8 喧嘩の意味
「気持ち悪……」
翌日、奈津美は胃のムカつきを抱えながらも出勤した。
ロッカールームで着替えながら、何度も同じように呟いている。
「そりゃそうでしょ。ヤケ食いでケーキをホールで食べたんでしょ?」
奈津美から昨夜の話を全部聞いたカオルが、呆れたように言った。
「本っ当……朝来てビックリしたわ。別人かと思った」
「どういう意味……」
「だって顔ヒドイし。顔むくみまくり、目腫れまくり、隅もできまくり。一晩で何があったの? ってぐらい顔違うわよ」
カオルの言葉に、奈津美は何も返せなかった。
全部本当のことだ。
昨夜、旬が帰ってしまって、一人で玄関で泣いた後……奈津美は、悲しいのと寂しいのと悔しいのと……たくさんの感情を『食』にぶつけた。
二人で食べるはずだった夕食を、二人分全部食べ尽し、旬に渡す予定だったチョコレートケーキも、ホールで丸ごとがっついた。しかも泣きながら……
そして食べたらそのまま寝てしまい、朝起きた時にはひどかった。
目が開かないほど腫れてしまい、お岩さん状態。鏡で見てみるともっとひどく、顔もパンパンで、ぐっすりと眠れなかったせいて目の下にはびっしりと隅ができていた。
カオルの言った通り自分でも本当に別人かと思った。
しかも食べ過ぎで胃がもたれている。
こんな顔でこんな体調で、仕事に行きたくない。そう思ったが、そんな理由で休むわけにもいかない。奈津美は、熱いシャワーを浴びて、化粧をし、胃薬を飲んで、何とか出勤したのだ。
「あー……吐きそう」
「大丈夫? ていうか、太るわよ」
カオルは、嫌なことを言ってくる。でも、現実だ。
昨夜はそんなこと気にせず、勢いで食べた。夜にあんなに食べて、しかもケーキを食べたら、恐ろしいことになる。
体重、体脂肪、贅肉、ニキビなどの吹出物が増える……最悪だ。
旬だったらあれだけ食べても太らないし、肌だって綺麗だ。
何で旬はいつも平気なの……
そう思って、はっとする。……無意識に旬のことを考えていた。
最悪……
奈津美は深く溜め息をついてうなだれた。
「ねえ、大丈夫? 本当、休んだ方がいいんじゃない?」
よっぽど気分が悪いと思ったらしく、カオルが奈津美の背中をさすった。
「……大丈夫。ちょっと、ギリギリまでここにいるから……」
顔を上げず、奈津美はカオルにそう言った。
「……分かった。じゃあ先に行ってるね」
奈津美を気遣ってそう言うと、カオルはそっとロッカールームを出て行った。
一人になって、奈津美は大きなため息をついた。
一体何をしているんだろう……
旬に勝手に腹を立てて、追い返したはずなのに、思わず旬のことを考えてしまっている。きっと、癖になっているのだ。
奈津美は、鞄から携帯を取り出して開いた。不在着信が三件、メールが十件……全部旬からだ。でも、奈津美はかけ直すことも、メールを開くこともしなかった。
携帯を閉じ、鞄に放り込み、奈津美は顔を上げた。
鏡を見ると今の自分の顔が映り込む。相変わらず、ひどい顔をしている。
朝に比べればましになったものの、まだ腫れぼったい目、むくみもとれていない。目の下の隈は、ファンデーションとコンシーラーで必死に隠そうとしたが、今日は化粧のノリが悪いせいで隠し切れてない。
もう一度ため息をつくと、奈津美はロッカーを閉め、オフィスへ向かった。
「一回彼氏君と話した方がいいんじゃない?」
昼休み、食堂でカオルに言われた。
奈津美は、まだ胃の具合が悪くサラダを食べていたが、カオルの言葉によって更に食欲が失せた。
「彼氏君からメールとか来てるんじゃないの?」
着信やメールのことは言っていないのに、カオルは鋭く言い当てた。奈津美は言葉に詰まる。
「奈津美の気持ちも分からなくはないけど……あたしもつい彼氏に当たる時あるし……そんな場面見たんなら尚更ね……でも、言い過ぎたって思うんなら奈津美も悪いよ。わけも言わずに追い返されて……彼氏君、絶対困惑してるって」
カオルの言うことは尤もだと、奈津美には分かっている。
むしろ『奈津美も悪い』ではなく『奈津美が悪い』ということも……
「……でも、旬に何ていったらいいか分かんないし……また当たっちゃいそうだし」
奈津美は俯いて小さくそう言った。
