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In the Bar

バー「オアシス」はJR日暮里駅の近くにある。看板を出していないので分かりにくいが、小粋なジャズがかかる大人の憩い場である。


黒くてシックな扉を開けると、止まり木に彼がいるのに気が付いた。彼はよく目立つ。なにしろ全国区で有名であるから。

「こんばんは」

隣に腰を下ろすと、彼はくしゃりと笑った(ように見えた)。

「久しぶりだな」

マスターにビールを注文して、カバンを床に下ろす。書類でパンパンに膨れた営業カバン。

カウンターを滑るように差し出されたビールに、彼は再会の意味を込めて、自分のグラスを小さく打ちつけた。中身はいつものスコッチダブルだろう。

器用に持つんだな。

気持ちよさそうな彼の手を見て、ぼくはぼんやりそんなことを考える。

「彼女とはうまくいったのか」

聞かれてぼくは赤面した。数ヵ月前のことだ。付き合って初めての修羅場を迎え、混乱し、かつ女の子特有の不安定さに辟易していたぼくは、かれに多いに愚痴ったらしい。らしい、というのはぐてんぐてんに酔っ払って記憶が曖昧だからだ。だけど、その時の彼の言葉ははっきりと覚えている。

「仕方ねえよ。女ってものはそういうものだ」

彼はグラスを傾けながら、静かに言った。

「女の面倒を楽しむのが男の甲斐性だ。ひきずられちゃあならねえ」

おお、成程。と非常に感銘を受けたぼくは、心の隅にきちきちに折りたたんでいた余裕を引っ張り出して即ひろげ、それからは密月ラブラブ状態を継続している。

感謝してもし足りないくらいだ。以降、彼を尊敬している。

彼はテレビの中では愛くるしい表情を振りまくだけであったが、実際は非常に聡明で博学だということが分かった。口数は少ないが、共有している空気に親密さが含まれている。

それを一介のサラリーマン――しかも駆け出しのペーペーであるぼくにも向けてくれるのは、何よりも嬉しかった。

そもそも、彼がここにいることを、「オアシス」の常連は見て見ぬふりをしている。誰も騒ぎ立てず、かといって馴れ馴れしくせず、よい距離感を保っていた。酔っ払って愚痴りたおしたのはぼくくらいである。ここに来るようになって、初めて「知っているけど、知らぬふりをして、その存在を好ましく放置している」大人の雰囲気を素敵だと思った。きっと彼も心地良いから、ここにくるのだろう。

「あの、お子さんが生まれたそうですね。テレビで見ました、おめでとうございます」

「ありがとう」

彼は律義に礼を言って、ふいに顔を顰めた。

「大騒ぎだったよ。立ち合いに大勢の人間がくるんだ。おれの女房はマリー・アントワネットじゃねえ」

そういえば、どのチャンネルでも同じニュースばっかりだった。こういう時、ふいに彼――彼たちが可哀想になる。普通に暮らしているのに、絶えず好奇の目にさらされる閉塞感。それは彼らが望んだ訳ではないのだ。好き好んで海を渡った訳じゃあない。

しんみりした空気が流れた。彼のグラスの中の氷がカランとなった音がやけに大きく聞こえた。

「すまん、八つ当たりだ」

「いえ」

マスターに彼と同じものを頼んだ。ただし、シングルで、勿論チェイサー付きで。

その時だった。

黒い扉が乱暴に開いて、賑やかな笑い声が聞こえた。どうやら集団らしい。

誰かと談笑しながら店内に目を向けた、若そうな男が彼をみた瞬間、叫んだ。

「あっ、パンダがいる!」

店内の空気が凍った。

彼は身を固めたし、ぼくは茫然とした。常連客たちは雰囲気をぶち壊した若い男を殺気だった目で睨んでいる。その若い男も、自分の視界に入っているものが信じられない様に微動だにしなかった。

すべてが停止した中で、真っ先に動いたのはマスターである。ひらりと優雅にカウンターから出ると、扉の外へ出ていった。何やら話し合う声が聞こえる。

「あの兄ちゃんら、もうここにはこないよ」

斜交いの常連のおじさんがふくふく笑いながら彼に言った。

「ここは子供の遊び場じゃないからさ」

裸の王様、という童話がある。子供は正直に見たままを言う、教訓を説く童話だ。

でも、すべて正直に見たままを言ってしまっていいのだろうか、とぼくは思う。

善も悪も関係なく、ただ気付きつつも、そっと放置してくれる大人の狡さと優しさが必要な時もある。

そりゃ、ぼくだって始めは正直、驚いた。まさか、扉の向こうにパンダが人間のように座ってしゃべって、一丁前に酒飲んでいるなんて。普通、誰でも驚くだろう。幸いしたのは、ぼくがベロベロに酔っ払っており(酒を飲むと、大概、酒に飲まれるタイプである故)、横にいるのが立派な成人パンダでも「ま、いっか」と考えることを放棄したからである。

マスターが帰ってきた。一人で。

集団は帰ったらしい。

「ご迷惑おかけしました」

一礼して、再びカウンターの中へ戻った。

店内の客たちが無言で、賞賛とねぎらいの気配を寄こした。

マスターが彼らに何を言ったのかは分からないが、常連のおじさんの言うように、もう二度とここには来ないだろう。

この店の雰囲気は心地よい。常連たちが築き上げた雰囲気がある。例え閉鎖的と言われそうとも、マスターはそれを全身全霊で死守しているのだろう。いつか霧散してしまうような儚いものだと知りつつも。

「お子さんの件なんですが」

スコッチを舐めながら、ぼくは言った。

「ニュースを見た時、自分のことのように嬉しかったです。ぼくだけじゃない、きっとこのお店の人たちも」

彼は濡れたような黒い瞳をゆっくり閉じた。

「ありがとう」

声に照れと嬉しさが混じっているのに気が付いて、ぼくまで気恥ずかしくなってしまった。

「お替わりなさいますか」

空になったグラスを見て、マスターが彼に聞いた。

「いや、もう帰るよ。ごちそうさん。いつも通り、上野にツケといてくれ」

彼はゆっくりスツールから立ち上がると

「じゃあな、ボウズ」

ぼくの頭を二度、優しく叩いて、扉の外へ消えた。二本の足でゆっくり歩いて。黒塗りの車がちらりと見えた。

「ボウズはやめてほしいって、何度もいっているのになあ」

頭に手を当てて唇を尖らすと、斜交いのおじさんが、またふくふくと笑った。


バー「オアシス」はJR日暮里駅の近くにある。看板を出していないので分かりにくいが、小粋なジャズがかかる大人の憩い場である。

たまにパンダがいる。静かにスコッチを舐めていたりする。

もし、目撃したとしても、どうか騒ぎ立てないでほしい。ただそっと見守るだけにとどめてほしい。ここはパンダにとっても憩いのオアシスなのだから。


パンダの出産立ち会いに、そんなに人が集まるもんかなと思ったのですが、まあ雰囲気で流してください(笑)。

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