3. 霧の都とタウンハウス 2
エルは目を瞬かせる。
父公爵そっくりに育っている彼は、目を細めて──しかし表情はほとんど変えずに名乗った。
「ライオネルだ。次期当主として忙しくしているから、あまり会う機会もないかもしれないが。私のことは好きに呼ぶといい」
年少の子供相手に容赦のない言葉選びだが、エルは生真面目な顔で神妙に頷いた。
全て正確に理解できたかと問われたら疑問は残るが、少なくとも、「忙しいからあまり会えない」ということ、そして「一番上のお兄さま」だということは理解した。だが、どう呼べば良いのだろうか。
ライオネル──は、まだエルには難しい。
小難しい顔でエルが悩んでいると、傍で眺めていた末の娘が、おっとりと助け舟を出してくれた。
「私はレオお兄様って、お呼びしてるわよぉ」
「! れおにいさま!」
エルは顔を輝かせる。
あまりの可愛らしさに震え続けていたロレッタは、とうとう手近にあったクッションに顔を埋めた。
「……なんて可愛らしいの……っ!」
『なんなんだ、こいつは……』
ロレッタの反応を見たカートン卿は、エルの隣でドン引きしている。エルも先ほどからロレッタのことは気になっていた。
「ろーりーねえさま、だいじょぶ?」
「んん……っ! だ、大丈夫よ……!」
大丈夫と言うが、あいにくと全く無事には見えない。エルが戸惑いを隠さずにいると、横からセラフィーナが口を挟んだ。
「気にしないでぇ、ローリーお姉様はこれが普段通りだからぁ」
おっとりとした口調は、なぜか安心感がある。エルは、セラフィーナに顔を向けて素直にこくりと頷いた。
「あい」
分かった、と生真面目に返答する様は非常に可愛らしい。その場に居る誰もがほんわかとした表情でエルを見守っていた。そしてようやく、最後に公爵である父ヒューバートの番が回って来る。
母ソフィアや兄姉たちを優しく見守っていた公爵は、一人離れた場所に座っていた。おもむろに立ち上がると、エルの前にやって来る。腰を落として視線を合わせると、彼は言った。
「私がお前の父だ、エル。よく来た。これから一緒に暮らせることを嬉しく思う」
そう言いながら、彼はエルを優しく撫でる。エルはこくりと頷いた。
そして、少し考えて首を傾げる。
「これで、みんな?」
「ん?」
エルの意図するところが分からず、全員が首を傾げた。
「みんな、ごあいさつ、した?」
「どういうことだ?」
父ヒューバートが、問うような目を他に向ける。誰も良く分からない様子だったが、すぐに母のソフィアが思い至る。
「まあ。もしかして、フェリクスのことかしら?」
「ふぇいくしゅ?」
フェリクス、とは一体だれか。エルは知らない。
だが、肖像画ではもう一人、兄弟が居たはずなのだ。エルは数も数えられる。今、この場に居るのは、エルを入れて──そしてカートン卿を除いて、六人。だが、肖像画には七人いたはずだ。
父と母、そして兄姉が四人。エルは計算もできるのである。これもまた、病を乗り越えた子供が神の子と言われる所以だった。
「おにいさま?」
エルは、ことりと首を傾げて母を見上げる。母は少し困ったように「そうよ」と頷いた。
「フェリクス──セフィより三つ年上のお兄さまよ。あの子は、なかなか家に寄り付かないものだから」
「おうち、かえってこないの?」
良く分からない、とエルはさらに首を捻る。
「レックスお兄さまは、騎士になりたいのよぉ」
相変わらずのんびりとした口調で、マイペースにセラフィーナが口を挟んだ。エルは、今度は母ソフィアから姉に目を移す。
「きしさまに、なりたいの?」
「そうよぉ」
これまでずっとエルのかわいらしさに身もだえていた長女のロレッタが、ようやくここで復活した。未だにクッションは抱えたままだが、先ほどまでの衝動はどうにかやり過ごしたらしく、普通の態度に戻っている。
「体力だけが取り柄なのよ。私や妹みたいにどこかへ嫁ぐこともないし、レオお兄さまみたいに公爵家を継ぐわけでもない。一昔前なら騎士にもなれたでしょうけど、今のご時世で騎士なんて、もう流行らないわ」
「ローリー、そういう言い方はよしなさい」
少しとげとげしい口調になったロレッタを諫めたのは、母のソフィアだった。ロレッタは肩を竦める。
「ごめんなさい、お母さま」
だが、本気で反省しているかと問われたら疑わしい。
エルは、ロレッタのような態度を他人にする人を見たことがなかった。だから、彼女が弟のフェリクスに対してどのような感情を抱いているのか、エルには推し量ることができない。こっそりと、エルは心の中でカートン卿に話しかけた。
(ろーりーねえさま、おにいさまのこと、きらいなの?)
