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ちっちゃな公子エルくんの大冒険  作者: 由畝 啓


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3. 霧の都とタウンハウス 3


エルの視界に映った光。その正体は、中庭で稽古をしている少年の剣が反射した太陽の光だった。

剣の持ち主は燃えるような赤髪の少年で、ハシバミ色の目を爛々と光らせている。初めて見る顔だったが、エルは直感する。


「りぇっ、くしゅ、にいさま?」


次女のセラフィーナが言っていた名前を思い出して、エルはたどたどしく発音した。レックスという呼び名は、あいにくエルの口には難しかった。

だが、デニスは笑わない。相変わらずの無表情で、しかし丁寧にエルの疑問に答えた。


「左様にございます。あの方が、フェリクスお坊ちゃまでいらっしゃいます」


フェリクスの相手をしている男は屈強な体をしている。ほぼ間違いなく、フェリクスよりも強いのだろう。相手が怪我をしないように、上手く手加減しながらも弱点を突くようにして指導をしていた。


「あのひと、だれ?」

「フェリクスお坊ちゃまの家庭教師を務めていらっしゃいます、アトキンズ大尉でいらっしゃいます」

「たーい?」


大尉、という言葉もエルは初耳だ。目を瞬かせてデニスを見上げた。デニスは重々しく頷く。


「アトキンズ大尉は元々、フェンシングの大会で何度も優勝されていらっしゃいます。フェリクスお坊ちゃまは将来、軍属を考えていらっしゃるとのことですので、旦那様がアトキンズ大尉にお声がけなされたのです」


エルは無言になった。いつもの癖で、ぽふんと抱きかかえたカートン卿の頭に顔をうずめる。エルのふくふくとした頬っぺたが、さらにむにゅっと膨らんだ。


(どーゆうこと?)

『アトキンズっていう男は強いから、フェリクス坊を鍛えているらしい』

(ふうん。きしさまになりたいって、いってたから?)

『多分、そういうことだろうな』


フェリクスは普段、家に寄り付かないと聞いた。だが、今実際にフェリクスはエルたちの前に居る。

実はアトキンズ大尉が久々に来ると聞いたフェリクスが慌てて戻って来ただけなのだが、エルはそうとは知らない。純粋に、滅多に会えない兄と話をする機会が巡って来たと、それだけを認識した。

エルはきらきらと顔を輝かせ、デニスを見上げる。


「える、にいさまに、ごあいさつしゅる!」

「……は」


デニスは一瞬戸惑った。だが、幼子といえどもエルはデニスにとって仕える主の子息である。

反対する理由もなく、デニスは掃き出し窓を開けた。エルはるんるんと、スキップでもしそうな足取りで──実際はできていないのだが──掃き出し窓からバルコニーに出た。よいしょ、よいしょとバルコニーから中庭に通じる階段を下りる。

以前、エルが泊まった修道院の階段よりも段差が高くて、まだ小さなエルの体にはなかなかの難所だった。

少しはらはらとした雰囲気を滲ませて、デニスも後をついていく。カートン卿も、少し不安な様子でエルに話しかけた。


『抱っこして貰った方が良いんじゃないか?』

(だいじょ、ぶ!)


エルはなんでも自分でしたいお年頃である。

最後の一段を降り立った時、エルは大仕事を成し遂げた気分だった。


「おりた!」

「お上手です」


エルの元気な自己申告にも、デニスは生真面目に答える。エルはデニスの賞賛にさらに気を良くした。

瞳を輝かせて中庭の中央を見ると、小剣(エペ)を手にしたフェリクスとアトキンズ大尉が手を止めて、こちらを凝視している。アトキンズ大尉はエルがハートフォード公爵家の子息だと気が付いたのか、少し改まった態度だった。

そんな二人の元に、エルはとととと走り寄る。フェリクスは不機嫌な表情だったが、少し困った様子でもあった。

フェリクスの足元で立ち止まり、エルは極力きりっと顔を引き締める。そして、自分が思う「一番大人らしい態度」で、エルは挨拶をした。


「こんちあ。えるでしゅ」


畏まると言葉を噛む。相変わらずだが、エルは多少なりとも緊張しているため、自覚がない。エルの背後で、デニスの表情が僅かに歪む。執事としての矜持で、微笑みそうになるのを辛うじて堪えたのだった。


