田舎から都会へ
いつまでも夢に出てくるあの浜の光景を私はわすれない。そして今は亡き母のことも。
甲子園の浜に来たのは小学四年生の春のことでした。私は叔母に連れられて、関西汽船に乗り、母の住む浜甲子園の家に着きました。
初めての都会暮らし。何もかもが珍しくて、母と居るのがうれしくて、天にものぼる気持ちでした。
私達母子ふたりの部屋は、二階の六畳間と階下のフロアの一室でした。六畳の部屋には、私の為に用意された真新しい机と、その上に可愛い西洋人形と三色菫の鉢植えが置いてありました。
二階の狭いベランダからは、堤防沿いの松林の向こうに、広い砂浜が広がっていました。遥か向こうまで 続く遠浅の海です。
当時浜甲子園には、まだ米軍が基地を作っていたので、砂浜の片側方面はバリケードが張られて進入禁止になっていました。
私の家の隣には、白人の外国人男性が二人住んでいて、「シロダ」という表札がかかっていました。
色が真白で長身のシロダさんが、スピッツを連れて浜辺を散歩しているのをよく見かけました。裏口近くにある台所からは、いつもコーヒーの匂いが漂っていました。
私の通うことになった小学校は、浜甲子園口からチンチン電車ですぐの甲子園口で降りて、子供の足で10分程の所にありました。私はその鳴尾西小学校に、小学校4年生と5年の一学期通学しました。
甲子園口の前には甲子園球場がありましたが、野球には縁のない私は唯の大きな建物としてしか意識せず、それが野球界の憧れの場所だということを知ったのは随分後になってからです。
私の母はといえば、大阪の生命保険会社の医務室に勤務をしていて、長い通勤時間にはかなりのエネルギーを費したと思われます。時々私は母の務めている医務室に連れて行かれた記憶があります。大きなビルのたしか4、5階にある小さな一室でした。会社の職員が医務室を訪れて、母の診察を受けたり、よもやま話をして息抜きをしていたのだと思います。
わたしの新しい生活が始まってから一年間は、楽しくてちょっと寂しい小学四年生の暮らしでした。




