ミドリちゃん
こうなったら相撲よ! あたしと勝負しなさい!」
ミドリちゃんは足を開いて踏ん張ると、びしりと人差し指をあたしに突き出した。
「絶対に嫌」
あたしは丁重に断った。
ミドリちゃんは河童だ。夏休み恒例の田舎に帰った時、祖父に連れて行ってもらった天竜川で知り合った。衝撃の出会いだった。
水で冷えてトイレに行きたいと申し出たあたしに「川の中かその辺でしろ」と祖父は言った。川中で撒き散らして従兄弟や兄に迷惑をかけるのは嫌だったので、あたしは川を渡って向こう岸の藪の中へ入っていった。
そこで不思議なものを見た。薄緑色の奇妙な生き物が、まるでシャツを脱ぐような格好で固まっている。驚いたようにこちらを見ている。あたしもその生き物を見つめ返した。昔話の本の挿絵で見た河童とそっくりだ、もしかして河童?……と思っているうちに河童が泣き出した。まさか、いきなり泣かれるなんて思ってもいなかったから驚いて、「どうしたの?」と聞くと「脱皮しているところを人間に見られた、もうお嫁にいけない」というようなことをしゃっくりの合間に河童は語った。偶然とはいえ、非はあたしにある。
「ごめんね、ごめんね」何度も謝ると、ようやく河童は泣き止んでくれた。
それからしばらく話をした。河童は脱皮後のぐんにゃりした皮を手に握っていて、あたしの尿意はあまりの奇想天外な展開についてゆけず消えていた。
彼女(お嫁にいけないというのだから女の子だろう)はここに一人(匹?)で住んでいる河童で、人間に会ったのはあたしが初めてだと言った。あたしも河童に会ったのは初めてだ。もっと怖い妖怪だと思っていた。祖父が悪戯をしたあたしたちを怒るとき「天竜川に沈めて河童に尻こ玉ぬいてもらうっぺ! ええな!?」と怒鳴るからだ。なに河童って? なに尻子玉って? というクエスチョンマークは彼方に飛んで、あたしたちは恐ろしさのあまり「ごめんなさい!」「もうしません!」とひれ伏した。
横にいる河童の女の子は怖そうな気配など微塵もない。脱皮したての柔らかそうな薄緑の肌に、キラキラ光る水をためた頭上のお皿、思わず引っ張りたくなる黄色いアヒル口(河童だけど)、キュンとつりあがった目は好奇心で輝いている。
「ねえ、名前はなんていうの? あたしは幸甚小学校三年生の天音みき」
困ったような顔で河童は俯いた。
「名前なんかないもん……」
「じゃあ、あたしがつけてあげる、……ええと、ミドリちゃんなんてどう?」
適当に思いついた名前だけど、それは彼女にとてもよく似合っていた。ミドリちゃんもお気に召したらしい。パアッと明るい顔になって嬉しそうに笑った。
「ミドリちゃん」「みきちゃん」
あたしたちはクスクス笑って、繰り返しお互いの名前を呼び合った。大岩の上で足をブラブラさせながら。
遠くで兄たちがはしゃぐ声が聞こえた。
それから東京に帰る日まで、祖父にねだってほとんど毎日、天竜川につれていってもらった。祖父はあたしたちを軽トラの荷台に乗せて運転する。おまわりさんに見つからないように隠れたりするのはスリルがあったし、車内では味わえないダイナミックな振動にはしゃぎながら、あたしたちは荷台を楽しんだ。ドナドナを合唱して売られた子牛の心境にもなったりした。
天竜川に着けば、従兄弟たちや兄はターザンごっこ(川の上の木からロープが垂れ下がっていて、勢いをつけて川に落ちることができる)や滝つぼの飛び込みに夢中になって遊び、あたしとミドリちゃんは大岩の上でのんびり日向ぼっこをしながらその様子を眺め「男ってガキよね」と批評した。
時々、もってきたゾウさんのプラスチックのじょうろで、ミドリちゃんの頭に水をかけてあげた。ミドリちゃんは気持ちよさそうに目を細めて、お礼を言った。
「河童は特別きれいな水じゃなきゃ、生きていけないんだよ。日本にそういう所って少なくなってきているから、あたしはとてもラッキーなんだ」
