4 難しい彼氏
仕事の帰り、奈津美は家までの途中にあるドラッグストアに寄った。
新しい口紅を買うためだ。しかし、折れてしまったのと同じ、奈津美が好きなブランドの欲しい色が無かった。仕方なく別のものを買って、奈津美は店を出た。
冬の夜の空気に、奈津美は白いため息をつく。
やっぱりショックだ。別に旬を責めるわけではない。責めてもしょうがない。それは何度も思ってる。
思ってる時点で責めているようなものかもしれないが、絶対にそれを表に出すわけにはいかない。
少なくとも、旬の前では。
それは、年上としての意地と言ってもいい。
何となく、なのだが、奈津美には、年上なら年下に対して、寛容でないといけないという意識がある。年上なら、年下に対しては常に余裕を持って、冷静で、しっかりしていようと思っている。
旬の前でも、一応は年上のしっかり者として振る舞っている。出会いが出会いなだけに、そうする必要なんてないのかもしれないが……
年上女と年下男の場合、付き合い方が難しいと奈津美は思う。年下の男と付き合うのは、旬が初めてだ。だからよく分からない。
例えば、食事に行ったりした時なんかがそうだ。
会計の時、旬とだと、奈津美の方が多めに払うことが多い。旬は、男だからと払いたがるのだが、年下に奢らせるのは、何だか気が引けるのだ。
まだ旬がちゃんとした職に就いていたら別かもしれないが、フリーターで金欠の時が多い旬に払わせるわけにはいかない。
こんなこと、今までにはなかった。
今まで付き合った男は、同い年か年上で、同い年の場合は殆どが割り勘、誕生日とか特別な日だけは、奢ってもらう。年上だと、奢ってもらうのが当たり前という感じだ。
勿論、同い年にしろ年上にしろ、奢ってもらう前提でいるわけではなく、まずは断るし、少なくとも少しは出そうとする。
それでも『今日は誕生日だから』とか『普通は男が払うもんだろ?』とかさりげなく言われたら、女の立場に甘えてしまえる。
ところが年下の……旬との場合そうできない。安心して、甘えることができない。
一度、旬と出掛けて、昼食にパスタの専門店に行った時のことだ。
ファミレス並の安価だったので、二人合わせて二千円以下だった。これくらいだから、奈津美が全額払おうと伝票を持って、会計を済ませようとレジへと行くと…
「俺が払う」
と、いきなり旬が言いだした。
「いいよ、これくらいだし」
一応旬がそう言うのはいつものことなので、奈津美は軽くあしらった。
しかし旬は、
「これくらいだから俺が全部払う」
と、財布を出そうとする奈津美の手を押さえた。
「いいってば。旬、お金ないんでしょ?」
いつも大体そうなので、奈津美はもう自分が払うつもりで旬の手を退けようとした。
「今日はあるよ。一昨日給料日だったから」
珍しく強く旬は言って、奈津美の手を離そうとしない。
「でも家賃とか払ったりしたらすぐなくなるって言ってたじゃない。気持ちはすごい嬉しいから。だから手、離して」
「やだ」
本当に珍しかった。旬がここまで強固な態度をとるなんてことは、あれが初めてだったんじゃないだろうか。
「……分かった。じゃあ旬の分だけ払って? あたしも自分の分払うから」
無難に割り勘にしようと、奈津美は旬にそう言った。
しかし、
「やだ。ナツの分も払う」
と、まるで我儘な子供のように旬は聞かなかった。
「……だから旬の分だけでいいってば」
奈津美もここはとりあえず旬の言う通りにしておけばよかったのかもしれない。しかし、奈津美も奈津美で強情に首を縦に振らなかった。
「俺が払う」
「だからいいってば」
「あ、いいって言った」
「そっちのいいじゃない! もうっ旬!」
子供のような言葉の応酬が続き、いい加減イライラしてきた奈津美は、キッと旬を睨んだ。
「……………ぷっ」
二人の目の前で、吹き出す音が聞こえた。
「あ、すっすいません!」
レジを担当していた若い女性の店員が、顔を真っ赤にして俯いた。その肩はふるえている。
無理もないだろう。目の前で、カップルがこんな馬鹿な言い争いをしていたら……それも、男と女の立場が逆なのだから。
この店員も、客の手前、相当我慢して吹き出したのだろう。
