の上だった。
「あぁ~……、おはよう、アイラ。いつ来たんだ?」
「たった今着いたところです」
「って事は、正午か」
椅子を跨ぐような格好から90度回転し、麗しき精霊族ドリアードと真人族のハーフの美少女――『アイラ』と向かい合い、頭を掻きつつ挨拶した。
「どうしたんですか? 声をかけるまで目を覚まさないなんて初めてですよ?」
そう言って心配そうに顔を寄せてくる。その拍子に、ふわっ、と花の香りに似た好い匂いがした。
そう、この世界にはちゃんと匂いがある。アイラの手料理はもの凄く美味しいし、視界の隅には『NOW PLAYING』の表示もない。
「先生?」
「ん? あぁ~……、昔の夢を見てたから、かな? あれは確か、中二の夏休みだ。他の部活との兼ね合いで、体育館使えるのが夏休みの後半だけだったからヒマで……あぁ、いや、なんでもない」
アイラが小首を傾げているのに気付いてうろ覚えの夢の話をやめ、頭をボリボリと掻きながら立ち上がった。両腕を上げて、ん~~~~……、と思いっきり躰を伸ばし、ふぅ、と息をつく。そして、自分の姿を見下ろしてみると、あまり清潔感は感じないが割と小まめに選択している村男風の服を身に付けている。
「さてと、仕事するか」
「その前に昼食です。せっかく持ってきたんですから無駄にしないで下さい」
いつも通り、バスケットを手に提げているアイラと共に、ボロだが住み心地は悪くない我が家の玄関へ。
地下1階、地上2階の一戸建てで、地下と2階は生薬や調合した薬を保管する倉庫になっている、1階は半分が作業部屋で、半分がダイニングキッチン。トイレは汲み取り式で、風呂はないが近くに流れが緩やかな川があり、上流に行けば高さはないが、水量が豊富な滝がある。男の一人暮らし、それにもう慣れてしまったので不便は感じない。
昼食の準備をアイラに任せ、ムサシは顔を洗うためキッチンの流しへ。
蛇口に相当する場所に嵌め込まれた拳大の水晶球の下に洗面器を置き、水晶球に触れて生命力から練成した力――『体内霊力』を流し込む。それに反応してほのかに発光した水晶球の下部から滾々と水が湧き出し、洗面器一杯に貯まったところで手を離した。
このように、オドを動力源とする道具を日常的に扱い、この里で唯一の診療所の主である仙人のような老師の教えを受け、マンガで得た『気』に関する知識を参考にして独自の修行を積んだ結果、【体内霊力精密制御】を会得するに至った。今では、手足を動かすぐらい自然に行なう事が可能で、自分の中では便宜的にオドの事を〝気〟、それを制御する技術の事を【気功】、診療所で学んだオドの制御を応用した診療技術の事を【軟気功】と呼んでいる。
――それはさておき。
ムサシは、顔を洗うため洗面器の上へ身を乗り出し、ふと水に映る自分の顔をしげしげと眺めた。東洋系の顔立ちは至って普通で、良いとも悪いとも思わない。瞳と髷のように後頭部の高い位置で適当に括っている髪は黒。
「あれから、もう三年になるのか……」
流れた月日と思えば少し大人びてきたような気もするが、この顔にも見慣れてしまい、もう元の自分の顔は思い出せない。とはいえ、自分自身の容姿をベースとしたアバターをデフォルトのまま使っていた上、昔から自分の容姿や髪型を気にした覚えがないので、それを気に病んだ事は一度もないのだが。
《エターナル・スフィア》――それは、文明が進み過ぎて科学と魔法の区別がつかなくなった世界を舞台としたフルダイブ体感型VRMMORPG。現実世界と同じく、絶えず変化を続けながら永遠の時を刻み続ける仮想世界。全世界で数億もの愛好者がいるとされる老舗ネットゲームの事。
ムサシが《エターナル・スフィア》の事を知ったのは、小学校3年生か4年生の頃。当時既に嵌まっていた一つ年上のタツヤとジュリに誘われたのだ。
その頃にはもう幼馴染み達から剣バと呼ばれるほど剣道以外に興味のなかったムサシは、やはり食指が動かなかった。しかし、同学年のタケル、ユウスケ、1つ下のハルカとサキ――皆がやると言い、皆が一緒にやろうと誘うのでやってみる事にした。