あたしが教えてあげた言葉を使うときのミドリちゃんは少し得意げだ。
「じゃあ、あたしたちが出会えたのって、奇跡なんだね」
「奇跡ってすごいねえ」
そういいあってあたしたちは二人の友情を誇らしげに思った。
東京に帰る前の日、あたしとミドリちゃんは抱き合って別れを惜しんだ。
「来年、また来るからね。待っていてね」
「絶対だよ? 絶対だよ?」
ミドリちゃんの体はくんにゃり柔らかくて冷たくて、水のひそやかな甘い香りがした。
ミドリちゃんが仰天発言したのは、あたしが中学1年生の時で、もう二人は親友といっていいほどの間柄になっていた。
「みきちゃんの尻小玉がほしいの」
あたしはびっくり仰天して寝そべっていた大岩から身を起こした。
「それは駄目だよ」
ミドリちゃんと知り合って、あたしは河童の本を読んだり、祖父に話を聞いたりした。尻小玉は河童が人間の肛門から抜き取る魂のことである、と知った。魂なんて抜き取られたら、あたしは死んでしまうじゃないか。冗談じゃない、ミドリちゃんは大好きだけどあたしはあたしの人生がある。東京に好きな男の子だっている。
「だって、ものすごくほしいんだもの」
そういうミドリちゃんの顔はうっすら上気していて、あたしは心底、困ってしまった。
「あのさ」
念には念を入れてあたしは聞いた。
「人間って尻小玉抜かれたら、どうなるの? 死んじゃうの? そもそも尻小玉ってどんなのなの?」
「尻小玉は、丸くてキラキラ光ってとてもきれいなの。抜かれた人間がどうなるかは知らないわ。だって誰も教えてくれないし」
ジーザス! とあたしは異国の神の名を心の中で叫んだ。
「でも、大丈夫。そしたらいつでも一緒にいられるよ。いつもみたいにお別れしなくていいんだよ、ずっと一緒にいることができるんだよ」
「嫌だよ」
「みきちゃんは、あたしと一緒にいたくないの?」
「そうじゃないけど、やっぱり嫌だよ」
「みきちゃんの分からんちん!」
ついにミドリちゃんは怒り出した。冗談じゃない、怒りたいのはこっちの方だ。
「こうなったら相撲よ! あたしと勝負しなさい!」
あたしが勝負を辞退したのは意気地がないからではない。ミドリちゃんはものすごく怪力だ。10キロくらいある石なんて、片手で持ち上げてクルクル回せるほどだ。そんなミドリちゃんと自分の命を賭けて勝負なんかできるものか。コンジョーでなんでもかんでもクリアできると思ったら大間違いだ。
タイミングよく、あたしを呼ぶ祖父の声が聞こえた。そろそろおうちに帰る時間なのだろう。
「明日」
仕方なしに、あたしは言った。
「明日、必ず」
ミドリちゃんは無言で頷いただけだった。
勝負を延長したものの名案などあるはずがない。にっちもさっちもいかなくなったあたしは、夕食の後、酒を飲んでいる祖父に相談した。従兄弟たちと兄はテレビを見ている。かしましく笑う彼らに本気で腹が立った。呑気な奴らめ。
「おじいちゃん」
「うん?」
「河童と相撲をとって、絶対に勝つ技ってないのかな」
「ある」
とあっさり祖父は言って、ごにょごにょとあたしの耳にその必勝法をささやいた。
「えー!」
あたしはのけぞった。
「でも、それって卑怯なんじゃあ……」
「んなことあるかい。真剣勝負じゃ、どんなことしても勝ち残るんじゃあー!」
酒臭い息を振りまきながら腕を振り回していた祖父だったが、ふと真顔になった。
「なんじゃ、みき。河童と相撲とるんか」
あたしはあいまいに笑って、おつまみのサキイカに手を伸ばした。
その夜、夢を見た。
静かな暗闇の中で、土色に変色した自分が横たわっている。とても悲しいのに声はでないし、体も動かない。悲しさはどんどん増してゆく。となりにミドリちゃんがぺたんと座っていた。きれいな虹色に光る小さな玉を両手で掲げて、うっとりと見入っていた。気持ちが悪いほど美しい夢だった。