『さあ、どうだろうな。人間っていうものは、単純に好きだとか嫌いだとか、割り切れないものさ』
(わりきれない、って?)
『お前はアルマのことを好きだろう? でも、アルマに怒られるのは好きじゃないだろう。同じ人間に対しても、好きと嫌いがあるのが普通だ』
(ふうん)
カートン卿の言うことが分かったような分からないような──と、エルは内心でぼやく。カートン卿の話は分かりやすいし、アルマやグレンよりもエルの知りたいことをはっきりと教えてくれる。しかし、エルはカートン卿の話を全て理解できるわけでもなかった。ただ、カートン卿が教えてくれたことを全部覚えていて、後からその真意を理解するということは良くある。
ただ、エルがカートン卿と話をしているとは誰も知らない。
母ソフィアは少し困ったように、しかし何事もなかったかのように、エルに告げた。
「フェリクスが帰ってきたら、その時にまた挨拶をしましょうね」
「あい!」
もちろん、会えるのであればそれが一番だ。エルは楽しみだという気持ちを全面に表して、元気よく頷いた。
フェリクスの名前が出て少し雰囲気が悪くなりかけたが、エルのかわいらしさで誰もが表情を緩める。厳格な雰囲気を醸し出している長兄のライオネルでさえ、眦をわずかに下げていた。
「それじゃあ、エルちゃんのお部屋に案内するわね。おうちからここまで、遠くて疲れちゃったでしょう?」
「える、だいじょぶだよ」
母ソフィアが優しく口を開くが、きょとんとエルは首を傾げる。アルマも、エルが疲れていないか、眠たくないか、頻繁に尋ねるが、その度にエルは平気だと返していた。実際、エルは馬車の中でも良く寝ていたし、むしろ今は初めての場所に興奮している。
しかし、ソフィアは少し困ったように、しかしはっきりと首を振った。
「お夕飯まで、まだ時間があるから。それまで少し、休んでおいたほうが良いと思うの」
その言い方は末女のセラフィーナにずいぶんと似ている──いや、セラフィーナがソフィアに似ているのだ。エルはちらりと横目でセラフィーナを見やったが、少女はどこかエルと似た雰囲気できょとんと小首を傾げてエルを見つめていた。
「おやすみ、するの?」
まだ居間で家族と話をしたいと思いながら、エルは少し抵抗を見せる。
長く得ると接しているアルマならばエルの心境に思い至ったかもしれないが、まだ初対面から一時間も経っていないソフィアたちには無理な話だった。
「おねんねしなくても良いわ。でも、お夕飯になったら言ってあげるから、それまで休憩しておきなさいな。アルマが待っているわよ」
「あるま」
確かに、エルをここまで案内してくれたデニスが、アルマは先に部屋で準備をしていると言っていた。
エルは少し乗り気になった。アルマは大好きだ。家族との交流もしたいが、アルマが待っているのであれば、部屋に戻っても良いかもしれない。
エルが少し乗り気になったのが分かったのか、ソフィアは「そうよ」と力強く頷いた。
「そして、またお夕飯の時に、色々お話を聞かせてちょうだいね」
「うん」
エルはこっくりと首を縦に振った。ソフィアに手を引かれ、片手にカートン卿を抱えたまま、とすんとソファーから降りる。そして、エルは兄姉──長兄のライオネル、長姉のロレッタ、次女のセラフィーナに「またね」と手を振った。
ライオネルは静かに頷き、セラフィーナは胸のあたりで手を振り返してくれた。ロレッタだけは「ま、またね……っ!」とクッションを抱きしめ悶えている。