その事を両親に話すと、仕事が忙しくなって離れてしまったそうだが、《エターナル・スフィア》のプレイ経験があったらしく、『あっちでいろいろ学んできなさい』と推奨された。
そして、ムサシは度肝を抜かれた。
味覚は何を飲み食いしても薄い砂糖か塩の味しか感じず、嗅覚はガス臭や焦げ臭さといった危険を察知するための弱い刺激臭しか感じられないよう制限が掛けられ、視界の隅には常時『NOW PLAYING』と表示されている――そうまでしなければ、仮想と現実の区別がつかなくなってしまうほどリアルだと事前に聞かされてはいたが、そこは全てが予想を遥かに超えた、リアルという言葉では生温い、まさに第二の現実世界だった。
《エターナル・スフィア》でのプレイヤー自身であるキャラクターのLvは、モンスターとの戦闘で勝利する、クエストを達成する、鍛冶や細工などアイテムを製作する……などなど、目的を達成する事で得られる経験値が規定値に達する事で上昇する。
Lvアップするごとに獲得するGPは、Lvアップ時までに累積された特定条件などの達成によって変動し、GPを消費して、ステータスの各パラメーターを強化し、優に千を超えるそれらの中から目的に応じた【能力】を取得し【技術】を修得する事で、自分だけの能力構成を作り上げる事ができる。
そして、経験値を得る事で成長するのはキャラクターだけではない。《エターナル・スフィア》で行なった戦闘や探索といった運動、ICやプレイヤー間での交渉といった行動は、実際に現実世界で行なった場合と同様の刺激を脳に与えて活性化させる事が分かっている。
つまり、現実世界の自室のベッドで横になっているだけの肉体を鍛える事はできないが、動体視力や瞬発的思考力、認識力、記憶力、計算力、知識量など、いわゆる『脳力』はいくらでも鍛える事ができるのだ。
ムサシは、現実世界では学校の剣道部や道場で剣道、居合、剣術の稽古に励み、帰宅後は、疲労した肉体を休めながら《エターナル・スフィア》で悪鬼羅刹の如く戦い続け、戦闘の勘を養い研ぎ澄ました。
その結果、中2になった頃には、現実世界では大会に出場するごとに優勝候補と目されその評判通りの華々しい成果を重ね、《エターナル・スフィア》では、動作補正がある攻撃スキルを使わず、個人技能のみでモンスターを殺戮する化け物として畏怖されるようになっていた。
そして、中2の夏の〝あの日〟も、ムサシは《エターナル・スフィア》にログインしていた。まさか、あんな事になるとは思いもせずに……。
「先生、できました」
ムサシは、薬研でゴリゴリと乾燥させた薬草を擂り潰していたアイラに、はいよ、と答えて次の作業を指示する。
《エターナル・スフィア》には、多く別けて4つの種族――『精霊族』『妖魅族』『機巧族』『真人族』が存在した。
その中でムサシが選択したのは真人族、いわゆる人間で、初期ステータスは全種族中最低ながら、他の種族よりも多くの称号や職種が用意されており、最も自由に自分だけの能力構成を作り上げる事ができる。もっとも、ムサシがそれを選んだのは、上級職に【侍】があったからなのだが――それはさておき。
4種族の中で最も法術の適性が高い精霊族は、【地】【水】【風】【火】【樹】【光】【闇】、それとそのどれにも当てはまらない無属性――武術系スキルの場合は【力】、法術系スキルの場合【識】――の8の属性の性質が色濃く顕れた8の氏族、地のノーム、水のウンディーネ、風のシルフィード、火のサラマンダー、樹のドリアード、光のフォス、闇のスキア、識のエルフが存在した。
アイラは、精霊族ドリアードと真人族の混血児――《エターナル・スフィア》には存在しないハーフドリアード。
