7 アンバランス
本日、二月十四日。バレンタインデー。
午後五時。定時に仕事を終えた奈津美は、ロッカールームで制服から私服に着替えていた。いつもよりもてきぱきと身仕度を整えている。
「奈津美、今日は早いわねぇ」
カオルはいつも通りのペースで着替えている。
「ケーキ作らないといけないから」
奈津美はそう言いながら着替えを終える。そして皺にならないように制服をきっちりとハンガーにかける。
「ああ。それに今日はお泊まりだもんねー」
カオルがからかい顔で奈津美を見る。
「べっ別にそれは関係ないから!」
ほんの少し頬を赤くして奈津美は言い返す。
「でもどういう風の吹き回し? お泊まりOKしたのって」
「……まぁ、イベントの時ぐらいはいいかなって思ったの」
『何となく、会いたくなったから』なんていくら友達でも、というか友達だからこそ恥ずかしくて言えない。
「へ〜。まぁ普通はやっぱりそういうもんよね。いいなぁ…やっぱりあたしも今日会いたかったなぁ」
「でも週末会うんでしょ?」
「うん……でもやっぱり世間がバレンタインムードの中で一緒に居たいじゃない。まぁ、ワガママは言えないけど」
「確かにねぇ……あっ、じゃああたし帰るね!」
奈津美は時計を見て、急いでロッカーを閉めて鍵をかける。
「じゃあね。お疲れ様!」
「お疲れー。よい一夜を」
そんなカオルの声を背中に受け、奈津美は早足でロッカールームを出た。
奈津美は家に帰って、大急ぎでケーキ作りを始めた。
この前はとっさに思い付いた言い訳でケーキをゆっくりめに作れるからと言ったが、本当ににそうしてよかったと思う。夕方、帰って来てからしか作る時間がないので、もし会って渡すだけなら昨日のうちに作って、今日、ラッピングしてまた出掛けるという面倒臭いことになってしまっていた。
……そう考えてしまうと、やっぱり自分勝手な理由だろうか。旬の家でなく奈津美の家にしたのは、自分の家なら泊まりにしてもあまり疲れないからだし、バレンタインに旬の部屋の掃除というのもムードがないと思ったからだ。
まぁ、旬だから泊まりならどっちの家でもあまり気にしていないだろう。そう思っていいことにした。
一時間半ほどでケーキはできあがった。チョコレートの生クリームでデコレーションも完璧だ。
時計を見てみると、六時半前だった。
旬は今日、夕方にバイトが入っているので、そこから直接来る。六時に上がるから、六時半頃には来ると言っていた。
もうすぐ来るだろうと思い、奈津美は先に夕食の支度を始めた。
それからまた一時間。旬はまだ来ない。
夕食の準備は、とっくにできてしまった。
遅い。いくらなんでも遅すぎる。携帯を見てみても、メールも何も来ていない。
バイトが長引いてるんだろうか。だとしても遅すぎではないだろうか。
旬が連絡もなしにこんなに遅れるなんて珍しい。いつも約束の時間よりもやたら早いことはあっても、遅れることなんてめったにない。
奈津美は出るか分からないが一応旬に電話をかけてみる。
「おかけになった電話は、電波の届かない所にあるか――」
受話器の向こうで聞こえたのは、そのアナウンスだった。
奈津美は少し心配になってきた。
確か、夕方のバイトはカフェだと言っていた。そこはここから歩いて十五分ぐらいの所……
行ってみようか。奈津美は思い立って、すぐにコートを手に取って部屋を出た。
と、思わず出てきてしまって、ちょっとこの行動はやりすぎだろうかと、奈津美は思った。でも、連絡が取れないわけだし、バイト先かそこから来るまでに何かあったのかもしれない。
それで迎えに行くのは自然なことだ。……と思う。
一応、奈津美はメールを送っておくことにした。
『まだバイト?何かあった?
