9 一番の本音
その次の日も、旬からの着信とメールが何件も入っていた。しかし、奈津美は相変わらず、電話に出ることも、かけ直すことも、メールを開くこともしなかった。
そして、旬と連絡をとらないまま、その翌日。
奈津美はもう携帯の電源を切って一日を過ごした。電源を入れていたら、いちいち気にしてしまいそうだから……
この日の夕食は、前から約束していたカオルとの外食だった。雑誌に載っていた、和食の創作料理の店だ。
二人はいつも通り、何気ない会話をしていた。
「そう言えば、奈津美」
笑っていたカオルが、ふと真顔になる。
「彼氏君とちゃんと話したの?」
奈津美の箸がピタッと止まる。カオルには、あれ以降そのことについて何も言ってない。
「……話してない。ていうか、メールも電話も無視してるし」
奈津美はカオルの方は見ず、そう言った。誤魔化すように箸を動かし、料理を口に運んだ。
「え……」
今度はカオルの方の箸が止まった。
「話してないの!? 何で!?」
カオルは身を乗り出すほどの勢いで聞いてくる。
奈津美は何も言わず料理を食べる。
「ちょっと、奈津美!」
カオルの厳しい声を聞き、奈津美は箸を止める。
「……分からないの」
小さなため息混じりに奈津美は呟いた。
「分からないって……何が?」
「旬に、何を言いたいのか……分からない」
奈津美の言葉に、カオルは黙って眉をひそめた。
「例えば、三日前のことを謝るにしても……どう謝ればいいのか分からない」
「何で……どういうこと?」
「……色々考えたら、あの時出てきたのは、本音だったのかもって。だって、普通思ってもないことなんて口から出てくるはずないじゃない? だから、自分でも気付かないうちに、旬に対してああ思ってたのかなって……」
奈津美の口許には、苦笑混じりの笑みが浮かぶ。
「だいたいさ、旬だって流石に嫌気さしたと思うんだよね。勝手にキレて、いつも以上にあんな口汚くなって、言うだけ言って後は無視。あたしだったら、こんな女嫌だもん。このまま付き合っても、お互いストレス溜りそうだし……そろそろ別れ時かなーって」
軽く笑い飛ばして、奈津美は言った。しかしそれは、単なる空元気のように虚しく聞こえる。
「いいの?」
カオルは、静かに口を開いた。
「奈津美は、本当にそれでいいの?」
あまりの真剣さに……いや、多分それは関係なく、奈津美は固まってしまった。自分でも何故か分からない。
大きなことを言っておきながら、いざ面と向かって確認されたら、口が動かなかった。『うん』と頷くことだけもできなかった。
見兼ねたカオルは小さくため息をついた。
「あたしは奈津美と彼氏君は、すごくお似合いなんだと思ってた。奈津美、いつも何だかんだ文句言いながら楽しそうだもん。彼氏君の話してる時」
「え?」
カオルのいうことの意図が掴めず、奈津美は更に言葉を引っ込める。
「それに、奈津美の話の彼氏君も、奈津美のことがとにかく好きなんだなあって……あたしはそう思ったけど?」
「ウソ……どこが?」
奈津美は、少し驚いた。今まで、カオルに話したことは、旬の愚痴というか、どちらかと言えば陰口っぽい(そこまでひどくはないが)。それのどこに旬の気持ちが分かる要素があったというのか……
「奈津美が楽しそうだから。奈津美、前の彼氏と付き合ってた時はそんなに楽しそうに話してたことないし」
カオルは、簡潔に同じことを言って応え、更に続けた。
「だから、奈津美はよっぽど彼氏君のことが好きで、彼氏君は奈津美をそういうふうにさせるぐらいに、奈津美のことが好きなんだって、あたしは思ってた」
カオルは、お茶を一口飲み、また更に続ける。
「別に奈津美はそうじゃないっていうなら、それで別れるって言うんなら、あたしは何も言えないけど……当人同士のことだし。でもやっぱりちゃんと話してから別れなよ? 自然消滅とか、後々面倒なんだから」
最後の方は説得するような口調だった。
「……うん」
奈津美はやっと声を出し、頷くことができた。
カオルと別れて、奈津美はトボトボと帰路についていた。
じっくりと、考えてみる。旬と、奈津美自身のことを……
別れて後悔しないのか……と聞かれたら、正直どうか分からない。ただはっきり言えるのは、後悔しないとは言いきれないこと。
こんなこと、考えるのは初めてだ。旬と別れるなんて、考えたことなんてなかったのかもしれない。
『俺、ナツを振るなんてバカなこと絶対しないよ。だから、ナツも俺のこと振るなよな』
ふと、その言葉を思い出す。旬が口癖のように言うことだ。
それを聞くと奈津美は、『分かってる』と軽く曖昧に返事をしていた。
その言葉を信じてないというわけではないが、当てにもしていないというか、真に受けてはいなかった。
こんな会話は、付き合えば定番のものだと思っているのだ。
付き合っている時の絶頂期に、必ずと言えるほど男からそんなことを言われてきたからだ。
『俺たちは絶対別れることなんてないよ』
『俺には奈津美しかいないから』
『俺のことは信じてくれて大丈夫』
男達は簡単に永遠を約束するような言葉を口にして、そのくせ別れる時はそんなことを忘れたかのように別れの言葉を言う。また、下手したら浮気をする。それが奈津美の今までの経験からの見解だ。