彼女は、薬草の知識を得たいと言って里のはずれにあるこのボロ屋に通い、授業料を受け取ろうとしないムサシにお礼だと言って、食事や掃除など、甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いている。物覚えもよく、助手としても優秀で非常に助かっているのだが、男女が一つ屋根の下で二人きりだというのに無防備過ぎるきらいがあり、不意にムサシをドキッとさせるという事が多々あった。
「本日の仕事はここまで」
「はい、先生。お疲れ様でした」
まだ明るい内に仕事を終わらせ、アイラと一緒に家を出る。アイラを家まで送るついでに、頼まれていた薬を診療所へ届けるのだ。
おそらく、膨大な時間をかけて雨が大地を削り、樹とその根だけが残ったのだろう。見上げれば、無数の樹の根が絡み合って支え合い里の上をドームのように覆っており、縒り合わさって図太い注連縄のようになった根の束が天井を支える柱のように所々地面に突き立っている。そして、その木々のドームの下にも林があるため、森が二段になっているような不思議な景観を作り出している。
ここは、『ファティマの隠れ里』。居場所を失い、行く当てのない者が最後に辿り着く事から『絶望の森』と呼ばれる樹海に抱かれた集落。外界とのつながりは一切なく自給自足の生活を営み、初代長老ファティマが施した結界によってモンスターの脅威から護られ、この木々のドームが里を覆い隠しているからこそ上空を飛行する者があっても発見される事はない。
「あっ! ムシだ、ムシがきたッ! 」
「ホントだ! ムシがきたッ!」
里の広場まで来ると、子供達が元気よく駆け回っていた。皆アイラのような混血種族で、赤、青、黄、といった属性色の髪と瞳を持つ者もいれば、獣の耳と尻尾を備えた者もいる。
「こらッ! ムサシ先生でしょッ!」
『どっちにしたってヘンな名前ぇ~――~ッ!』
子供達は、きゃはははははっ、と笑いながら逃げて行き、アイラは、もう、仕方のない子達ね、と腰に手を当てて頬を膨らませる。
「おぉ~~い、何度言っても覚えないアホな子らよぉ~! もう一度言うぞぉ~! ムシじゃないぞぉ~! サを忘れるなぁ~!」
『ムゥ~~~~シィ~~~~ッ!』
そんな元気な声が返ってきた。こらぁ~~~~ッ! と怒るアイラと笑いながら逃げて行く子供達の姿に頬を緩め、ふと足を止める。
〝あの日〟《エターナル・スフィア》にログインしたムサシは、集合時間まで修行する事にして、モンスターの無限出現地帯『サラダポダルサの森』にいた――はずなのだが、前後不覚に陥り、ふと気付いた時に突っ立っていたのがちょうどここだった。
「先生?」
「ん? いや、なんでもない」
ムサシは笑ってごまかし、少し不安そうな表情のアイラと共に彼女の家へ。
「今日も修行ですか?」
アイラを家の前まで送った別れ際にそんな事を訊かれ、うん、と答えるムサシ。
「診療所に寄って、他に何もなければ」
「たまにはちゃんと休んだほうがいいと思います。特に今日は、私が声をかけるまで目を覚まさなかったり、時々ぼぉ~~っとしているように見えました。疲れが溜まっているんじゃないですか?」
「ん? ん~……、じゃあ、今日はちょっと軽めにしておくよ」
その軽めって全然軽くないんだろうなぁ……、とアイラは内心ため息をつき、
「くれぐれもお躰にだけは気をつけて下さいね?」
「ありがとう。じゃ、また明日」
アイラと別れ、診療所に薬を届けた後、ムサシは一度自宅へ戻った。その足で真っ直ぐ2階へ向かい、天井裏にしまっているものを取り出す。
それは、布袋に納められた一本の刀。
〝あの日〟訳が分からずこの里の広場で途方に暮れて立ち尽くしていると、ムサシに気付いて人がわらわらと集り出した。遠巻きにしているだけで声をかけようとする者が一人もいない中、一人の男性がそんな人垣を割って前へ進み出た。それがこの里の長老だった。
長老曰く、『この里の外にはモンスターがひしめく危険な森が広がっており、最も近い人里まで五日はかかるだろう。出て行くというなら好きにするが良い。だが、この里に留まりたいのなら、身に付けている物は全てこちらで預からせてもらう』。