今から迎えに行くからね』
さっき電話して繋がらなかったけれど、念のためだ。
何か理由があって連絡できなかったのならしょうがない。ただ、何もないなら早く安心したかった。
もしかしたら、途中で旬に会うかもしれないと思ったが会うこともなく、奈津美は旬のバイト先のカフェの前まで来てしまった。道中も別に何かあったという様子もなかった。
ふと見てみると、店の看板の入り口に
本日バレンタイン割引
カップルのお客様・二人で200円引きです
という看板があった。中を覗いてみると、カップルの客がたくさんだった。
この店は、地元ではケーキが評判で若者の客が多い。そんな店がこんな割引セールをやっているのなら、客も普段より多くなるだろう。
それで遅くなったのかな?と奈津美は考える。それなら多目に見てやろうと思いながら、奈津美は店の中に旬の姿を探してみた。
しかし、忙しく動いている店員の中には、旬の姿はない。
丁度上がったとこなのだろうか。
奈津美は、もう一度電話してみようかと、コートのポケットの中の携帯を取り出した。
その時だった。
店の脇道から、見覚えのある姿が出てきた。
旬だ。きっと従業員用出入口から出てきたのだろう。
「しゅ……」
奈津美は、呼ぼうとして途中で固まった。
旬はその場に立ち止まって後ろに振り返った。そして、旬が出てきた所から、旬を追い掛けるようにして誰かが出てきた。可愛らしい風貌の女の子だった。
二人は、仲良さげに話し始めた。
誰……?
旬と同い年ぐらいで、背も小さくて、明るめの茶色にパーマをかけた髪型がよく似合っている。そして何より、小さな体と対照的に胸が大きい。
多分、同じバイトの娘だろう。
それは何となく感じとれたのだが、奈津美には、彼女と話す旬は、とても楽しそうに見えた。旬は人見知りをしないし、誰とでも基本的にはあんな風であるのに、奈津美にはそれが変に不愉快に感じた。
なのに声も掛けられず、奈津美はただ二人を見ていた。
女の子の方が鞄から、ラッピングされた小さい袋を取り出し、旬に差し出した。明らかに、バレンタインのチョコレートか何かだ。
旬はそれを笑顔で受け取った。
貰うんだ……
奈津美は目の前の光景をただ呆然と見つめていた。
最後に、二人は一言二言交わし、手を振って別れた。女の子の方は、奈津美がいる方の反対側へと消えていく。
そしてすぐに、旬の視線が奈津美の方へと向き、目が合う。
「あ! ナツ!」
旬は、ぱあっと表情を明るくして奈津美のもとへ走ってきた。
「ナツ! 何でここにいんの? もしかして迎えに来てくれた?」
「……うん」
奈津美は無表情で頷いた。
『何でここにいんの?』
メールを送ったはずなのに、そう聞かれてしまった。
「あ、ごめんな? 今日、夜からの奴がインフルエンザで急に来れなくなったらしくてさ、バイトの時間延びたんだ」
旬が申し訳なさそうに言う。だから奈津美も、
「そうなんだ」
としか言えなかった。
「でも嬉しー。ナツがわざわざ迎えに来てくれるなんてさ」
緩みっぱなしの表情で、旬が言った。それにつられて奈津美の表情も緩むが、それでも心の中の変に残ったもやもや感はなくなっていない。
「んじゃ帰ろ♪」
旬が奈津美に手を伸ばした。
ほんの一瞬躊躇ってしまったが、気付かれないように奈津美は旬の手を取った。
「今日バレンタイン割引ってやっててさぁ」
歩きながら、旬はいつものように話し始める。
「うん。書いてあったね。200円引きだっけ」
奈津美はできるだけ普通を装って相槌を打った。
「そう。だからいつも以上に人居てすっげー忙しかったんだ。しかも皆カップルだし。……あーぁ。せっかくのバレンタインなのにとんだ災難だよ」
「……しょうがないでしょ。そういう仕事なんだから」
奈津美はそれもいつも通りに言ったつもりだった。
「……ナツ、何かあった?」
旬が奈津美の方を見て、いきなり言った。
「え……」
「この間電話した時も思ったけど……やっぱり元気ないっぽいし」
旬はやっぱり鋭い。
でも、こんな奈津美自身いまいちよく分からない変な気持ちを、旬には言えなかった。
「そんなことないわよ。確かにちょっと仕事の疲れが溜ってるかもしれないけど、別に大したことないから」
無理矢理言い訳を作って、奈津美はわざと明るい声を出して言った。