奈津美は、顔から火が出る思いがした。
あれは今思い出しても恥ずかしい……
旬も、きっと彼氏としての自覚のようなものがあって、ああしたのだろう。それは本当に嬉しいのだが……もうちょっとさり気なくしてほしい。あんなに強情にならなくたっても……
それは奈津美も同じだが。
よく考えたら、いくら相手が年下だからといって、あそこで素直に甘えられない女なんて、可愛いげがないのだろうか。というか、旬の前での自分は、可愛いげの『か』の字もないじゃないかと、今更になって奈津美は気付いた。
いつもピリピリして、小言を言って、気付けば『もうっ!』というのが奈津美の口癖になっている。
確かにこれが奈津美の気性ではあるが、男の前でこれはないだろう。せめてもう少し、作ってでも可愛いところを見せるのが普通じゃないだろうか……
どうして旬は、こんなに可愛いげのない自分と付き合っているのだろう……
考えていると、そんな疑問が湧いてくる。
「ナ〜ッちゃんっ♪」
突然、そんな聞き覚えのある声がして、後ろから何かがのしかかってくるような衝撃を受けた。
こんなことをするのは奴しかいない。それにこの声……
「旬!?」
「当たり〜♪」
ご機嫌な声が返ってくる。顔を横に向けると、すぐ横に旬の顔がある。
「もうっ……旬!」
早速口癖が出てくる。それに対し、旬はへへっとしまりのない顔で笑った。
「ナ〜ツ〜。こんなところで会うとか嬉し〜」
旬はそう言って、奈津美を後ろから抱き締める。もし本当に旬が犬なら、千切れんばかりに尻尾を振っているに違いない。
「もうっ……恥ずかしいから離して」
奈津美はそう言って、体に巻き付く旬の腕をほどいた。
勿論、ここは街中で、人の目も多い。皆ちらちらと二人の方を見ている。
「旬……誰か確認しないでいきなり飛び付くのはやめてっていつも言ってるでしょ。間違ってたら変質者になるじゃない」
そう……こういうことも初めてではない。
旬は、所構わず、奈津美を見つけると、それこそ犬のように飛び付いてくるし、しかも奈津美を驚かすためと、まず声をかけるとか、確認をしようとしない。
「俺がナツのこと間違えるわけないじゃ〜ん」
旬はいつも笑顔でそう言うが、他では本当に間違えたことがないのか、不安になる。
「ナツ、何してんの? 帰るところ?」
「うん。旬は?」
「俺はバイト。途中まで一緒に行こっ」
旬は奈津美の返事を聞く前に、奈津美の手をとった。
「うわっ。ナツ、手ぇ冷た!」
旬が驚いたように言って、奈津美の冷えた指先を握った。
「じゃあ……」
旬は奈津美の指を絡めて手を繋ぎ、その手を自分のダウンジャケットのポケットの中に入れた。
「これでよし! あったかい?」
旬が奈津美にそう聞いてきた。
「うん……あったかい」
奈津美は素直に頷いた。旬は、それを見て、満足そうに笑った。
本当に、暖かい。旬の手の熱が、奈津美の冷えた手に伝わってくる。ポケットの中も、旬の熱が籠もっていて、奈津美の手全体が旬の温もりに包まれているみたいだ。
こういう、カップルだと当たり前、ということが、奈津美は好きだった。学生時代に学生同士だったら当たり前にしていたけれど、社会人になったらなぜかそういうことをしなくなった。
多分周りの目も気になって、互いに気恥ずかしいというのがあったからだろう。
でも、旬との場合は違った。むしろ、旬がそういうことをしたがる。
そういえば、パスタ屋での出来事が原因で、それを知った。
「もうっ! 旬のせいですごく恥ずかしかった!」
パスタ屋を出て、二人は街中を歩きながら話していた。というか、奈津美が例の如くピリピリとしていた。
結局、あの場は奈津美がさっさと会計を済まし、逃げるように店を出た。他の客もかなり注目していたらしく、笑い声が聞こえた。
こんなに恥ずかしい思いをしたのは、本当に初めてだった。もうあの店には行けない。そう思っていた。
旬を見ると、不機嫌そうな顔をしている。なぜだか全く分からなかった。
「……旬。そんなに払いたかったの?」
この時は本当に、幼稚園児かと思った。何でこれぐらいのことでこんな喧嘩したような空気になるのか……
「ナツ。俺ってナツの彼氏だよな?」
