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10 素直な気持ち

これでも削ったのですが……長いです(苦笑)

 奈津美はコーポの階段を一気に駆け上がり、呼吸を乱していた。

 立ち止まって、息を整える。そこに風が吹いて、うっすらと汗をかいた体を冷やした。


 今日は寒い……

 天気予報では確か、この冬一番の冷え込みと言っていた気がする。


 ぞくりと奈津美の背中に悪寒が走った。



「……ふぇっぶしっ!」


 誰かの激しいくしゃみが聞こえて、奈津美は肩を震わせた。誰もいないと思っていたので驚いた。


 しかし、今のくしゃみは何となく聞き覚えがある気がする。


「ぶぇっぷしっ!」


 ……また聞こえた。



 もしかして………


 奈津美は、自分の部屋の方へ小走りで向かった。



 部屋の前は、電灯が点いているとはいえ薄暗い。しかし、奈津美の目にははっきりと映った。


 奈津美の部屋のドアの前にしゃがみ込み、寒そうに体を丸く縮こめている、旬の姿を……



「……旬」

 奈津美は、その名前を呼んだ。自分が思ったよりも小さく細い声になってしまった。


 それでも、旬はすぐに反応して奈津美の方に向いた。


「ナツ!」

 奈津美の顔を見ると、立ち上がって奈津美の前まで寄ってくる。


「お帰り、ナツ!」

 旬はいつものように笑ってそう言った。本当に、何事もなかったかのようだった。


「ただいま……」

 奈津美は、いつも通りの旬につられて、そう返事をしていた。


「旬……本当に、ずっと待ってたの?」


「うん」


「こんなに寒いのに……風邪ひいても知らないわよ」

 言葉はいつも通り、こんな時に限っても可愛げがない。しかし、声は、いつもより力がなかった。


「大丈夫だって。俺、バカだから今まで一回も風邪ひいたことねえもん」

 そう言って、旬は笑った。


 平気そうなことを言ってはいるけど、旬の鼻の頭は寒さで真っ赤だった。本当は寒くてしょうがなかったに違いない。


「ふぇっぶしょん!」

 旬は横を向いて再び派手なくしゃみをする。


「やっぱちょっと寒いな」

 旬は恥ずかしそうに笑って、音をたてて洟を吸った。


 旬は鼻水を垂らしていた。それに気付いていない旬が、何だか情けなくて間抜けな顔で、思わず奈津美の顔が緩んだ。


「旬、鼻水出てる」


「え……マジで!?」

 旬は洟を啜りながら、手の甲で鼻の下を擦った。


 奈津美は、鞄の中からポケットティッシュを取り出して、その一枚を旬の鼻に持っていく。


「ほら、ちゃんとかんで」

 まるで、母親が小さな子供にするようにして、奈津美は言った。


 旬は、派手な音をたてて鼻をかんだ。ジュルジュルと音をたてて、鼻水が出ているのティッシュ越しの感触で分かる。

 こんなことは、旬だからできる。旬だから、別に嫌じゃない。


「うわっ。大量」

 旬自身も驚いたようにそう言った。


 それがおかしくて、奈津美は笑った。


「へへっ」

 旬も、奈津美を見て、いつものように笑った。

 その時にふと触れた鼻先が、とても冷たい。


「寒かったよね……早く中、入ろ」

 できる限りの優しい声を心掛けて奈津美は言った。


「うん」

 旬は、嬉しそうに頷いた。




 奈津美は、部屋に入ると、すぐにエアコンをいつもより温度を高くして付け、こたつの電源も入れた。


「旬、こたつ入ってて」

 奈津美はコートを脱ぎながらそう言った。


「うん」

 旬は一直線にこたつへ向かって体を入れる。


 奈津美はキッチンへ行き、ケトルに水を入れて火にかけた。


「旬、ココアでいい?」

 旬が好きなものを入れようと思い、奈津美は旬に声をかけた。


「うん。ありがと、ナツ」

 旬は上半身で奈津美を振り返って、笑顔で言った。


 奈津美は、湯が沸く間に、カップを二つとココアパウダーを用意する。

 ココアは、旬が好きだから、必ず置いておくようにしている。



 コンロの前に立ち、奈津美は旬の方に背中を向けたまま、黙っていた。


 今日は、いつもより静かだ。エアコンが動いている音がはっきりと聞こえるほど……


 いつもなら、旬がやたらと話し掛けてくる。もしくは、独り言ともつかないような調子で何かを言っている。何せよ、旬が何かしら話すことによって、いつもはその場が持っている。


