2 いい所
奈津美は何とかいつも通りの時間に出社し、ロッカールームに入ることができた。
「おはよう、奈津美」
先に来ていた同僚のカオルが制服の身だしなみを整えながら奈津美に声をかけた。
「おはよう」
奈津美も挨拶し返して、カオルの向かいの自分のロッカーの鍵を開けた。
「あれ? 奈津美、昨日と服一緒じゃない?」
カオルに言われ、奈津美はぎくりとする。
「あ、また例の年下の彼氏君の家にお泊り?」
カオルがにんまりと笑って言った。
どうして女の勘というのはこうも鋭いのだろう。同じ女でありながら奈津美は思う。だが、奈津美の場合、これが初めてではないというのがあってばれたのかもしれない。
「平日からよくやるわねぇ」
明らかに面白がっている様子でカオルは言った。
「ま、仕事に支障が出ない程度にね」
そう言ってカオルは先にロッカールームを出て行った。
奈津美も急いで着がえようとロッカーの中にかけてある制服をとる。
女性社員は制服が義務づけられていて、普段は面倒にも思うのだが、こういう諸事情で二日連続同じ服の時は、ありがたく思う。私服やスーツの場合、まさか男の家から直行という理由で、二日連続で同じものを着るわけにもいくまい。
制服を着て、奈津美はロッカーの戸の裏についている鏡を見る。口紅が少しはげている。
あの後、旬は何度も謝っていた。
「ナツごめん! 本っ当ごめん!」
さすがに自分がふざけたせいだと思ったらしい。オロオロと慌てながら、ただ謝った。
「もういいよ」
そこまで謝っているのだから責める気もおきず、奈津美はそう言ってティッシュで折れた口紅を拾って床を拭いた。
「ごめん……」
奈津美の言い方がきつくなってしまったのか、旬は俯いて呟いて、まるで捨てられた犬のように切ない表情になった。
「別に怒ってないから……もういいよ? 私も注意してなかったし」
奈津美は両手で旬の頬を挟み、顔を上げさせる。唇に奈津美の口紅がついていたのもティッシュで拭ってやる。
「じゃあ、行ってくるね」
顔をうんと近付け、軽く額と額を当ててそう言った。
「うん……行ってらっしゃい」
やっぱり少し切ない表情のまま、旬は奈津美を見送った。
あれじゃ相当怒ってると思われたかもしれない。いつもなら『何やってんの!?』ぐらい言うから、逆に。
しかし奈津美も急いでいたし、怒ろうという気になれなくてああ言ったのだが……
「そりゃアンタ、チューの一つでもさせてやればよかったんじゃない」
昼休み、社員食堂で今朝の出来事をカオルに話したら、そう返ってきた。
「いきなりそれ?」
「それが一番怒ってないって証明でしょ。それに相手だって喜ぶし」
カオルはあっさりと言う。
「確かにそうだけど……」
カオルの言う通り、旬ならそれで一発で機嫌はよくなるだろう。
「でも旬の場合、調子に乗りそうだし…ていうかあのリップだって買ったばっかでお気に入りだったし」
「何、やっぱり怒ってたの?」
「まあ……少しはね。でもリップ一本で本気で怒るのも大人げないじゃない。まして年下に」
「あぁ。確かにねぇ……」
カオルは納得したように頷いた。
「それに……旬が調子に乗ったら……朝っぱらからシャレにならないし」
奈津美はそう言ってため息をついた。
「盛ってくんの?」
「盛ってくんの」
カオルの言葉の通りに、奈津美は頷いて答える。
「もう……たまにしんどくなる……年中発情期だし、頭の中にそれしかないんじゃないかってぐらい……」
「そりゃそうでしょ。まだ十代なんでしょ? 体も心も性欲で一杯に決まってるじゃない」
こともなげにカオルは言う。
「でもいいじゃない? ご無沙汰よりはそれぐらいで。セックスレスって結構深刻な問題よ?」
明らかに昼から社員食堂で話すような内容ではない。カオルはこういうところはサバサバしている。
