1 彼氏
柏原奈津美(二十三歳・OL)の彼氏は、ダメ男。
「ちょっと……何よこれぇ!?」
散らかった部屋を見て、奈津美は叫ぶように言った。
マンションの一室、1Kの少し狭い部屋……そこはゴミ屋敷と化していた。
「あ、ナツ〜」
部屋の持ち主は、床に寝転がり、ビールの缶を持った手を奈津美に向けて振った。
これが奈津美の彼氏・沖田旬(十九歳・フリーター)。付き合って一年になる。
「ちょっと旬! 何でこんなに散らかってるのよ? 一昨日片付けたばっかでしょ!?」
声をあげながら、奈津美はゴミ袋を片手に、そこらに散らかったティッシュやらカップ麺の容器やらビールの空き缶やらを分別し、片付け始めた。
奈津美がこの部屋にくると、毎回部屋の掃除から始める。それが習慣のようになっていた。
「もーっ! なんでゴミはゴミ箱に入れないのよ! いつも言ってるでしょ!」
部屋の中は足の踏み場がないほどにゴミが散らかっているというのに、本来それを納めるはずのゴミ箱は部屋の片隅に追いやられ、ほぼ空だ。
文句を言いながら奈津美は空き缶をゴミ袋にぶちこんだ。
毎回毎回、同じセリフを言って、同じようにピリピリして、こんな風に掃除なんてしたくない。……だったらしなけれはいいのかもしれないが、そういうわけにもいかない。片付けないと、本当に足の踏み場もなく、寛げるスペースなんてないのだから。
「全くもうっ……よくこんな所に寝てられるわね!」
床にそのまま寝転んでいる旬は、ゴミに埋もれるようになっている。それで平気な旬の神経が奈津美にはよく分からなかった。
「あ、今日のナツ、パンツ黒〜♪」
旬がいつの間にか寝転がる向きを変えて奈津美のすぐ後ろからスカートの中を覗いていた。
「やだっ……ちょっと、もうっ! 旬!」
奈津美はスカートを押さえて旬から離れた。
「ナツってばやらしー。あ、そのパンツって俺のため?」
ケラケラと笑いながら旬は奈津美に言った。
「知らない!」
顔が赤くなっているのを隠すため、奈津美は旬に背中を向けて再びゴミを拾う。
「ナッちゃ〜ん」
いきなり旬が後ろから抱きついてきた。
「きゃっ……!? 何、旬!」
奈津美は驚いて声をあげた。
「しよ?」
甘えた声で、可愛く旬は言った。
もちろん、旬が言っていることは、その言い方とは正反対の、男と女の淫らな行為のことだ。
「えっ……」
そのことを分かっているため、奈津美は戸惑った。
「き……今日は会うだけでしょっ! 明日、会社だってあるんだし……」
次の日が休日の時は、そのまま泊まっていくことができるので許せるが、今日は平日。そういうわけにはいかない。それに今日来たのだって、昼間に旬から
『今日会いたい。会えない?』
と、メールがきて、少し悩んだ結果、
『ちょっとだけなら……会うだけね?』
という約束でだ。そういうつもりは全くない。
「旬っ……放して。今、掃除してるんだから」
耳元に旬の少し酒気の帯びた熱い吐息を受け、必死に流されまいと、旬の腕を解こうとする。
「ナツのパンツ見たら発情しちった」
旬はそう言って更に体をくっつけてきた。
「一回だけ……」
「ダメだってば……あっ」
首筋に口付けられ、手が胸の膨らみをしっかりと掴み、奈津美は意識に反して甘い吐息を漏らしてしまった。
「ナツ……」
男らしく囁かれ、次の瞬間には旬の唇に奈津美の唇が塞がれてしまった。
それからは、主導権を旬に握られ、奈津美はただそれに従ってしまった。
やってしまった……
行為の後、ベッドの隣で奈津美を抱き締めるようにして寝息をたてている旬を見て、奈津美はため息に似た吐息を漏らした。
……結局、流されるままに二回目もしてしまった。そのつもりはなかった、と言っても、こういうことは今までに何回もあった。というか、毎回だ。平日にいきなり会うことになって、旬の家に来ると、必ずといっていいほどそのままお泊りコースになってしまう。
毎度毎度、今日は流されまいと、思っているのだが……手技、口技、寝技が得意な旬には、勝つことができない。
時計を見ると、午前二時過ぎだった。
今から帰っても、あまり眠ることはできないだろう。それに……
「ん……」
旬がもぞりと動いて奈津美の体を抱きしめ直した。起きたわけではなく、そうしたらすぐにまた気持ちよさそうに寝息をたて始める。