ソフィアはテーブルの上にあった呼び鈴を鳴らす。すると、部屋の外に控えていたデニスがすぐさま姿を現す。デニスは恭しく口を開いた。
「お呼びでいらっしゃいますか、旦那様、奥様」
デニスに答えたのはソフィアだ。
「ええ。エルを部屋に案内してあげてちょうだい。アルマに、夕飯になったら呼びに行くからエルを食堂まで連れて来てと伝えてね」
「承知いたしました」
慇懃に答え、デニスはソフィアの隣でカートン卿を抱えているエルに視線を移した。
「エルお坊ちゃま、お部屋にご案内いたします」
「あい」
デニスに連れられて、エルは居間を出る。
先ほどとは違う扉を通って、エルはいくつかの小部屋を経由した。廊下も歩いて、階段を素通りする。
「おへや、どこなの?」
「エルお坊ちゃまのお部屋は、皆さまよりも食堂に近い場所にご用意してございます」
幼子が相手でも、玄人意識の強いデニスはきちんと礼儀を尽くす。結果的にエルにとっては少しばかり小難しい表現になっているのだが、子供との交流をほとんどして来なかったデニスは気が付いていない。そして、デニスが、アルマやグレンのように他と自分を区別していないと悟っているエルもまた、大人になった気分でご機嫌だった。
頑張って難しい表情を作って、エルは厳かに──傍から見ると少しぎこちなく、とても可愛らしいことに変わりはなかったが──頷いてみせた。
「あい。いいことでしゅ」
ちょっと背伸びをすると舌足らずになるのはご愛敬だ。エルはこれでも、至極真剣である。
一方のカートン卿は、エルに抱えられたまま、時折足を地面に引きずりそうになっている。だが、カートン卿は自分のそんな状態にも、エルとデニスの会話にもそれほど関心はなかった。つぶらな瞳をキラキラさせている。もちろん、本当に目が輝いているわけではなく、光の反射だったが──心境としては間違っていなかった。
『おお、あれはエヴァレットの作品じゃないか! 初期のものかな?』
(えば……? だれ?)
カートン卿が堪え切れずに漏らした呟きに、エルは首を傾げる。
きょろきょろと視線を動かすと、カートン卿はエヴァレットの作だという絵画の場所を教えてくれた。白いドレスを着た三人の若い女性がカード遊びに興じている絵だ。
『最近、有名になり始めた画家だ。エル坊もハートフォード公爵家の一人だからな。そのうち、画廊で会うこともあるんじゃないか』
(がろー?)
『絵がいっぱい並んでるところだ』
面白くなさそうだな、とエルは素直な感想を抱いた。絵は綺麗だと思うが、たくさんの絵を並べて楽しむことが面白いかどうかと言われると、あまり楽しいとは思えない。だが、カートン卿はエルにはお構いなしに、ひっきりなしに歓声を上げている。デニスにカートン卿の声が聞こえていなくて良かったと思いながら、エルはせっせと足を動かす。
少し進んで中庭に面したバルコニーの前に差し掛かった時、エルは視界の端にきらりとした光を感じた。思わず足を止めて、エルは掃き出し窓から外をじっと見る。すぐに気が付いたデニスも足を止めるが、どうしたのかと問うことはしない。無言で様子を窺っている。
そして、エルは「あっ!」と声を上げた。
視界に一瞬、入った光──その正体が、中庭の中央にあった。
本年もありがとうございました。
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