「お──おう」


フェリクスは戸惑いを隠せない。エルの行動は、彼の予想だにしないものだった。

だが、名乗られたからには自分も答えなければならないのだろう、ということは分かった。エルもきらきらとした顔は、明らかにフェリクスの挨拶を期待している。

そっとフェリクスがエルの背後に居るデニスを窺うと、デニスはすぐに了解して、重々しく口を開いた。


「本日、マナーハウスよりお越しになりましたオスニエル様でいらっしゃいます」

「ああ──オスニエルだから()()か」


納得して、フェリクスはエルを見下ろす。


「フェリクスだ。お前の兄だが、俺はこの家に興味がない。お前も俺には関わるな」


律儀に名乗りはしたが、突き放すような言い方だ。普通なら、怖気づいてすぐに立ち去るところである。実際、次女のセラフィーナも同じ理由でフェリクスが少し苦手だった。フェリクスが屋敷に立ち寄ったところに出くわす度、セラフィーナはこそっと自室に引き籠る。可愛らしい子が大好きなロレッタにとってセラフィーナもまた大事な存在で、その度にロレッタはフェリクスに怒りを向けるのだ。


だが、エルはこれまでフェリクスが会った年下の子供の誰とも違った。

きょとんと首を傾げて、うーん、と少し考えた。


「ふぇい、くしゅにいさま、どうよぶの?」

「あ?」


フェリクスにとっては、二度目の予想外だ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、目を瞬かせる。

エルは至極真面目に、自分の気になることを問うた。


「れおにいさまは、れおにいさま。ろーりーねえさまは、ろーりーねえさま。せふぃねえさまは、せふぃねえさま。ふぇ、いくしゅ、にいさまは、りぇっ、くしゅにいさま?」

「あー……呼び名ってことか。別になんでも良いんじゃねえの。この先、会うことはねえと思うし」


突き放しながらも、フェリクスは律儀に答える。

エルは困ってしまった。エルにとって、人の名前は大事なものである。ちゃんと相手の名前を、相手が嬉しいと思うように呼ばなければならない──それは、エルにとっての真実だった。

だが、フェリクスは全く協力的でない。どうしよう、という気持ちが、正直に表情に溢れ出る。今にも泣きそうだ。

そして、それを見て慌てたのはフェリクスだった。自己紹介をしていないアトキンズ大尉は無言のまま、どこか面白がるようにフェリクスを眺めている。しかし、フェリクスは気が付かない。フェリクスは、「わかった、わかったから!」と降参した。


「セフィは俺をレックスって呼ぶけど、その様子じゃお前にはまだ早いだろ。フィルで良い」

「ふぃるにいさま!」


泣きべそから一転、ぱあっと顔を輝かせて、エルはフェリクスを呼ぶ。気に入ったようで、エルは幾度となく「ふぃるにいさま」と繰り返した。

なにより、「ふぃるにいさま」はエルだけの呼び名である。特別感が満載ではないか。他の人はレックスと呼ぶが、フィルとは呼ばない。一気にご機嫌になったエルに、フェリクスは小さく安堵の息を吐いて、自分の頭を乱暴に掻いた。


「……面倒くせえ」


小さくフェリクスはぼやくが、幸いにもエルには届かない。フェリクスを一瞬、呆れた目で見やったアトキンズ大尉は、一歩だけエルに向かって歩み出た。


「オスニエル様。私も自己紹介させていただけますでしょうか」


エルは顔を上げる。

アトキンズ大尉は屈強な体つきで、顔も迫力があった。普通の子供なら泣くに違いない。セラフィーナは事実、アトキンズ大尉が少し苦手である。だが、エルは平気だった。むしろ、かっこういい! と内心で大はしゃぎだった。

しかし、それを態度に見せるのは大人がすることではない。エルは良く知っていた。

きりっと表情を取り繕い、ちゃんとした大人として──子供ではないのだということを示すために、できるだけ威厳を持って答えた。カートン卿をしっかり抱っこしている以上、威厳も何もあったものではないのだが。