そして、それを真に受けてしまうと、別れた時に後悔する。別れ方によれば悲しさが倍増する。もしくは、『何であんな男の言うことを信じたのよ!? あたしのバカ!』と、腸が煮え繰り返りそうなほどの苛立ちに見舞われる。(奈津美は比較的後者の方が多い)
だから、奈津美は、こういう話題になった時は、適当にやり過ごす。
それに、好き同士付き合っていれば、お互いにそんなことを思うのは、当たり前だと思う。それをわざわざ口に出して確認するようなことは、奈津美は好きじゃない。
奈津美としては、そんな言葉がなくても、信用できる態度というか、ちゃんとした気持ちが分かれば十分だ。
……旬は……そう考えると旬は、口にしてもしなくても、そういうのは伝わる。むしろ、いつでもどこでも、露骨なくらいに態度にも言葉にも……体全体で奈津美に対する気持ちを表している。
あんな奴と、初めて付き合った。あんなに、バカみたいに素直な男……
旬は……一度でも、ほんの一瞬でも、何でこんな女と付き合ってるんだろう、とか、思ったことはないんだろうか……
そんな様子は、奈津美の知る限り一度も見たことがない。奈津美が気づいていないだけなのか、もしくは、本当に一度も思ったことがないのか……
流石に、今回のことで、少しは思っただろう。
奈津美は、携帯を取り出した。
今日はずっと落としていた電源を、やっといれる。
操作をし、受信ボックスを開いた。旬からの未読のメールが……数えてみると二十件になっていた。
奈津美は、それを古いものから、順番に開いていく。
まず最初は、二月十四日十七時五十八分。奈津美が旬を追い返した後だ。
『今日は本当にごめん!
俺、ナツのことちゃんと考えてなかった。ナツが怒るの当たり前だよな。
本当にごめん!』
とにかく謝っているようだ。あの場の流れでは、とりあえずそうするしか思い浮かばなかったのだろう。
そして、次が深夜一時過ぎ。
『ナツ
ちゃんと謝るから、電話したい。いつでもいいから、電話下さい』
奈津美は次々とメールを開いていった。
『ナツ
メールだけでいいから、返事欲しい。
いつでもいいから。俺待ってるよ』
『ナツ。本当にごめん。
許してくれなくてもいいから、話したい』
その後も似たようなメールの内容だった。
『ごめん』
『ちゃんと謝りたい』
『話したい』
『連絡ほしい』
そんな内容が繰り返されていた。
奈津美に対して、責めたり怒ったり、そんな言葉は一切使わずに……
あんなに自分勝手なことばかりして、ひどいことを言ったというのに……
そうだ……
旬は、そんなこと言ったり、ひどいことはしない。
そんなこと、分かってたはずなのに……
『流石に嫌気さしたと思うんだよね』
どうしてあんな風に言えたんだろう。
奈津美は、ゆっくりと携帯を操作し、メールの問い合わせをする。
電波状況が悪いせいで『接続中』という文字が長い時間点滅している。
もしも、旬と別れたら……
奈津美はそれを想像してみる。
もしも、旬と別れたら、もう旬とは、連絡をとることはないだろう。それは分かる。
このままの別れ方だと、別れてからも友達としてなんて、付き合える自信がない。
旬からの電話もメールも、もうなくなると考えたら……例えば今の、問い合わせているメールが、旬から一通もきていなかったら……
奈津美の頭が真っ白になる。足も、無意識に止まった。
嫌だ――
この時奈津美は初めて気付いた。自分の中の、旬の割合の大きさに――
バイブがなった。
メールが来ていることを知らせている。
受信メールは四件……
奈津美は受信ボックスを開いた。
沖田旬の名前が4つ、並んでいた。それを見て、奈津美は、泣き出しそうなぐらいに安心した。
そして、それを順番に開いていった。
今日の一件目は朝九時過ぎ。内容は、昨日までと同じような、ごめん、というもの……
二件目を、開いて、奈津美は目を見張った。
今までと少し違い、今までで一番短かった。
『ナツに会いたいよ』
たったそれだけの一文……
たったそれだけでも、旬が伝えたいことは充分に分かるものだった。
奈津美は本当に泣きそうになるのを必死に堪えて、次のメールを開いた。
次のメールは、午後五時半過ぎ……丁度、奈津美が遅めに仕事を終えていた頃だ。
『今からナツの家に行くよ』
奈津美は目を丸くして今の時間を見た。午後九時四十七分……もう四時間以上経っている。
どうしよう……
何でこんな時に、電源を切ってしまっていたのだろう……
奈津美は今更になって後悔した。
そして、あと一件……七時前に来ていたメールを開くと――
奈津美は携帯を握りしめ、走り出した。
『――もしそれで別れることになるんなら、彼はそれまでの相手だったってことでしょ』
走っている奈津美の頭の中に、カオルの言葉が響いた。
――怖かったんだ。それを思い知るのが……
もし、旬と話をしても、別れることになったら、奈津美にとって旬は『それまでの相手』だということ……
それを、知りたくなくて、奈津美は旬を避けてしまった。
そんなことをしたからといって、状況がよくなるというわけでもないというのは、分かっていたはずなのに……
旬からのメールは、またシンプルな一文だった。
『俺、ナツが帰ってくるまでずっと待ってるよ』
奈津美の今の気持ちは、きっと旬と同じ……同じだと、奈津美は信じている。
――旬……ごめんね。
――旬に、会いたい……