 でも、今日は、その旬が何も言わないせいか、静かになっている。やっぱり旬も気まずいのだ。


 確かにそれは当たり前だ。いくら旬でも、三日前から今日までの膠着状態があって、いきなりいつも通り、なんてできるわけがない。

 きっと、さっきまでは、必死に装っていたに違いない。


 このまま、旬が口を開くのを待ってるわけにはいかない。こっちから、ちゃんと話を切り出さなくてはいけない。


 三日前のこと、そして、それからずっと連絡を取らなかったこと……それだけでも、謝らなければならない。


 そうは思っていても、なかなか口は動かなかった。


『この前はごめんなさい』

『ずっと連絡も無視してごめんなさい』

『この前言ったのは、本心じゃないから、気にしないで』

『あの時はあたしがどうかしてたの』


 心の中では、言いたいことは次々出てきて繰り返すことができるのに、中々素直に口を開くことができない。


 どうしよう……

 そう思った時だった。


「ナツ……ごめんな」

 旬のそんな声が聞こえた。


「え……?」

 奈津美は驚いて、旬の方に振り返った。


 そこには、きちんと正座して奈津美の方を向いている旬の姿があった。

 旬は、真剣な顔で口を開いた。


「俺……本当、今までナツのことちゃんと考えてなかったっていうか……いや、ナツのことは本当に大好きだし、すっげー大事に思ってるよ! ……でも、知らないうちにナツに甘えてたのは、確かだと思う。ナツがどう思うかとかは、やっぱり考えられてなかった……」

 そこまで言って、旬は俯いた。


「これじゃあ、俺、ナツの彼氏って言えないよな……」

 そう呟くと、顔を上げて再び真剣に奈津美を見つめた。


「でも、これからは気を付けるから……だから……別れるとか、考えないでほしいんだ! 俺は、ナツが一番大切だから…ナツがいないとダメなんだ!」


「旬……違うの!」

 奈津美は慌てて声にした。


「旬は全然悪くないの! あの時は……あたしが勝手にイライラしてて……それで旬に当たるみたいになっちゃって……どうかしてたの。連絡も……何だか気まずくてできなくて……だから、旬のことを悪く思ったわけじゃないの!」


 奈津美が一気に話した様子を見て、旬はきょとんとしていた。


「……じゃあ、別れようとか、思ってない?」

 旬は、神妙に尋ねた。


「うん」

 奈津美は、すぐに頷く。


「じゃあ、これで仲直り?」


「うん」

 奈津美はまた頷く。すると、旬の顔が綻んだ。


「よかった……」

 その一言に、本当に安心しきったような、まさに胸を撫で下ろしたという、そんな気持ちが込もっていた。


「……しゅ」

 奈津美が旬を呼ぼうとしたらタイミングが悪く、ケトルがピーッと高い音をたてた。


 奈津美は慌ててコンロの方に向き直り、火を止めた。


 本当にタイミングが悪い……

 おかげで肝心なことが言えなかった。


 旬に『ごめんなさい』の一言を……


 自分の性格がどれだけ意固地なのか、嫌というぐらい思い知らされる。


 たった一言なのに、何で言えないのだろう……


 旬の方が分かっている。こういう時はどうしないといけないのか……


 結局は、旬まかせだ。さっきのだって、旬が先に口を開いてくれなかったら、何も言えてなかった。言えたところで、謝罪というよりは言い訳で、本当に言わないといけないことは言えてない。


 奈津美は小さくため息をついた。




 ココアを入れて、奈津美は旬のところへ持って行く。


「あ、ありがと、ナツ」

 旬の前にカップを置くと、旬はいつものようにニコッと笑顔を奈津美に向ける。奈津美もつられるように、顔を緩めて、旬のそばに座る。



「ナツ。これ……」

 旬は、ココアを一口飲んで一息つくと、着たままだったダウンジャケットのポケットから、何かを取り出してこたつの上に置いた。


 それは、手のひらと同じぐらいの大きさの黒色で光沢のある紙袋だった。ピンクのリボンで飾られて、プレゼント用のラッピングをされているものだと分かる。


「何? これ……」

 奈津美は、それを見て、首を傾げた。


「開けてみて」

 旬は何だか照れくさそうに笑いながらそう言った。


 意味の分からないまま奈津美は言われた通り、その袋を手にとって裏返し、口をとめてある金色のシールを丁寧にはがして開けた。


 逆さまにして手の上に出てきたのは、小さくて細長い直方体の箱だった。それは、新品の口紅だった。


「旬……これって……」

 奈津美が驚いて旬の顔を見た。


「うん。この前、俺のせいで折っちゃったから……本当は来月に渡そうと思ってたんだけど、その……色々、ナツに嫌な思いもさせてるから、そのお詫びっていうか、さ。あっ、でも別にこれでチャラにして貰おうとか、そういうことじゃないから! ……何ての? 俺なりの誠意っていうか……」