後になってそうすべき理由をいろいろ思いついたが、その時はなんとなくそうするのが良いような気がして留まる事を選んだ。そして、長老の家に行き、代わりの服をもらって着替え、全ての所持品を預ける際、修行にどうしても必要だから、とお願いして、里の中では絶対に抜かず布袋からも出さない、という約束で所持する事を許してもらったのが、この刀だ。
「アイラにあぁ言ったし、今日は軽く千本振って、型稽古だけにしとくか」
ムサシは上機嫌で鼻歌など歌いつつ、布袋に納めたままの愛刀と、1階の壁に立てかけてあった自作の巨大な羽子板のような重い木刀を携えて里の外へ向かった。
そこは、家の近くの川を遡ったところにある、高さはないが水量が豊富な滝の近くの川原。清らかな水と澄んだ空気で清められた天然の修行場。
準備体操、入念なストレッチ、巨大な羽子板のような木刀で素振り千本を終えたムサシは、上半身裸になる。筋骨隆々という感じではない。しかし、服の上からでは分からない、大きく太い筋肉のみならず小さな筋肉まで全てを鍛え上げ絞り込んだ武人の肉体が露わになった。
腰に袴の帯代わりの細長い布を三重に巻き、左腰に愛刀を佩き、一礼してから洗練された所作で抜刀し、最も好む正眼に構える。そして――
「―――――………」
正眼から真っ直ぐに振り上げて真っ直ぐ膝の高さまで振り下ろす――たったそれだけの動作を一度するのにかかった時間は2分以上。まるで、縦から横にした容器の中で糊や蜂蜜がゆっくりと形を変えるように、スゥ―――……、と滑らかかつ無駄のない自然な流れで行なう。回数を重ねるごとに所要時間を徐々に短縮しながら完璧に同じ動作を繰り返し、最終的にはほぼ0秒、振り上げて振り下ろすという過程が認識できない域へと至る。
止まっているように見えるほどのスローモーションから徐々に速度を上げていくのは、分類されているだけでも608ある全身の筋肉の全てを意識的に同時並列で制御し、神業の域のバランスで統合し、その瞬間以外にありえない完璧な力加減で伸縮させる――その精度を極限まで突き詰めるため。
練り上げられた〝気〟が全身の経絡を巡り、細胞の一つ一つに至るまで〝気〟が漲り、頭の天辺から爪先まではもとより〝気〟を通した愛刀の切先にまで意思が通う。この状態で、唐竹割りの次は袈裟斬り、次は左薙ぎ、左斬り上げ、逆風、右斬り上げ、右薙ぎ、逆袈裟、刺突――剣の基礎たる九つの太刀筋でそれを行なってから、剣の先達達によって極限まで練磨された剣術・居合の集大成である『型』を、同じようにして心身に刻み込む。
――これが【気功】を会得してから毎日欠かさず行なってきたムサシの型稽古。
「フゥ~―――……」
型を一通り終えたムサシは、地面を突くように血振りし、洗練された所作で納刀した。柔らかく強靭に鍛え上げられた体躯は熱を帯びて紅潮し、流れる間もなく気化した汗が霞みのように漂い、細く長く吐いた息は熱く、まるで蒸気のように白い。
いつもならこのまま瞑想し、夜の冷えた空気で躰を冷ましてから愛刀を布袋にしまう。だが、今日は愛刀を鞘ごと帯から引き抜くと顔の前で捧げ持ち、鞘から半分ほど引き抜いて白刃を覗き込んだ。
ムサシの愛刀――〔名刀・ノサダ〕。
モチーフは、その別名で呼ばれる実在した刀匠、二代目兼定の作だろう。およそ90センチの重厚な刀身は、鎬筋高く、反りは浅く、先反りは強く、刃文は飾りはいらぬと言わんばかりの綺麗な直刃。およそ30センチの柄は、黒地に赤色捻糸ひねり巻き。鍔は黒鉄地に決して後退しない勝ち虫――蜻蛉の彫刻。下緒は柄と同じ赤色捻糸で、鞘は石目と漆黒に塗り別けられた凝った仕上げ。製作者の強いこだわりが感じられる一品。
そう、これは紛れもなくムサシが《エターナル・スフィア》で装備していたアイテム。だが、それもよりも遥かに現実感を伴ってここにこうして存在している。
「…………」
ムサシは、背筋がゾッと震えるほど禍々しいまでに美しく輝く刀身をじっと見詰めながら考える。
三年前の〝あの日〟、いったい何が起こったのか?