でも、旬の目を見ることはできなかった。
「仕事きついの?」
旬は労るような、心配するような口調で尋ねる。
その言葉に、奈津美の心が染みた。
「大丈夫。やらないといけないこともちゃんと片付いたし、あとはいつも通りだから」
旬に心配をかける嘘にそれを解消するための嘘を重ねた。なんて最低なことをしてるのかと、自分で自分が嫌になった。
思っていることを、気になっていることを、それとなくでも言えれば楽になるだろうか……
「そういえば……旬。携帯、電源切ってたの?」
連絡が取れなかったことを聞こうと思って、奈津美はそのことに話題を変えた。
「あっうん。そうだ、俺充電切れかけだったから切ってたんだ。あ、もしかしてナツ、電話くれてた?」
「……うん。メールもしたんだけど」
「マジで!? ごめん、まだ見てなかった」
旬はそう言ってダウンジャケットのポケットから携帯を取り出す。
奈津美は、段々とイライラしてきた。
「……普通、それが先じゃない?」
必死に感情は抑えて、奈津美は旬に言った。
「え……?」
旬はきょとんとして奈津美を見る。
「女の子と話す暇はあっても、あたしに連絡しようとは思わなかったの?」
言うまいと心がけた一番言いたくなかったことが口から出てしまった。
「女の子…? あ、見てた? あれ、同じバイトの子だよ。一緒にとばっちり受けたんだ」
旬は事も無げにそう言った。
そんなこと、大体分かってる。でも、旬の口からあっさりと、奈津美以外の女と『一緒』という言葉が出てきたことが、ショックだった。こんなちゃちなことにまで反応してしまう。
「ああいう子、旬の好きそうなタイプよね」
胸のあたりなんか特に、と心の中で付け加えて奈津美は皮肉のつもりで言った。
「えー? まぁ、顔は可愛いとは思うけど、別にタイプではないって」
旬はそれに気付かず、いつものように返してくる。
「でも、バレンタインの……チョコか何か貰ってたじゃない?」
「貰ったけど……でもあれは義理だから貰っただけだよ。彼氏に作ったクッキーが余ったからって。皆にも配ってるし、あんまり形もよくないやつだけどって言ってたから貰ったんだ」
少しも悪いとも思っていないような口調だった。
実際、嘘をついているわけでもないのだし、旬に悪いところなんてない。
なのに、奈津美のイライラした気持ちは、どんどんひどくなっていく。
「あ、もしかしてナツ、ヤキモチ?」
奈津美の心境に気付くわけもなく、旬はニッと笑って言った。
「……別にそんなんじゃないから」
いつもより、声が低く重くなる。これだともともとない可愛げが、本当になくなっている。
「ナツ、心配しなくても俺にはナツだけだって。ナツが居れば、俺は生きていけるから」
旬はいつものように笑ってそう言った。
いつもなら、それで奈津美も赤くなりながら『何言ってんの』と言えるはずだった。なのに、今は、そんな風にできなかった。
苛立ちだけが、募っていく。
奈津美は、黙って立ち止まった。
「ナツ?」
半歩ほど前に出た旬が、奈津美の方に振り返った。
「何ヘラヘラしてんの……?」
また声のトーンが下がっている。明らかにいつもの様子じゃない。
「え……?」
旬も奈津美の異変に気付いたが、それでも理由が分からずただ呆然としている。
「少しは悪いとか……申し訳なさそうな態度はとれないの?」
語調も声も、荒くなっている。こんなひどい自分は初めてだった。
「あたし……不安だったんだからっ。旬が……いつも時間通りになのに連絡もなく一時間以上も遅れて……電話しても繋がらないし……心配したんだからっ!」
こんな責めるような言い方はよくないとも、やめないといけないとも思っている。でも止まらない。
「あたしが……そういうの思わないとでも思ったの? 旬が何時間遅れても、平気な顔して、簡単に許すとでも思ってんの!?」
奈津美の荒げた声に、道行く人間が振り返ってまで二人を見る。
そんな好奇の視線も、今の奈津美には気にならなかった。
「そんなことないっ! ごめんっ……俺、そこまで考えられなくて……でも連絡できなかったのは、客が多かったから時間なくて……終わってから、ナツの家まで走りながら電話しようと思ったから……その前に呼び止められて……」