 旬もいっぱいいっぱいらしく、段々しどろもどろになっている。

 それだけで、旬の気持ちが伝わってきた。


「同じバイトの人に聞いたり、雑誌借りたりしてさ、人気あるらしいのにしたんだ。色とか、ナツに合いそうなの選んだんだけど……」

 照れ隠しなのか、下を向いて頭を掻きながら旬は言葉を続けた。


「でも、口紅って高いんだなー。俺、びっくりしたよ。女の人って大変なんだなって改めて思った」

 普通、マナーとして自分があげたプレゼントの値段のことなんて、言ったりしない。でも、旬だから許せる。



 実際、旬がくれたのは、人気ブランドのもので、旬にとっては、大きな買い物だったに違いない。それは、奈津美のためにしてくれたことだ。


「……ありがとう」

 大事に、包み込むようにして、奈津美は口紅を握った。


「へへっ。どういたしまして」

 旬は嬉しそうに、笑った。いつも通りのしまりのないその表情が、奈津美の心をくすぐった。


 それから旬は緩みっぱなしの表情で、ココアを一口飲むと、再び口を開いた。


「俺さぁ……あの時、ぶっちゃけ嬉しかったんだ。ナツが俺のこと心配してくれてたこととか……ナツが言ったこと」



『――これじゃあ、あたしばっかりが旬のこと好きなだけみたい……』



「え……?」

 奈津美は困惑する。

 あの状況で、あの自分勝手な発言が、どうして嬉しいと思えるのか……


「何か……初めてだったからさ。ナツがはっきり俺のこと心配してたとか、好きだって言ってくれたの」

 視線をココアに向けて動かさずに言葉を紡いでいく旬を、奈津美はただただ見つめていた。


「俺……ちょっと不安だったから……いつも、俺だけがナツのこと好きだって言って、俺だけがナツのこと好きなんだと思ってた。ナツが俺のことどう思ってるか、自信なかったんだ。付き合い始めたのも、何だかんだ言って、俺が無理矢理ってとこもあったし……ナツは優しいから、別れようとか言えなかったりしたのかなって思ったり? だったから、嬉しかったんだ」

 旬は、苦笑して、またココアを一口飲んだ。


「あ! でも別にナツに言われたのに懲りてないわけじゃないから! 後でメチャクチャ後悔したし!」

 すぐに慌てた様子で、旬はそうフォローを入れる。


 旬は自分のためにそこまで必死になっているのに、奈津美は、伝えなければならないことを、何一つ言えてない。


 こんな自分のために、旬はこんなに必死になってくれているのに……


「え……ナツ?」

 旬の驚いた声が聞こえた。


 奈津美は涙を流していた。誰かの前で、泣いたのは、小さい頃以来だ。

 それも、旬の前で泣いたのなんて初めてだ。


 奈津美は俯いて、声を出さずに泣き始めた。


「ナツ? ごめん! 俺、また変なこと言った?」

 焦りながら旬は奈津美の顔を覗き込もうとした。


 次の瞬間、奈津美は近寄ってきた旬に抱きついた。

 ぶつかってくるように勢いよく、体重を預けるようにして抱きついてこられた旬は、よろめいて後ろに手をついたが、それでもしっかり奈津美を受けとめた。


「ナツ……?」


 奈津美には見えなかったけれど、旬はきっと呆然として、戸惑っているだろう。

 こんなことは、初めてだ。奈津美が泣いて、奈津美からこうやって旬を抱き締めたことなんて、ほとんどない。


「ナツ……どうした?」

 旬はそっと奈津美の背中に手を回した。


 旬も、どうしたらいいのか分からないというような、そんな戸惑いが、手から伝わってくる。


「旬……ごめん。ごめんね……」

 酷い涙声で、奈津美はやっと旬に謝ることができた。


 旬の首に回した腕に、ほんの少し力を入れた。すると、旬の匂いがした。

 香水などではなく、所謂人の匂い…体臭だ。今まではあまり気が付かなかったし、特に意識もしていなかったけど、今日はとても強く感じられて、奈津美の心を落ち着かせてくれた。