いきなり旬はそんなことを言いだした。
「何言ってんの? そうじゃないの?」
というか、旬が勝手にそういうことにしたからじゃないのか。そう思いながら奈津美は言い返した。
「だって……何か違うじゃん。メシとか、いっつもナツが当たり前のように払うし」
その言葉に奈津美は目を丸くした。
「確かに、俺、金ないけどさ。さっきみたいに俺が出すって言っても、断って、ナツが払っちゃうし。……それに、デートの時、手も繋いでくんないし。今も俺側の手で鞄持ってるし」
「えっ……」
言われてみて、奈津美は確かに、そうだと気付いた。
今まで、何回かデートしたが、本当に一緒に出掛けて並んで歩くだけで、特に何ということはなかった。しかし、ここ何年かの奈津美にとっては、それが当たり前になっていた。
「ナツって、そういうの嫌いなの?」
旬のその言い方は、少し寂しそうだった。
「えっ……あ、別にそういうわけじゃ……今までそういう習慣なかったから……」
こういうことを言うのは気恥ずかしくて、奈津美は少し下を向いた。
「……嫌ってわけじゃない?」
旬は奈津美のことを覗き込むようにして聞く。
「うん」
奈津美は小さく頷いた。
「じゃ、繋ご?」
旬はそう言って手を差し出した。
奈津美は、黙って、少し緊張しながら旬の手を、ぎこちなく握った。
「へへっ」
旬は、これだけで、さっきまでの不機嫌そうな表情と打って変わって、とても嬉しそうな顔をして笑い、奈津美の手を握り返し、指を絡めた。
奈津美も、これだけのことだというのに、嬉しかった。久しぶりだったからだろうか、まるで初めて付き合った人と初めて手を繋いだ時のように、胸がときめいていた。
こういうのっていいな。と、初めてしみじみと感じていた。
思えば、旬と付き合い始めて、そういう純粋で素朴な恋愛も味わっている気がする。
やっぱり、旬が自分より若いからなのだろうか。そう思うと、奈津美は自分が急に老けたように思える。
「旬、今からどこのバイト?」
自分のネガティブな思考を、奈津美は何かを話すことで誤魔化す。
「居酒屋だよ。」
「……居酒屋って、あの?」
「そう。あの」
旬は、ニヤっと笑う。
それを見て、奈津美は話題を間違えたと後悔する。
旬が今から向かうバイト先は、約一年前、二人が出会った居酒屋だ。
「まだ続けてたの?」
「うん。あそこ時給わりといいし。店長も気前いいし。あ、ナツのこと今度連れてこいって言ってたよ。ナツ、全然行ってないんだろ?」
「当たり前でしょ! 恥ずかしくて行けるわけないじゃない!」
あの居酒屋は、ナツの自宅のすぐ近くなので、わりと頻繁に行っていたのだが、あの日以来、一度も行ってない。
「ていうか、店長、あたしたちのこと知ってるの?」
「うん。だって俺、言ったし」
「もー……言わなくていいのに」
奈津美は顔を赤くして言った。
「あ。そーだ。今度行ったらさ、また帰りホテル行く?」
旬はニッと笑って言った。
「もう! 何言ってんの! あたしは行かないからね! ていうか、あの時のことは忘れてってば」
「普通彼女との初めてのエッチのこと忘れられるわけないじゃ〜ん? ナツは忘れてるみたいだけどさぁ」
「もう! 旬!」
街中で普通に変なことを口にしたことと、その内容に対して、奈津美は更に顔を赤くして旬をキッと睨む。
「本当、あん時のナツ可愛かったなぁ」
旬のその発言に、奈津美は目を丸くした。
「あ、今もめちゃくちゃ可愛いけど。つうか、ナツはいつどこで何してても可愛い」
そう言って、奈津美に笑顔を向ける。
「どこが?」
無意識に奈津美は聞いていた。
「具体的に、どこが?」
旬の感覚はおかしいと思う。旬といる時の自分は、一番可愛くないはずなのに。そもそも、そんな自分と付き合っている時点でおかしいのか……
「え〜……そんなの恥ずかしくて言えないって」
旬は、照れたように頭を掻いた。
「いいじゃん。何でも! 何がにしろ、俺がナツのこと好きなのは変わんねえもん」
旬の顔が、少し赤い。奈津美もつられて顔を赤くした。
多分、こんな自分を好きだという旬は、相当な物好きだと、奈津美は思った。
そしてそれは、そんな物好きと付き合っている、奈津美も同じだ。