「勝負は一回こっきり」
砂州に片足をひきずって円を描いているあたしに、ミドリちゃんは言った。遠くから兄たちが遊んでいる声が聞こえた。ワーワーキーキー猿みたい。妹が命を欠けて相撲に挑もうとしているのに、どこまで呑気なんだ、と殺意まで沸いた。
「円の外に出たものが負け。それでいい?」
「いい」
ミドリちゃんがゆっくり円の中に入ってくる。あたしより小さいくせに、ものすごく大きく見える。初めてミドリちゃんが怖いと思った。でも、絶対負けられない。
「では」
あたしも円の中に入って、ミドリちゃんと向き合った。
「礼」
そう言って深々と頭を下げる。つられてミドリちゃんも頭を下げた。そのとたんに頭の皿からザーッと水が零れた。
「構えてぇ」
あたしは知らんぷりをして腰を落とす。ミドリちゃんもフラフラになりながら構えた。
「はっけよい、のこったぁ!」
フラフラしたままのミドリちゃんをかかえ、あたしは思いっきり円の外に投げ飛ばした。
頭の皿の水がなくなると河童は力を失う、と祖父は言った。だから相撲をとるときは、礼をしてその水をこぼせ、と。事実力を失ったミドリちゃんは、勢いあまって葦の藪に飛んでいった。
「きゃあああ、大丈夫!?」
慌てて駆け寄ると、ミドリちゃんは蒼白な顔をして起き上がった。体がフルフルと震えている。
「ミドリちゃ……」
「……い」
頭に手を当てて、俯いたまま、ミドリちゃんは低い声で言った。
「みきちゃんなんて、大嫌い!」
言葉の出ないあたしを残して、ミドリちゃんはフラフラと葦の中へ姿を消した。いくらよんでも、姿を現さなかった。
その日から、あたしは四十度の熱を出して生死の淵をさまよった。ミドリちゃんの呪いだと思った。
それからしばらく、田舎へは帰らなかった。やれ受験だ、やれ夏期講習だ、やれ旅行だ、やれサークルだと忙しく過ごしている内に時間は流れて、大学2年の夏、祖父が亡くなった。7年ぶりの田舎は全く変わっていなかった。山も、田んぼも、どっしりした大きな家も、昔からここにあるのが当たり前、というような顔であたしたちを出迎えた。
変わったのは人間の方だ。従弟たちは大人になって、伯父たちは皺が増えて、祖父は彼岸へ旅立った。
祖父の葬式は盛大だった。訪問客はひっきりなしに訪れて、心をこめて冥福を祈った。
翌日、あたしは車を借りて一人で天竜川に行った。道順は脳みそに浸み込まれていた。田舎とこの川はいつもセットだったので、いてもたってもいられなかったのと、もしかしたらミドリちゃんに会えるかもしれないと思ったからだ。
ミドリちゃんは、きっと寂しかったんだろう。ずっとずっと、一人ぼっちで。
あの時のあたしの行いは確かに卑怯だったけど、後悔していない。でも、どうにかして謝りたかった。それが自分のエゴだとしても。
天竜川もまた、変わっていなかった。そういえば伯父が、一時期ダム建設の話が持ち上がったけれど、地元住民の猛反発にあって立ち消えになったと話していたことを思い出した。
グッジョブ地元住民。
ここに人の手が入ったら、ミドリちゃんはどこに行けばいいのか。
「ミドリちゃん」
手にしていた袋がガサガサなった。中にはきゅうりが十本入っている。せめてもの貢物にスーパーで購入したものだ。
「ミドリちゃん、みきだよ。ずっとこなくてごめんね。会いたかったよ」
返事がない。澄んだせせらぎの中で、小鳥が呑気に鳴いているだけだ。
「ミドリちゃ……」
と、目の前流れる川から薄緑色の河童が顔を出した。キュンとつりあがった目が喜びに輝いている。ミニチュアの河童をだっこしている。
「ミドリちゃん!」
あたしは諸手を上げて駆けだした。
盆と正月には、あたしは必ず田舎に帰ることにしている。勿論、ミドリちゃんに会うためだ。