「もういい!」
旬が必死に言っているのを、奈津美は無理矢理遮った。
旬の言葉を、冷静になって素直に聞けばよかったのに、奈津美にはできなかった。
「何が『ナツがいれば生きていける』よ。そう言えば機嫌とれるとでも思ってるの!? どうせ旬はあたしが身の回りのことをやってくれるから、あたしがいないとダメなんでしょ!? そんなの別にあたしなんかじゃなくてもいいじゃない!」
「ナツ……違うよ……」
「何であたしがこんな思いしないといけないの!?」
奈津美は、もう旬の言葉を聞こうともできなかった。ただただ、自分の感情を剥き出しにして、思ってもないことばかりが口から出てしまう。
「旬の部屋の掃除も……料理も洗濯も、あたしがやってくれて当たり前って思ってんの!? あたしは旬の母親じゃないのよ!」
そこまで言い終わった後、奈津美は肩で息をしていた。旬を見ると、悲しげな目をして、まるで叱られた子供のような表情をしていた。
奈津美は、その顔を見たくなくて、うつむいた。
「ナツ……ごめん。ごめんな……」
そう何度も旬は謝りの言葉を繰り返した。
旬は悪くないのに……悪いのは、自分なのに……
「もう嫌……これじゃあ、あたしばっかりが旬のこと好きなだけみたい……」
奈津美は、小さくそう呟いた。
「え……?」
奈津美は、旬の手を振り解いて走り出した。
「ナツ……!」
旬は大声で奈津美の名前を呼んだ。
それでも、奈津美は、振り返らずに、逃げるように走った。
「ナツ! 待って!」
後ろで旬の声が何度も聞こえた。
でも、奈津美は立ち止まりも振り返りもせずに人混みの隙間を縫って、走り続けた。
コーポの階段も駆け上がり、奈津美は部屋へ向かった。
下の方で、足音がする。旬がここまで追い掛けて来ている。
何で来るの……
そう思った。でもきっと、追い掛けて来なかったら、確実に『何で来ないの!?』と、思っていただろう。
奈津美は、そんな自分勝手さに、更に嫌気がさした。
旬が来る前に、奈津美は急いで部屋の鍵を開けて中に入った。そしてすぐに鍵を閉めてチェーンをかけた。
急に止まったせいで汗が吹き出して、久々にこんなに走ったせいで足がガクガクしている。奈津美はドアにもたれかかった。
「ナツ!」
ドアの向こうから声がして、同時にドアノブがガチャガチャと音を立てた。
奈津美はビクリと肩を震わせた。
「ナツ……ごめん……」
走ったせいか、旬も荒い呼吸でそう言った。
「俺……ナツがそういう風に思ってたとか、全然考えてなくて……」
旬は、奈津美の言葉にも行動にも、一言も疑問や責めるような言葉を発しなかった。
きっと、奈津美の言ったことを、そのまま受け取ったのだろう。旬は素直だから……
「ねぇナツ……開けて……入れてよ」
旬の切なげな声が聞こえた。
ここでどうして旬のように素直になれないのだろう。
「……帰って」
奈津美の口からは、冷たい言葉しか出なかった。
「ナツ……」
「帰って。旬の顔……見たくない」
今、旬に会ったら、また責めてしまいそうで、そんな自分が嫌になって、また責めて……悪循環に陥りそうだったから……
「帰って……」
奈津美は絞り出すような声になっていた。
ドアの向こうの旬は、しばらく何も言わなかった。
そして、そのまま何も言わず、ゆっくりとその場を離れる音が聞こえた。旬の足音が、遠ざかっていく……
旬の足音が聞こえなくなると、奈津美はその場にへたり込んだ。
「……ふっ……うっ……」
奈津美は涙を溢していた。
泣くのはいつぶりだろうか。奈津美は、嗚咽を漏らしながらただ泣いた。
自分が堪らなく嫌になった。
結局は自分中心だ。
今日は、奈津美が会いたいから、わざわざ旬に来てもらったはずなのに……安心したかっただけなのに……逆に不安になって、旬に当たって……何をしてるんだろう。
旬に言われた通り、ただ、あの女の子に妬いてしまっただけだ。それだけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
旬に言ったことは、全部が全部、本音ではない。あそこまでひどくは思ってない。
……なのに、弁解もせずに逃げて、追い掛けて来てくれた旬も、追い返してしまった。
もう無理なのかもしれない……
そう思って奈津美は更に泣いた。