レンズ越しの愛しき人
私の健康は、最新の「パナケイア・システム」によって完璧に守られているはずだった。 胸元のパッチが心拍と血圧を刻一刻と計測し、異常があれば即座にかかりつけの医師にアラートが飛ぶ。数値の上では、私は「20代並みの頑健さ」を保証されていた。
だから、妻が突然「スマートグラスを買いたい」と言い出したときは驚いた。 彼女は機械が大の苦手だ。テレビのリモコン操作でさえ時々首を傾げているような人が、なぜ顔面に装着するようなハイテク機器に興味を持ったのか。
「ほら、最近物忘れも多いし。あなたの顔も、もっとはっきり見ておきたいから」
そう言って照れくさそうに笑う彼女は、それから数ヶ月、慣れない手つきでグラスを調整し続けた。食事中も、リビングでくつろいでいるときも、彼女はグラスをかけ、じっと私を見つめていた。時折、何もない空間を指でなぞる操作に四苦八苦しながら。
ある日の定期面談。いつもは一人で行くのだが、今回は彼女が「私もついていく」と譲らなかった。 「私も、こういう最新の医療というのを体験してみたいの」
面談が終わったあと、彼女は「先生に操作方法を聞きたいから」と診察室に残った。受付で待つ私の耳に、しばらくして慌ただしい足音が聞こえてきた。医師が顔色を変えて私を呼び戻したのだ。
「至急、精密検査を受けてください。……いえ、このまま入院です」
判明したのは、心拍や血圧といった「標準的な数値」には決して現れない、ごく初期の特異な病変だった。 妻がスマートグラスで数ヶ月かけて行っていたのは、操作の練習ではなかった。彼女は、AIの解析メニューにある「非言語情報・微細変化モニタリング」という、プロでも使いこなすのが難しい特殊な録画モードを、独学で回し続けていたのだ。
「先生にこの映像データを解析してもらったの」 手術を終え、麻酔から覚めた私に、彼女は少し疲れた、けれど晴れやかな顔で言った。
「AIの数字は『平均』しか見てくれないでしょう? でも、このグラスのAIは、私が毎日見ていた『あなただけの変化』を学習してくれたの。あなたのまばたきが少し重くなったことも、笑ったときの口角の上がり方が数ミリずれたことも、私には分かっていたんだけど……。あなたが『ちゃんと言葉にしてくれないと信じない』って言うから。だから、AIに翻訳してもらったのよ」
彼女が不器用な指でグラスをいじっていたのは、私の命を救うための、最も解像度の高い「祈り」の時間だったのだ。
私は、彼女の少し節くれだった手を握りしめた。 最新のセンサーでも測れない温かさが、そこにはあった。