「……奈津美達って、もしかして喧嘩とか、言い争いとか……したことないの?」
カオルが驚いたような顔をする。
それを言われて、奈津美は考えてみる。
喧嘩……という喧嘩は、したことないのではないか。
パスタ屋の会計でもめたことはあるけれど、それはすぐに解決したし、あれ以上で険悪なことになったことはない。
そもそも、だ。
「あたしって……旬の前までも、別れる時以外で彼氏と喧嘩したことないかも……」
「ウソ……?」
カオルは目を丸くした。
「……ていうか、喧嘩が原因で別れる、みたいな感じだったかも……」
思い起こしてみれば、今までの別れのパターンは大体同じだ。
まず、何かで言い争いが始まる。それは些細なことだったり、よくある浮気をしたしてないの話だったり、様々だったが、言い争いになると、奈津美がつい素を曝け出し、罵詈雑言に近い言葉を浴びせる。そしてその後はこうだ。
『お前そんなこと言う奴だったのか?』
『お前と付き合ったのが間違いだったよ!』
『もうお前みたいな奴は無理……』
唖然、逆ギレ、ドン引き……リアクションは個々だったが、そんな言葉と共に別れてきたのだ。
だから、奈津美には喧嘩して仲直りという感覚がよく分からない。
「奈津美……それなら尚更ちゃんと話すべきだって。喧嘩って別れるためにするものじゃないんだから。月並みだけど、お互いを理解するためのものだと思う。ていうか、ある方が普通よ」
「そうなの?」
カオルの言うことに、二十三にして、目から鱗、という気分だった。
「そうよ。一回もしたことないって人達もいるにはいるだろうけど。でも、あたし達だってするし。」
「そうなの!?」
奈津美は驚いて目を丸くする。カオルと彼氏は、順調に付き合っているイメージがあって、喧嘩なんて一度もしたことはないと思っていた。
「そりゃあるわよ。まあ、大抵は本当に下らないことだけど。デートの前日にいきなり仕事入ったとか、向こうがストレスたまってて虫の居所が悪かったとか」
「えー……それで、そういう時はどうするの?」
奈津美は、興味津々という様子でカオルに尋ねる。
「どうって……奈津美、本当にひどい喧嘩の仕方しかしたことないのね……」
カオルは、もう呆れたような表情になる。
「別に普通よ。言いたいこと言うだけ。それから、相手の言いたいこともちゃんと聞く」
「それだけ?」
「それだけ」
きょとんとした様子の奈津美に、カオルははっきりと頷く。
「それって、素で? 結構キツイこといったりする?」
「そりゃするわよー。だって、いくらなんでも一度も素も本音も出さなかったらストレス溜るでしょ。お互いに」
「……うん」
確かに、今まで言いたいことを我慢していたが故に、言葉が酷くなるという節はあるかもしれない。
旬に向けてしまった言葉も、きっとそうだった。
「でも、それは自分がただぶつけるだけじゃなくて、相手の言うこともちゃんと受けとめて初めて成立するの。それで、自分の通したい所は通す、逆に相手の意見を尊重して妥協するところはする。……そんな感じよ」
まるで解説者のようなカオルの言葉を、奈津美はただ黙って聞いた。そしてカオルは、更に続ける。
「男女だからっていう前に、そういうのって人間関係として必要なものじゃない? 単純に、人と付き合うんだから、他人に受け入れてもらうことも他人を受け入れることも」
なるほど、と奈津美は思う。とても説得力がある。
「……でも、どうしても受け入れられなくて、受け入れてもらえないって場合もあるだろうし……その時は本当に合わないってことでしょ。だから奈津美」
カオルの視線がいきなり奈津美に向き、何となくぎくりとした。
「彼氏君とちゃんと話して、彼氏君が奈津美にとってそういう相手なのか、ちゃんと見極めてみたら? もしそれで別れることになるんなら、彼はそれまでの相手だったってことでしょ」
本当に、カオルの言うことには説得力がある。
今までの彼氏がいい例だ。些細な言い争いから、お互いの本心を知り、相手はその奈津美を受け入れてくれなかったわけで、奈津美もまた、相手を受け入れようとしていなかった。
要はそれが『そこまでの関係』だったということだ。 奈津美と旬も、そうなってしまうのだろうか……それは誰にも分からない。