「それは……確かに、まあ……」
男女間のそれについて、どれほどの影響があるか、奈津美も十分知っている。
奈津美が旬の前に付き合っていた男とは、それが原因で別れたようなものだ。
そして、それがきっかけで、旬と出会い、付き合い始めたのだから……
「ていうか、アンタらの付き合ったきっかけが原因じゃないの? 名前も知らないうちにホテル連れ込んでヤッちゃったんでしょ? しかも知らなかったとはいえ、未成年を」
「ちょっと! 人聞き悪いこと言わないでよ! 誘ったのは向こうなんだからね!」
際どい言い回しをするカオルに、奈津美は身を乗り出すようにして言い返した。
「でも付いていったんでしょ?」
「それはっ……そうだけど……」
事実を言われ、奈津美の声は小さくなる。
「あ〜……もう。あたしって何で旬と付き合ってるんだろ……」
そう言って奈津美はうなだれた。
「何、いきなり……」
「だって、よく考えたら旬って私の理想とは違うもん」
「奈津美の理想? どんな?」
「年上で、落ち着いてて、誠実で、甘えられる人」
旬は、年下で、落ち着きがなくて、だらしなくて、いつも甘えてくる。全くの逆だ。
「でも甘えてくるのって可愛くない?」
そう言われて考えてみると、浮かんできたのは『ナツ〜』と言って飛び付いてくる旬だった。
「……可愛いって言えば可愛いかもしれないけど……どちらかと言えば、犬?」
それも奈津美が想像しているのは、発情期の、だ。ぴったりかもしれない。
「犬だったら十分可愛いじゃない」
「犬っていっても雑種ね。血統書らしきところは何もないから」
自分で言って、旬の顔がどんどん犬らしく思えてくる。というか、旬はもともとが犬っぽい顔をしていたかもしれない。
「血統書ねぇ。彼氏君って浪人生?」
「ううん。現役で大学受験したけど、滑り止めも全部落ちて……でももう大学には行かないで働くって。……まあ、まだ就職できてなくてバイトだけだけど」
言ってしまえば……すなわち旬はお金も地位も名誉も……良くも悪くもない公立高卒で学歴すらない。
思えば思うほど、旬がダメ男に思えてくる。
「あ、ごめん」
ポケットの中の携帯がバイブの振動をし始めて、奈津美はそれを取り出した。
メールがきている。携帯を開いて操作し、開いてみると、旬からだった。
『ナツ〜★☆★
今昼休み?俺は今からバイト↓
朝はホントごめんな?
サンドイッチめちゃくちゃウマかったよ!さすがナツだな♪ありがとな!』
サンドイッチ一つで、ベタ誉めだ。それにしても、やっぱり、まだ怒ってると思われてるのだろうか……
『どういたしまして☆
朝のことは本当にもう怒ってないよ
バイト頑張ってね。ちゃんとしてくるんだよ?』
手早くそう打って、可愛い絵文字もふんだんに使って、すぐに返信した。
「彼氏君?」
カオルがにんまりと笑って聞いてきた。
「何で分かったの?」
「だってねぇ……」
再び携帯が震える。早い。旬からだ。
『うん! ナツ最高!! 愛してる』
ハートマークを無駄に多く使っている。画面が真っ赤だ。旬が嬉しい時など、こういうメールが多い。奈津美はあれだけしかメールを返してないのに、単純だ。でも、分かりやすい。
「顔、ニヤけてる」
「え!?」
カオルに指摘され、奈津美は画面から顔を上げた。
「その顔見たらすぐ分かるわよ」
そう言われて、奈津美は顔が赤くなるのを感じた。
これは、旬の唯一のいいところなのかもしれない。
旬は、普段の生活はあんなにもだらしないのに、マメなところがある。メールや電話は一日一回は旬からくれる。今朝のサンドイッチのことのように、些細なことでも誉めたり、お礼を言ったり……それに奈津美は『キュン』となる時がある。普段がああなだけに、そのギャップがあるのだろうか。
奈津美は、旬のそういう部分にやられているというのも確かだったりする。