こんなふうにされたら、腕をほどいて勝手に帰れない。
惚れた弱味というやつなのか、彼氏が年下で、フリーターで金がなくて、だらしなくて家が汚くて、こんな風にワガママに迫られ求められて……こんなダメ男でも、結局は許してしまうのだ。
「……あれ。ナツ、もう起きたの?」
翌朝、目を覚ました旬が、寝起きのかすれた声で言った。
奈津美は、着替えて、出勤のために化粧をしていた。
「だってもう七時よ。旬も起きなくていいの?」
奈津美は鏡に顏を近付け、アイシャドウを塗りながら、旬に言った。
「ん〜……今日バイト昼からだし、まだいい。だるいし」
そう言いながら枕に顏を埋めた。
「……そう」
奈津美は少し声を低くして言った。
だるいのは奈津美も同じだ。しかも、その原因は昨夜の旬の『攻め』のせいであるのに…。
フリーターである旬とは違って、正社員である奈津美は休んだり遅刻するわけにはいかない。別に悪気があるわけじゃないのは分かっているし、まさか旬本人には言えないが、こういうことを言われると癇に障る。
「あれ……ナツ、掃除したの?」
枕から顔を上げて部屋を見渡した旬が言った。
昨夜、掃除が中断され散らかったままだったはずなのに、今はもう綺麗に片付いてゴミ一つ落ちていない。
「うん」
奈津美はただ一つ頷いた。
今日、六時前に目覚めた奈津美は、そろそろ起きてシャワーでも浴びようかと体を起こし、ベッドから下りてゴミを踏んだ。そこで散らかった部屋を見てその状態に耐えられなくなった。そしてまだ時間があるからと思って、シャワーを浴びて、それから部屋の掃除をしたのだ。
奈津美が神経質すぎるせいなのか、朝っぱらから掃除をこなしてしまった。疲労感は二倍だ。
「あ、朝ごはん作ったから、食べたかったら食べて」
台所には、ラップでくるんだサンドイッチが置いてある。旬の好きなハムとチーズのサンドだ。ちなみに皿に置かずにラップでくるんであるのは、皿に置いても、それを旬がちゃんと洗って片付けるか分からないからだ。
「ちゃんとラップはゴミ箱に捨てるのよ? 分かった?」
そこまで考えて、ここまで徹底的に言って、奈津美は本当に旬に甘いと、自分でも思う。
でも、年上として、母性本能が働くのか、自然と世話を焼いてしまう。
「うん」
旬は返事をして、じっと口紅を塗る奈津美を見つめた。
「何? 旬」
奈津美は視線に気付いて、ちらっと一瞬旬を見てから、また鏡に集中する。
「ん〜……女の人が口紅塗るところって色っぽいなぁって思って。でもナツのは他の人の三倍キレイ」
「もう……何言ってんの」
呆れたように笑いながら、照れ臭くて奈津美の頬は少しピンク色に染まった。
「あ。ナツ、今日、チューしてないよ」
旬は思い出したように言って体を起こした。
「チューしよっ」
全裸のままベッドから下りて奈津美のそばに寄ってくる。
「もう……リップ塗ってから言わないで」
「一回だけ一回だけ♪」
そう言うと旬は正面から奈津美を抱き締めて拒否される前に唇を合わせた。
一回だけ……ではあるが、時間をかけ、何度も何度も角度を変えて舌を絡めた濃厚な口付けだった。
やっと唇を離した旬は、奈津美を堪能したことに満足気に笑っていた。
「もう……リップ塗り直さなきゃ」
熱い口付けと抱擁の後でも必死に冷静を装い、出勤のために切り替えて鏡に向き直った。
「ナツ〜」
「きゃっ!」
旬が昨夜のように後ろから抱きついてきた。
「旬! 離してっ。リップ塗れないでしょ! ……やだ、ちょっと! どこ触ってんの!?」
旬は奈津美の太股や腰周りを撫でるように触っていた。それは昨夜、ベッドの中でされた愛撫と同じようなものだった。
「ダメ! あたし今から仕事なんだから……」
「触るだけ〜」
そう言って胸に手を伸ばした。
「やだっ……あっ」
「ナツのエッチ〜。感度いいんだからなぁ」
反応してしまった奈津美を見て、旬がニヤニヤと笑う。
「もうっ! ふざけないで!」
奈津美は真っ赤になって口紅を持った手を振り、旬を引き剥がそうとした。
「あ……!」
勢い良く腕をふった拍子に、奈津美の手から口紅が落ちた。もちろんキャップをつけていない。
床に着地した口紅は見事に根元からポッキリと折れてしまった。