それは未だに分からない。身に付けていた装備は《エターナル・スフィア》のものだったので、当初はデスゲームに巻き込まれたのかとも思ったが、どうやら違う。この世界は、《エターナル・スフィア》ではなく、それに似た異世界のようだ。
ならば、ゲームをプレイ中に何者かによってこの世界へ召喚されたのか、とも考えたが、少なくともファティマの隠れ里にはそんな事ができる者は存在せず、未だ召喚者だと名乗る人物は現れていない。そして、この三年間、目が覚めたら自宅の布団の上という事もなく、帰り方も分からない。
だが、分かっている事もある。
1、ゲームの時とは違ってシステムウィンドウを開けない。
故に、メニュー画面やクイックメニューが開けないので、武術系を始めとしたスキルは軒並み使用できない。
2、メニューから選択・実行するスキルは使えないが、獲得した職種や能力、称号や知識系スキルの効果は顕在。
その中でも特に助かっているのが、【侍】と同じ上級職である【錬丹術師】に必須の能力【錬金】【調合】【合成】【細工】とその関連知識スキルだ。
動作補正に頼らず自分自身の技で戦う事と、侍は魔法など使わない、という強いこだわりを持っていたムサシの能力構成は特殊で、武術系スキルは最低限必要なもの修得し、法術系スキルに至っては一切修得していない。そして、少しでも長く戦い続けるためには回復する手段が必要不可欠であり、そのための手段として選んだのが、自分で使う回復薬を自分で作り出す事だった。
それ故に、能力には0%~100%までの『熟練度』、技術にはⅠ~Ⅹまでの『スキルLv』があるのだが、ステータスを強化する傍ら、武術系や法術系スキルを修得しないため有り余っていたGPを注ぎ込み、【錬丹術師】関連の能力・技術は全てカンストしていた。
この世界で初めて見たはずなのにその植物の詳細な知識があり、それでどんな薬が作れるか、その作り方まで全て熟知しているのはそれ故だろう。というか、他に理由が思い当たらない。そのおかげで、優秀な薬師として尊敬され、衣食住に困らない生活が送れている。
3、この世界で戦い、生き抜く事ができる。
そう結論する理由は3つ。
① この躰は、『宮元武蔵』のものではなく、ステータスの各パラメーターを強化した『ムサシ』のものだから。血の通った本物の人間の躰だが、そうでなければ常人離れした身体能力の説明がつかない。
② 初期から修得している護身系スキルの内、任意で発動する【守護法陣】は使用できないが、常時全身を不可視の薄い膜のような障壁で保護する【守護障壁】は問題なく機能している。これがあれば不意打ちを食らっても、おそらく探知範囲外の超長距離から機巧族の高エネルギー収束火線狙撃砲による狙撃を受けても一撃死という事にはならない。
③ 現実での剣道、居合、剣術と《エターナル・スフィア》での戦闘で培った戦いの技術と勘――これが通用する事は、絶望の森での狩猟などで、既に証明されている。
他にもまだあるが、要するに、分かっているのは自分の事だけ。
この三年間は、本来の『宮元武蔵』とはかけ離れた『ムサシ』の能力を完全に把握し、制御する技術を修得し、自分にできる事とできない事を明確にするために費やしたといって良いだろう。
しかし、肝心な事だけが分からない。
「俺は、いったいどうしたいんだ?」
やりたい事なら分かっている。それは、『武を極めたい』という一言に尽きる。ただ、そのための修行はどこでもできる。現実でも、《エターナル・スフィア》でも、この世界でも構わない。
今日まで、他の事など考える余地もないほど一心不乱に、自らを鍛え、技を磨き、今の己を把握しようと努めてきた。おそらく、それが一段落したからだろう。昔の夢を見て思い出した。自分が本来在るべき場所の事を。
しかし、今日まで元の世界への帰還は叶わず、この隠れ里で多くの知り合いができ、親しい付き合いをさせてもらっている人達がいる。元の世界に未練がない訳ではないが、今の生活が続いても構わないと思えるだけの時がこの里で流れた。
「…………」
勢いよく納刀した事で、日本では古来より邪気を退け穢れを祓う力があると云われている『鍔鳴り』の清澄な音色が韻々と響き渡り、ムサシの迷いを払う。
〔名刀・ノサダ〕を布袋にしまい、脱いで畳んでおいた服を身に着け、入念にストレッチしてから、邪魔にならない位置においていた巨大な羽子板のような木刀を拾って帰路に着く。
今どうしたいのか分からないなら、どうかしたくなった時のために準備しておけば良い。グダグダ考えるのは性に合わない。というより、自分頭は帽子を乗せるためではなく、面――剣道の防具を被るためにあるのだ。
いずれ時は来る。そんな予感がある。故に、今はやれる事をやれば良い。