 そうすると、涙が止まらなくなった。奈津美は、ついに嗚咽を漏らしながら、泣きじゃくった。


「ふえぇ……しゅっ、旬……ごめ……ごめんなさ、い……ごめんなさい……」

 奈津美は、まるで小さい子のように、大泣きしながら何度も旬の耳元で謝り続けた。


 旬に対する、色々な思いを込めて……


「ナツ? 何でナツが謝ってんの? つうか、何でそんなに泣いてんの?」

 旬は、こんなに大泣きする奈津美に、パニック状態だっただろう。

 それでも旬は、優しく奈津美の背中を撫でてくれていた。


「あっ、あたしも……不安……だった、の……」

 さっきより酷い声になって、途切れ途切れになりながらも、奈津美は旬に自分の気持ちを話そうとした。


「あ、あたし……何でっ……旬が……あたし、と付き合ってっ……るのか、分かんなく、て……あたしはっ……旬、より…四つも上っ、だし……旬は……む、胸のおっきい人……好き、だから…それだけしか、見てない、のかもって……思っ…たり、それに……ほ、本当に、旬は、あたしが、旬の身の回りのこと……全部してくれるからって、付き合ってるんじゃ…ないかって、本当に、思ったの……旬は、あたしじゃなくても……いいんじゃ、ないかって……あたしの代わりは、他にもいるんじゃないかって……そう思ったら、すごく……嫌だった」


 何でそう思っていたのだろうと、今は思う。


 旬は、いつでもどこでも、奈津美に対して気持ちをさらけ出してくれていた。ちゃんと好きだと言ってくれていた。


 それなのに、あの居酒屋で旬の知り合いが叩いていた軽口の方を鵜呑みにして、消極的な奈津美自身の考えをそうだと思い込んで……


 初めから単純に、素直に、旬の言葉だけを信じていればよかっただけだ。


 旬はこれを聞いて、どう思ったのだろう。流石に、少しは、奈津美に対して怒りを感じただろうか。ずっと、旬のことを、信じてなかったと言ったようなものなのだから……


 でも旬は、奈津美の滅裂な言葉を黙って聞いていた。話している間は、ずっと奈津美の背中を優しく撫でてくれていた。


「ナツ……」

 奈津美の背中を撫でていた旬の手の、もう片方が、奈津美の頭に触れた。


 今度は奈津美の髪を撫でながら、旬が口を開いた。


「前にも言ったかもだけど、俺は……ナツだから、好きなんだよ。もし他に、ナツみたいにおっぱいでかい人がいても、家事全般ができるような人がいても、それがナツじゃないなら、絶対好きになんかならないよ」

 耳元で、旬の優しい声が聞こえる。

 それをもっとよく聞きたくて、奈津美は旬に頬を寄せた。


「ナツ……大好きだよ。俺はナツの全部が好き。ぎゅってすると柔らかくていい匂いがして、しっかり者で優しくて、たまに怒ったり、照れたり、笑ったり……今初めて見たけど、泣いてるとこも。ナツの全部は、俺の中の一部なんだ。……だから、俺はナツがいないとダメなんだ」