「あい。もちりょんでしゅ」


一瞬、アトキンズ大尉の日に焼けた頬が緩む。しかし、アトキンズ大尉も高貴なる小公子の心を傷つけまいと表情を引き締め、しっかりと軍人らしい挨拶をした。


「アトキンズ大尉と申します。閣下──お父上とは昔から、親しくさせていただいております」

「えっと──えるでしゅ」


名前を名乗る以上の自己紹介について、エルは習っていない。ただ、アトキンズ大尉の挨拶が非常に礼儀正しいものだということは、薄々察した。

エルは少しばかり悩んで、こっそりカートン卿に尋ねる。


(ほかに、なにいえばいい?)

『いや、十分だろう。あんまりお前の年齢でしっかりした受け答えしてもびっくりされるだろうしな』

(ぼく、おとなだよ)

『いやまあうん──そうだな』


しっかりとエルはカートン卿に反論して、しかしどうやら自分の挨拶はこれで十分らしいと理解し、もう一度フェリクスを見上げた。


「ふぃるにいさま、ごはん、あえる?」

「あ? ご飯?」

「あい」


フェリクスは顔を顰めたが、エルがどこまでも真剣なのを見て小さく息を吐く。


「ああ、夕飯ってことか。いや、俺は今日は出ない」

「ごはん、たべないの?」

「他で食うから──って、なんでそんな泣きそうな顔してるんだよ!」


エルはふえっと顔を歪めていた。

フェリクスは夕食を食べないと言った。つまり、お腹が空くということだ。お腹が減ると、とてもひもじくて悲しくて切なくなる。幸いにもエルは、アルマのお陰でご飯を食べ損ねるようなことはないが──美味しい食べ物が大好きなエルにとって、食事がないということはこれ以上ない不幸だった。

それに、母ソフィアはエルを部屋に向かわせる時、夕食の席で色々と話をしようと言ったのだ。フェリクスともその時にたくさんお話ができるものだと、エルは信じていた。

悲しみが、エルの小さな体に満ち始める。


デニスのどこか責めるような視線と、アトキンズ大尉の揶揄うような視線が、フェリクスに向けられた。家族に反発していると言っても、フェリクスはまだ十三歳の少年である。子供に泣かれて平然としていられるほど、性根が曲がってもいなかった。


「あー、もう! 分かったってば! 一緒に飯を食えば良いんだろ!」

「たべる!」


ぴょこん、とエルは飛び跳ねる。

先ほどまでの泣きべそはどこへやら、喜色満面でエルはフェリクスに抱き着いた。


「あっぶね!」


咄嗟に、フェリクスは持っていた小剣(エペ)をエルから遠ざけた。万が一にでも小剣(エペ)の切っ先がエルを傷つけたら大変だ。

小さく息を吐いて、フェリクスは自分の腰あたりにあるエルのふわふわな頭をそっと撫でた。突き放そうとしていた割に、優しい手つきだ。フェリクスの顔には微笑が浮かんでいたが、本人に自覚はない。

一方のエルは、フェリクスとの約束を取り付けて十分に満足していた。それに、今のフェリクスは()()()()だ。これ以上邪魔をしてはいけないと理解していた。


「ふぃるにいさま、またね!」


にこにことこの上なくご機嫌なまま、エルは頬を桃色に染めて手を振った。

るんるんと屋敷に戻っていくエルの後ろ姿を見送るフェリクスに、デニスは一言残して踵を返す。


「ご夕食は、フェリクス様の分もご用意いたします」


完全に退路を断たれたと、フェリクスは顔を顰めた。もちろん約束をすっぽかしたら末っ子は泣くに違いない。泣きべそを掻いた表情を思い出せば、夕食に行かないという選択肢は掻き消える。

それでも、何となく腑に落ちなくて、フェリクスは乱暴に小剣(エペ)を振った。


「アトキンズ! 続きをするぞ!」

「いつでも」


フェリクスの言葉にならない心境を察しながらも、アトキンズ大尉は含み笑いをするだけだ。まだ大人になり切れない少年の心境を慮り、紳士らしい態度で対峙する。

爽やかな風が、二人が取り残された中庭を吹き抜けていった。




年が明けましたね。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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