 旬は、ありのままの奈津美を受け入れて、好きだと言ってくれている。

 今思えば、旬の前では、素の自分をさらけ出すことができていた。

 そのことに、やっと気付いた。


「旬……あたしも」

 奈津美は旬を抱き締める力を更に込めた。


「あたしも……旬のこと、大好きだよ……大好きだからね……!」


 口にしてみて、とても新鮮で、変に照れくさくて、こうやってはっきりと伝えようとして旬に好きだと言ったのは初めてだと、改めて思い知った。


『――これじゃあ、あたしばっかりが旬のこと好きなだけみたい……』


 そんなことをなかったのに……

 こんなんだったら、旬の方が不安に思って当たり前なのに。


「旬は……だらしなくて、いっつも部屋行くと汚いし、エッチなことばっかしてくるし……本当は、あたしの理想とは全く違うけど……」

 さっきのお返しのように、奈津美は、旬に対して思っていたことを告げる。

 それで出てくるのはやっぱり、あまりいいことではない。


「でも……それでも旬だからっ……旬だから好きだよ! 旬じゃなかったら、一緒に居たいって……離れたくないって、思わないからっ……」


 元はと言えば、勢いで付き合い始めた旬……

 何とかなるだろう。付き合っていけば、きっと好きになっていくだろう。初めはそんな気持ちだった。


 でも、いつの間にか、こんなにも旬のことが好きで、旬のことが愛しくて、奈津美にとってなくてはならない、側に居ることが当たり前の存在になっていた。


「よかった……」

 耳元で旬の安心しきった声を聞くと同時に、奈津美は旬に強く抱き締められた。


「よかった……ナツが、俺のこと嫌いじゃなくて……」


 それを聞くと、おさまりかけていた涙が再びこみ上げてきた。


「……っく……旬……」


「えっ……!? 何でそこで泣くの!?」

 またもや慌てた様子の旬だったが、奈津美自身、何で涙が出るのかいまいち分からなかった。


 でも、安心したような、嬉しいような……少なくとも、悲しみからの涙ではなかった。


「ナツ〜、泣きやめ〜?」

 旬は、そっと抱き締めていた手を離し、両手で奈津美の頬を挟んで撫でる。

 奈津美は顔を上げることが出来ずに、俯いたまま涙を流した。


「ナツ。俺、ナツは笑ってる時の方が好きだよ? だから、笑って?」

 そう言いながら、旬は奈津美の顔を上向きにした。

 旬と目が合う。


「………やっぱ泣いてるとこもめちゃくちゃ可愛い」

 笑顔になって旬は言った。

 言ってることが変わりすぎて、奈津美はおかしくなって吹き出した。


「もうっ……何言ってんの」

 久々の、奈津美の口癖だった。


「あ、やっぱナツはそうじゃないとな」

 旬は奈津美の表情を見て、満足そうに笑った。

 きっと、泣き笑いの変な顔になっていただろうけど、そんなことは気にならなかった。


 指で目元を擦ると、落ちたマスカラとアイラインで黒くなった。


「メイク、落とさないと……」

 奈津美は小さくそう言って旬の腕の中からそっと抜け出した。


 旬に背を向けて、ティッシュで涙を拭いて、いつも使っているクレンジング用のウェットティッシュで落としていく。


 手鏡で見てみると、思った以上に酷い顔をしている。

 目元のメイクが落ちてパンダのようで、目は充血して兎のようだ。


 これでさっきは泣いていたのだから、もっと酷い顔だっはずだ。


 その顔を可愛いと言った旬は、やっぱり物好きだと思いながら、奈津美はメイクを落とした。



 ぐるきゅるるぅ〜〜……


 旬の方からキテレツな音が聞こえ、奈津美は振り返った。


 見ると旬は腹を押さえている。


「ハハッ……そう言えば俺、まだ晩飯食べてなかった。気が抜けたらつい鳴っちまった」

 恥ずかしそうに笑いながら、旬は言い訳した。


 思わず奈津美も笑みを浮かべたが、旬が空腹なのは、奈津美が何時間も待たせてしまったせいだと気付いた。


「旬、何食べたい? 出来るものならすぐ作るから」

 お詫びとしてそのくらいのことはしようと、奈津美は体ごと旬の方に向いた。


「ん〜……じゃあ……」

 旬はじっと奈津美を見ると、ニヤッと笑った。


「ナツ食べたいなぁ……」

 ほんの少し甘えを含んで旬が言った。


 その次の瞬間には、奈津美の体が動いていた。


「……なーんて。……え?」

 笑って冗談にしようとした旬の唇に奈津美の指が触れ、言葉を遮る。


「ナ……ナツ?」

 予想外の出来事に、旬は目を白黒させる。


 奈津美も、まさか自分がこんなことをするなんて、思いもしていなかった。


 奈津美は旬の顔に、お互いの呼吸がかかるほどに近付くと、


「いいよ。食べても……」


 そう言って、旬の唇に自分の唇を合わせた。


 奈津美からこんなに大胆なことをしたのは、初めでだ。きっと、自分も気付かないような本能で旬を求めていたのだ。


 舌を忍ばせてみると、ほんのりとココアの味がした。それを少し味わって唇を離すと、旬は呆然としていた。

 目が泳いでいて言葉を発するのも忘れてしまったかのように、固まっている。


 ――まさか、引かれた?


 あまりに大胆な行動をしすぎて、流石の旬も敬遠してしまったのではないかと、奈津美は不安になる。


「な、なんてねっ」

 恥ずかしくて、そう笑って誤魔化そうとした。ちゃんと笑えているかは分からない。


「ごめん、なんかあるものですぐ作るね」

 その場から逃げようとそう言って奈津美は立ち上がった。


 台所に行こうとした奈津美の手を旬が掴んだ。


「え……旬?」


 旬は、真面目な顔で奈津美を見上げていた。


「ナツを食べる」

 そう言われ奈津美は手を引っばられ、旬の腕の中に収まった。


「いただきます」


 耳元でそんな声が聞こえ、あとは、お互いに求め、求められ……



 二人の愛が、より深まったことを知った一夜になった。

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